食事は豪華に
ゴッホの《ひまわり》を、俺はもう一度見つめた。
黄色い花びら。厚く重ねられた絵の具。生命力に満ちた筆遣い。
そこには、単なる花の美しさだけではない、何かが込められているように思えた。
光。
温もり。
そして、誰かを思う気持ち。
それが本当にゴッホの意図したものなのかは、わからない。
だが、少なくとも今の俺には、そう見えた。
以前の俺なら、この絵を見ても「いくらで売れるのか」としか考えなかっただろう。
それが今では、どうしてこの絵が描かれたのか、誰に見せたかったのかを考えている。
……人間になると、ものの見方まで変わるらしい。
「哲夫さん。そろそろ行きましょうか」
「ああ、そうだな」
ソフィアに声をかけられ、俺はようやく絵から目を離した。
名残惜しいが、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
なにしろ、今日は美術館の勉強だけが目的ではないのだから。
……そう。
デートだ。
そのことを思い出すたびに、どうにも胸が落ち着かなくなる。
◇
展示室を出ると、ミュージアムショップがあった。
店内には、ゴッホの作品をあしらった商品が所狭しと並んでいる。
ポストカード、画集、マグカップ、しおり、文房具。
さらには、額装された複製画まであった。
「……へえ。いろいろあるんだな」
俺は、店内を見回した。
美術館の土産物なんて、以前の俺なら見向きもしなかっただろう。
だが、今日は違う。
何か一つくらい、記念に買って帰りたい気分だった。
「ソフィアは、何か買うのか?」
「はい。実は、もう決めているんです」
「……お?」
ソフィアは、嬉しそうに一枚の複製画を手に取った。
描かれているのは、モンマルトルの風車。
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』
「私、この作品が好きなんです」
「……そうなのか?」
「はい。いつかフランスへ行って、実際の風景を見てみたいので」
ソフィアは、絵を見つめながら微笑んだ。
「それまでは、これをお部屋に飾ろうと思います」
「……なるほどな」
俺は、隣の棚へ目を向けた。
そこには、《ひまわり》の複製画が並べられている。
「……じゃあ、俺はこれだな」
俺は、その一枚を手に取った。
「やっぱり、《ひまわり》か」
「ふふっ。哲夫さんらしいですね」
「そうか?」
「はい。今日は、ずっと《ひまわり》を見つめていましたから」
「……まあな」
俺は、苦笑した。
これから自分が描くことになる絵だ。
少しでも参考になるものを、手元に置いておきたい。
もっとも、これは本物ではない。
印刷された複製画にすぎない。
だが、そこに描かれた色彩や構図を、いつでも確認できるのはありがたい。
「……五万円か」
値札を見て、俺は小さくつぶやいた。
額装された限定版の複製画とはいえ、決して安くはない。
以前の俺なら、迷わず購入していただろう。
だが、今は違う。
教会を救うために、少しでも金が必要なのだ。
「……うーん」
俺は、しばらく考え込んだ。
すると、ソフィアが不思議そうに首を傾げた。
「どうしました?」
「いや、ちょっと高いなと思ってさ」
「それでしたら、こちらはいかがですか?」
彼女が指さしたのは、同じ《ひまわり》を印刷した小さな複製画だった。
額は簡素だが、色合いは十分に美しい。
値段も、ずっと手頃だった。
「……おお」
俺は、思わず頷いた。
「これで十分だな」
「ふふっ。大切なのは、お値段ではありませんから」
「……そうだな」
俺は、小さく笑った。
……まったく。
こういうところでも、ソフィアには教えられてばかりだ。
結局、俺たちはそれぞれ気に入った複製画を購入した。
ソフィアは風車。
俺はひまわり。
違う絵を選んだというのに、不思議と同じものを持ち帰るような気分だった。
◇
ショップを出ると、ちょうど昼時になっていた。
「……腹が減ったな」
俺がつぶやくと、ソフィアは嬉しそうに頷いた。
「そうですね。私も、少しお腹が空きました」
そこで目に入ったのが、美術館に併設されたレストランだった。
入口には、ゴッホ展とのコラボレーションメニューが紹介されている。
『星月夜ハンバーグ』
『ひまわりハンバーグ』
……なんだ、この名前は。
美術館のレストランというのは、料理まで芸術作品にするつもりらしい。
「……せっかくだし、入ってみるか?」
「はい!」
ソフィアは、満面の笑みで頷いた。
俺たちは、レストランへ入った。
「いらっしゃいませ! 二名様でしょうか?」
「ああ、二人だ」
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
店員に案内されたのは、窓際の席だった。
大きなガラス窓の向こうには、小さな日本庭園が広がっている。
白砂に描かれた模様。
丁寧に配置された石。
青々と茂る木々。
都会の真ん中にいるとは思えないほど、落ち着いた景色だった。
「……いい席だな」
「本当ですね。とても綺麗です」
ソフィアは、嬉しそうに窓の外を眺めた。
……ふむ。
店員の判断は、なかなか素晴らしい。
俺たちが二人連れだから、気を利かせてくれたのだろうか。
いや、単に空いていただけかもしれないが。
まあ、どちらでもいい。
好きな女の子と、こんな景色を眺めながら食事ができる。
それだけで、十分に贅沢だ。
「こちらがメニューでございます」
店員が、メニュー表を二冊置いていった。
俺は、さっそくページを開いた。
「……ほう」
なかなか凝っている。
ゴッホの作品をイメージした料理が、写真つきで紹介されていた。
どれも美味しそうだ。
だが、残念ながら胃袋は一つしかない。
全部注文するわけにもいかないだろう。
「ソフィアは、決まったか?」
「はい。私は、星月夜ハンバーグにします」
「……星月夜か」
写真を見ると、濃いデミグラスソースの上に、黄色いソースが渦を描くように盛りつけられていた。
まるで、夜空に浮かぶ星々だ。
「……じゃあ、俺はひまわりハンバーグだな」
「ふふっ。やっぱり、ひまわりなんですね」
「ああ。今日はひまわり尽くしだ」
俺は、メニューの写真を見つめた。
中央に置かれたハンバーグ。
その周囲には、黄色いソースが花びらのように広がっている。
……なるほど。
料理で絵画を再現するとは、なかなか面白い発想だ。
「同じハンバーグでも、全然違いますね」
ソフィアが、楽しそうに言った。
「私のは夜空で、哲夫さんのはお花です」
「……そうだな」
「シェフの方も、きっといろいろ考えたのでしょうね」
「ああ。見た目だけじゃなく、味までよければ大したものだ」
「ふふっ。哲夫さんったら」
「……ん?」
「なんだか、審査員みたいですね」
「……いや、普通の感想だろ?」
「せっかくのお料理なんですから、まずは楽しみましょうよ」
ソフィアは、くすくすと笑った。
……まったく。
俺は、そんなに厳しい男に見えるのだろうか。
まあ、悪魔だったころは、人間の欲望につけ込んでいたわけだし。
少しくらい意地悪な性格なのは、仕方がない。
◇
注文を終えると、俺たちは料理が運ばれてくるまで雑談を始めた。
「今日は、楽しかったですね」
ソフィアが、嬉しそうに言った。
「ああ。俺も、いい勉強になったよ」
「特に《ひまわり》は、素晴らしかったですね」
「……そうだな」
俺は、先ほど購入した複製画の袋へ目を向けた。
「帰ったら、また絵を描かないとな」
「ふふっ。神父様の特訓ですね」
「……うっ」
思わず、顔をしかめた。
「その話は、今しないでくれ」
「どうしてですか?」
「昨日の地獄を思い出す」
「……地獄?」
「ああ。線が違う、色が違う、もっと大胆に描け……」
俺は、神父の口調を真似た。
「最後には、教会を描いたはずなのに、廃墟みたいになっていたからな」
「ふふふっ!」
ソフィアは、口元を押さえて笑った。
「でも、哲夫さんは頑張っていますよ」
「……そうか?」
「はい」
彼女は、まっすぐ俺を見つめた。
「私は、そうやって一生懸命頑張っている哲夫さんが好きですよ」
「…………」
……は?
今、何て言った?
好き?
俺のことが?
……いや、待て。
落ち着け、俺。
きっと、そういう意味ではない。
頑張っている姿が好きだという話だ。
だが、それでも。
「……そ、そうか」
俺は、思わず視線を逸らした。
……くそっ。
この少女は、どうしてこうも無防備なのだ。
こっちの心臓が、いくつあっても足りないじゃないか。
「……ところで、ソフィア」
「はい?」
「昼飯を食べ終わったら、どうする?」
俺が尋ねると、彼女は少し考え込んだ。
「……そうですね」
「どこか、行きたい場所でもあるのか?」
「……実は」
ソフィアは、少し恥ずかしそうに口を開いた。
「一度、行ってみたい場所があるんです」
「……どこだ?」
「……ゲームセンターです」
「…………」
俺は、思わず瞬きをした。
「……ゲームセンター?」
「はい!」
ソフィアは、嬉しそうに頷いた。
「前から、憧れていたんです」
「……ゲームセンターに?」
「はい」
彼女は、少し照れくさそうに微笑んだ。
「一度も行ったことがなくて……」
「……マジか」
「はい。普段は、教会のお仕事や、子供たちのお世話がありますから」
……なるほど。
そういうことか。
ソフィアは、普通の高校生が当たり前に経験していることを、あまり知らないのかもしれない。
休日に友達と遊びに行く。
ゲームセンターで遊ぶ。
映画を見る。
カフェでおしゃべりする。
そんな何気ない時間を、彼女は教会のために使ってきたのだ。
「……そっか」
俺は、小さく笑った。
「じゃあ、行こうぜ」
「……え?」
「ゲームセンターだよ」
俺は、窓の外へ目を向けた。
「アメ横のほうにもあるし、昼飯を食ったら寄ってみよう」
「……いいんですか?」
「ああ」
俺は、当然のように答えた。
「今日は、デートなんだからな」
「…………」
ソフィアが、ぴたりと動きを止めた。
……あれ?
何か、おかしなことを言ったか?
「……ソフィア?」
「……デート、ですか?」
彼女は、小さな声で尋ねた。
「……あ」
しまった。
つい、口が滑った。
今まで俺は、心の中で勝手にデートだと思っていただけだ。
ソフィアに、そう伝えたことはなかった。
……まずい。
これは、ちょっと気まずいぞ。
「……いや、その」
俺は、慌てて言葉を探した。
「二人で出かけてるわけだし、まあ、デートみたいなものかなって……」
すると。
「……ふふっ」
ソフィアが、小さく笑った。
「そうですね」
「……え?」
「私も、今日はデートだと思っていました」
「…………」
……は?
ちょっと待て。
今、何て?
「……本当か?」
「はい」
ソフィアは、頬をほんのり赤らめながら微笑んだ。
「哲夫さんと二人でお出かけできるのが、とても楽しみだったんです」
「…………」
……反則だろ。
そんなことを言われたら、嬉しくなるに決まっている。
俺は、思わず顔を背けた。
「……そ、そうか」
「はい」
彼女は、楽しそうに笑った。
……まったく。
悪魔の王子だったころには、こんな気持ちを知らなかった。
誰かを誘惑することはできても、誰かと過ごす時間を心から楽しみにすることなんてなかった。
だが、今は違う。
ソフィアが笑うと、俺も嬉しくなる。
ソフィアが楽しそうにしていると、もっと喜ばせたくなる。
……人間というのは、不思議な生き物だ。
恋を知ると、こんなにも簡単に心を動かされてしまう。
お父様なら、きっと弱くなったと笑うのだろう。
だが。
……それでいい。
俺は、もう誰かを欺いて生きたくない。
大切な人と、こうして笑い合えるのなら。
人間として生きるのも、悪くないじゃないか。
◇
「お待たせいたしました!」
そこへ、店員が料理を運んできた。
「こちらが、星月夜ハンバーグでございます」
「わあ……!」
ソフィアが、目を輝かせた。
濃厚なデミグラスソースの上に、黄色いソースが渦を描いている。
その周囲には、小さな星を模した野菜が散りばめられていた。
まるで、ゴッホの《星月夜》を皿の上に再現したような料理だ。
「そして、こちらがひまわりハンバーグでございます」
「……おお」
俺も、思わず声を上げた。
皿の中央には、こんがりと焼き上がったハンバーグ。
その周囲には、鮮やかな黄色いソースが花びらのように広がっている。
どうやら、カボチャを使ったソースらしい。
「……すごいな」
俺は、感心した。
「本当に、ひまわりみたいだ」
「ふふっ。綺麗ですね」
ソフィアは、嬉しそうに微笑んだ。
「食べるのが、もったいないくらいです」
「……確かにな」
俺は、しばらく料理を眺めた。
絵画を料理にする。
それも、一つの表現なのだろう。
今日の俺は、何を見ても芸術について考えてしまうらしい。
「では、いただきましょう」
「ああ」
俺たちは、手を合わせた。
「いただきます」
ナイフを手に取り、ハンバーグを切り分ける。
肉汁が、じゅわりと溢れ出した。
そこに黄色いソースを絡め、一口食べる。
「…………!」
思わず、目を見開いた。
……うまい!
肉の旨味が、口いっぱいに広がる。
カボチャの自然な甘さが、それを優しく包み込んでいた。
見た目だけの料理かと思っていたが、とんでもない。
味まで、しっかり考えられている。
「……すごいな、これ」
俺は、思わず感心した。
「めちゃくちゃうまいぞ」
「ふふっ。よかったですね」
ソフィアも、自分のハンバーグを口に運んだ。
「……あっ」
彼女の表情が、ぱっと明るくなる。
「私のも、とても美味しいです!」
「……そうなのか?」
「はい。デミグラスソースが濃厚で、すごくいい香りがします」
「……へえ」
俺は、興味深く彼女の皿を見た。
すると、ソフィアは何か思いついたように微笑んだ。
「……そうだ」
「……ん?」
「哲夫さんも、食べてみますか?」
「ああ。いいのか?」
「もちろんです」
彼女は、ハンバーグを一口大に切り分けた。
そして、フォークに刺す。
「はい、あーん」
「…………」
……え?
ちょっと待て。
今、何が起きている?
ソフィアが、俺に向かってフォークを差し出している。
しかも、満面の笑みで。
「……ソフィア?」
「はい?」
「……それ、俺に食べさせるつもりか?」
「はい。どうぞ」
「…………」
……おいおい。
周囲の視線が気になるんだが。
俺は、ちらりと店内を見回した。
近くの席にいた客が、微笑ましそうにこちらを見ている。
……完全に、仲のいいカップルだと思われているな。
いや、実際にデートしているわけだし、間違ってはいないのだが。
「……哲夫さん?」
ソフィアが、不思議そうに首を傾げた。
「……食べないのですか?」
「……いや」
俺は、覚悟を決めた。
ええい、ままよ。
「……あーん」
口を開く。
ソフィアは、嬉しそうにハンバーグを差し出した。
俺は、それを口に運ぶ。
「……うまい」
濃厚なデミグラスソース。
肉の旨味。
ほどよい酸味。
……なるほど。
確かに、こっちも美味しい。
「どうですか?」
「最高だよ」
「ふふっ。よかったです」
ソフィアは、満足そうに微笑んだ。
……まったく。
この少女は、どこまで無邪気なのだ。
……いや、待てよ。
このまま俺だけ食べさせてもらうのは、不公平じゃないか?
「……じゃあ、ソフィア」
「はい?」
「俺のも食べてみるか?」
「……いいんですか?」
「ああ」
俺は、ハンバーグを一口大に切り分けた。
そして、フォークに刺す。
「……ほら、あーん」
「…………」
今度は、ソフィアが固まった。
「……え?」
「……どうした?」
「……その」
彼女は、頬を赤らめた。
「ちょっと、恥ずかしいです」
「……おい」
俺は、思わず苦笑した。
「さっき、俺に同じことをしただろ?」
「……そうでした」
ソフィアは、照れくさそうに笑った。
「自分がされると、こんなに恥ずかしいんですね」
「……そういうことだ」
俺は、少し意地悪く笑った。
「ほら、どうする?」
「……いただきます」
ソフィアは、小さく口を開いた。
俺は、ハンバーグを差し出す。
彼女は、それをゆっくりと口に運んだ。
「…………!」
そして、目を輝かせた。
「……美味しいです!」
「……だろ?」
「はい! カボチャの甘さが、とても優しいですね」
「……そうなんだよ」
俺たちは、顔を見合わせて笑った。
……ああ。
楽しいな。
ただ、一緒に飯を食っているだけだ。
それなのに、こんなにも楽しい。
悪魔だったころの俺には、きっと理解できなかっただろう。
誰かと美味しいものを分け合う。
それだけで、こんなにも幸せな気分になれるなんて。
◇
食事を終えると、俺たちは会計へ向かった。
「……じゃあ、俺が払うよ」
俺が財布を取り出すと、ソフィアは首を横に振った。
「いえ、割り勘にしましょう」
「……え?」
「自分の分は、自分で払います」
「……いや、でも」
俺は、少し戸惑った。
「今日はデートだし、俺が払っても……」
「ふふっ。ありがとうございます」
ソフィアは、優しく微笑んだ。
「でも、哲夫さんばかりに負担をかけたくありません」
「……負担?」
「はい」
彼女は、真面目な表情で続けた。
「これからも、こうして一緒にお出かけできたら嬉しいですから」
「…………」
……これからも。
その言葉が、妙に胸に響いた。
「毎回、哲夫さんにご馳走してもらっていたら、申し訳ないですし」
ソフィアは、少し照れくさそうに笑った。
「お互いに無理をしないほうが、長く楽しめると思うんです」
「……なるほどな」
俺は、ゆっくりと頷いた。
……確かに、そのとおりだ。
大切なのは、どちらが金を払うかではない。
お互いに、無理なく一緒に過ごせることだ。
「……わかった」
俺は、財布をしまい直した。
「じゃあ、今日は割り勘にしよう」
「はい!」
ソフィアは、嬉しそうに頷いた。
……まったく。
こういうところでも、彼女はしっかりしている。
俺より、よほど大人かもしれないな。
◇
レストランを出ると、俺たちは再び美術館の中を歩いた。
まだ少し時間がある。
せっかくなので、再入場が認められている展示室をもう一度見て回ることにした。
最初に見たときとは、不思議と印象が違った。
『ジャガイモを食べる人々』
一足の靴。
モンマルトルの風車。
どの作品にも、描かれた時代や、画家が見つめていた世界がある。
そして。
俺たちは、再び《ひまわり》の前へ戻ってきた。
「…………」
俺は、静かに絵を見つめた。
黄色い花びら。
厚く重ねられた絵の具。
力強い筆遣い。
だが、さっきまでとは違うものが見えていた。
……なるほど。
俺は、少しずつ理解し始めていた。
この絵を、どうすればそっくりに描けるのか。
それだけを考えていては、駄目なのだ。
俺が描きたいのは、清水教会に飾るための《ひまわり》。
ソフィアや、子供たちや、神父様が暮らす場所に似合う絵だ。
ならば、そこに込めるべきものは、決まっている。
……温もりだ。
誰かを迎える喜び。
誰かと食卓を囲む幸せ。
そして、明日も同じ場所で笑い合いたいという願い。
俺は、そんな《ひまわり》を描きたい。
「……ソフィア」
「はい?」
彼女が、こちらを振り向いた。
「……俺、決めたよ」
「……何をですか?」
俺は、目の前の絵を見つめたまま答えた。
「絶対に、《ひまわり》を完成させる」
「…………」
「神父様のためにも、教会のためにも……」
俺は、ゆっくりと拳を握った。
「そして、お前たちのためにも」
ソフィアは、黙って俺を見つめていた。
「俺は、あの教会を守りたい」
言葉にすると、不思議と迷いが消えていった。
「みんなで飯を食って、笑って、くだらない話をして……」
俺は、小さく笑った。
「そういう毎日を、これからも続けたいんだ」
ソフィアの青い瞳が、静かに揺れた。
「……哲夫さん」
「だから、俺は描く」
俺は、もう一度を見つめた。
「ゴッホの絵を、ただ真似するんじゃない」
清水神父との約束。
失われた絵への憧れ。
そして、俺自身が守りたいもの。
それらを、一本の筆に込める。
「俺たちの教会に似合う《ひまわり》を描くんだ」
ソフィアは、しばらく黙っていた。
そして。
「……はい」
優しく微笑んだ。
「私、信じています」
「……え?」
「哲夫さんなら、きっと描けます」
彼女は、まっすぐ俺を見つめた。
「だって、哲夫さんは、もう大切なものを見つけていますから」
「…………」
俺は、言葉を失った。
……大切なもの。
そうだな。
俺は、ようやく見つけたんだ。
悪魔の王子として生きていたころには、決して手に入らなかったもの。
金でも、権力でも、魔力でもない。
ただ、誰かと一緒に笑っていたいという願い。
……それが、今の俺にとって、何よりも大切だった。
「……ありがとう、ソフィア」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに頷いた。
「どういたしまして」
そして、少し悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、哲夫さん」
「……ん?」
「無理はしないでくださいね」
「……ああ」
「絵が完成することも大切ですけれど、哲夫さんが元気でいてくれることも、私には大切ですから」
「…………」
……まったく。
やっぱり、俺はこの少女には敵わない。
どれだけ格好をつけても、最後には彼女の優しさに救われてしまう。
「……わかったよ」
俺は、小さく笑った。
「無理はしない。約束する」
「はい!」
ソフィアは、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見た瞬間、俺は改めて思った。
……ああ。
この笑顔を、守りたい。
誰かを欺くためでもない。
お父様に認められるためでもない。
ただ、俺自身がそう願っているから。
俺は、あの教会を守るのだ。
そして、いつか。
完成した《ひまわり》を、みんなで眺めながら笑いたい。
そんな未来を、俺は心から望んでいた。
――たとえ、残された時間がわずかであっても。
――たとえ、悪魔がその願いを嘲笑ったとしても。
**俺は、俺の手で、みんなのハッピーエンドを描いてみせる。**




