芸術の特訓
「違う! もっと線に勢いをつけなさい!」
「……こうか?」
「いや、違う! もっと大胆に!」
「だから、こうだろ!」
「今度は雑すぎる!」
「……どっちだよ!」
思わず、俺は声を荒らげた。
清水教会の礼拝堂。
その一角に設けられた即席のアトリエで、俺は朝から絵筆を握り続けていた。
目の前には、大きなキャンバス。
そこに描かれているのは、ひまわり……のはずだった。
しかし、どう見ても、黄色い何かである。
花なのか。
野菜なのか。
それとも、未知の生命体なのか。
俺自身にも、判断がつかない。
「……なあ、神父様」
「何だい?」
「これ、本当にひまわりに見えるか?」
清水神父は、しばらくキャンバスを見つめた。
そして、にっこりと微笑んだ。
「……元気な花だね」
「それ、褒めてないだろ!」
「ははは!」
……くそっ。
この神父、意外と容赦がない。
昨日までは、穏やかで慈悲深い老人だと思っていたのに。
絵筆を握った途端、別人のように厳しくなるのだ。
「坂井くん。もっと花の生命力を感じなさい」
「生命力?」
「そうだ。花は、ただそこにあるだけではない。光を浴び、成長し、やがて枯れていく。その時間を、一本の線に込めるんだ」
「……難しいことを言うな」
「芸術とは、そういうものだよ」
神父は、キャンバスを指さした。
「君の線は、まだ形をなぞっているだけだ」
「……形をなぞるだけじゃ駄目なのか?」
「駄目ではない。だが、それだけでは、君自身の絵にはならない」
「…………」
「ゴッホの絵をよく見てごらん。彼の筆遣いには、迷いも、情熱も、生命の躍動も感じられるだろう?」
俺は、手元の画集を開いた。
そこには、ゴッホの《ひまわり》が載っている。
黄色い花。
黄色い背景。
黄色い花瓶。
黄色、黄色、黄色。
……黄色ばっかりじゃないか。
だが、不思議なことに、単調には見えない。
花びらの一本一本に、異なる表情がある。
明るく咲く花。
重そうに頭を垂れる花。
枯れかけた花。
同じ花瓶の中にあるのに、それぞれが違う時間を生きているようだった。
「……なるほど」
俺は、小さくつぶやいた。
「確かに、ただの黄色じゃないな」
「そうだね」
神父は嬉しそうに頷いた。
「ゴッホの絵は、色と筆触が大切なんだ」
「……筆触?」
「絵筆を動かした跡のことだよ。絵の具の厚みや、線の方向。それらが、見る人に独特の印象を与えるんだ」
「……ふむ」
「だから、ただ正確に形を写せばいいというわけではない」
神父は、俺のキャンバスを見た。
「でも、その前に……」
「……ん?」
「君は、基礎からやり直したほうがよさそうだね」
「……え?」
◇
「まずは、遠近法から始めよう」
「……遠近法?」
俺は首を傾げた。
神父は、紙に一本の線を引いた。
「例えば、まっすぐ伸びる道を思い浮かべてごらん」
「……道?」
「ああ。遠くへ行くほど、道幅が狭く見えるだろう?」
「まあ、そうだな」
「それを平面上で表現するための方法の一つが、線遠近法だ」
神父は、紙の中央に小さな点を描いた。
「この点を消失点という。平行な線が、遠くで一点に集まって見えるように描くんだ」
「……なるほど」
俺は、紙を覗き込んだ。
「カメラの構図みたいなものか?」
「そう考えると、わかりやすいかもしれないね」
神父は頷いた。
「ただし、ゴッホの絵を描くには、正確な遠近法だけでは足りない」
「……まだ何かあるのか?」
「もちろん。構図、色彩、明暗、筆触……学ぶことは山ほどあるよ」
「……先が長すぎるだろ」
「ははは。芸術に近道はないからね」
……勘弁してくれ。
こっちは三日しかないんだぞ。
神父は、そんな俺の焦りを知ってか知らずか、一枚の写真を取り出した。
「では、今日はこれを描いてみよう」
「……何だ、これ?」
「清水教会の写真だよ」
写真には、見慣れた白い石造りの教会が写っていた。
屋根の十字架。
古びた窓。
入口へ続く石畳。
そして、庭の芝生。
「まずは、この写真を見ながら、建物の形を捉える練習をしよう」
「……模写か?」
「そうだね。輪郭を観察して、紙の上に描いてみるんだ」
「……よし」
俺は鉛筆を握った。
これなら、さっきのひまわりより簡単そうだ。
なにしろ、毎日見ている教会なのだから。
……そう思っていた。
だが。
「……あれ?」
描き始めて、五分。
俺は、首を傾げた。
屋根の角度がおかしい。
窓の位置もずれている。
入口の扉に至っては、妙に小さい。
「……何だ、これ」
俺は紙を持ち上げた。
そこに描かれていたのは、清水教会……のつもりだった。
だが、どう見ても、建物が傾いている。
「……神父様」
「何だい?」
「俺の教会、倒壊寸前なんだけど」
神父は、絵を覗き込んだ。
そして、しばらく黙った。
「……個性的だね」
「だから、それ褒めてないだろ!」
「ははは!」
……くそっ。
絵画というやつは、想像以上に難しい。
俺は、もう一度描き直した。
だが、やはりうまくいかない。
三枚目。
四枚目。
五枚目。
描いては消し、消しては描く。
その繰り返し。
気づけば、机の上には失敗作が山積みになっていた。
「……うがあああ!」
俺は、思わず頭を抱えた。
「なんで、こんなに難しいんだよ!」
「ふふっ。最初は誰でもそうだよ」
神父は、穏やかに笑った。
「君は、これまで何でも器用にこなしてきたのかな?」
「……まあ、そんなところだ」
悪魔の王子だったころは、魔力を使えば大抵のことができた。
人間を誘惑するのも。
幻覚を見せるのも。
望むものを手に入れるのも。
大して苦労しなかった。
だが、今は違う。
一本の線すら、思いどおりに引けない。
「……情けないな」
俺がつぶやくと、神父は首を横に振った。
「情けなくなんてないさ」
「……え?」
「できないことがあるからこそ、人は学べるんだよ」
神父は、俺の失敗作を一枚手に取った。
「ほら、最初の絵と比べてごらん」
「……ん?」
「窓の位置が、少し正確になっているだろう?」
言われてみれば、確かにそうだった。
最初の絵は、窓があちこちに飛び散っていた。
だが、五枚目では、少なくとも建物らしい形になっている。
「……ほんの少しだけどな」
「その少しが、大切なんだよ」
神父は、優しく微笑んだ。
「芸術は、才能だけで生まれるものではない。観察し、考え、失敗し、また描く。その積み重ねが必要なんだ」
「……なるほど」
俺は、もう一度鉛筆を握った。
「……じゃあ、もう一枚だ」
「うん。頑張ろう」
◇
気づけば、窓の外が赤く染まっていた。
夕暮れだ。
朝から描き続けていたというのに、時間が経つのはあっという間だった。
「……今日は、ここまでにしようか」
清水神父が、静かに告げた。
「……え?」
俺は、思わず顔を上げた。
「もう終わりなのか?」
「ああ。そろそろ夕食の時間だからね」
「……でも」
俺は、机の上に積まれた紙を見つめた。
失敗作ばかりだ。
まともな絵は、一枚も完成していない。
「……これじゃ、間に合わないだろ」
俺は、唇を噛んだ。
「残り三日しかないんだぞ」
暴力団が教会へやって来るまで、あと三日。
その間に、失われた《ひまわり》を再現し、展示会を開き、資金を集めなければならない。
どう考えても、無理難題だ。
「……俺には、無理なのかもしれない」
ぽつりとつぶやく。
すると、神父は俺の肩に手を置いた。
「坂井くん」
「……何だよ」
「三日でゴッホになろうとしなくていいんだよ」
「……え?」
「そもそも、誰もゴッホにはなれないからね」
神父は、穏やかに笑った。
「君は、君の絵を描けばいい」
「……俺の絵?」
「ああ」
神父は、机の上の失敗作を見つめた。
「まずは、物を見ることから始めよう。形を覚えるのではなく、よく観察するんだ」
「……観察?」
「そう。絵を描く前に、絵を見る力を育てる必要がある」
神父は、意味ありげに微笑んだ。
「明日は、その勉強をしてもらおうかな」
「……明日?」
「ああ。ちょうどいい機会があるんだ」
その言葉の意味を、俺が知るのは夕食の席だった。
◇
「皆さーん! 夕食ができましたよー!」
宿舎へ戻ると、ソフィアの明るい声が響いた。
食堂には、すでに三人の子供たちが集まっている。
テーブルの上には、湯気の立つ料理が並べられていた。
「今日は、野菜炒めにしました!」
ソフィアが、嬉しそうに微笑む。
「お野菜もお肉も、しっかり食べてくださいね」
「わあ! 野菜炒めだ!」
「野菜炒め!」
「……おいしそう」
洋子、純子、真美の三人が、嬉しそうに声を上げた。
……相変わらず、何でも喜ぶ子供たちだな。
俺は、思わず苦笑した。
だが、その笑顔を見ていると、不思議と疲れが和らいでいく。
「では、皆さん」
ソフィアが両手を合わせた。
「いただきましょう」
「「「いただきまーす!」」」
「……いただきます」
俺も箸を取った。
一口食べる。
「……うまっ」
思わず、声が漏れた。
シャキシャキとした野菜。
ほどよい塩加減。
肉の旨味が、全体に広がっている。
……うん。
やっぱり、ソフィアの料理はうまい。
「ふふっ。お口に合いましたか?」
「ああ。最高だよ」
「よかったです」
ソフィアは、嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、俺は少しだけ元気を取り戻した。
……まったく。
朝から絵を描いて、散々失敗したというのに。
この少女の料理を食べるだけで、また頑張ろうと思えてしまう。
我ながら、単純な男だ。
「ところで、神父様」
ソフィアが、清水神父に尋ねた。
「哲夫さんの絵は、どうでしたか?」
「……うっ」
俺は、思わず箸を止めた。
……おい。
その話題は、今しなくてもいいだろ。
神父は、少し考えるように顎に手を当てた。
「そうだねえ……」
「……どうですか?」
「例えるなら、泳ぎ方を知らない子供が、初めて海に入ったようなものかな」
「……おい!」
俺は、思わず突っ込んだ。
「そんなにひどかったのかよ!」
「ははは。まだ始めたばかりだからね」
神父は、楽しそうに笑った。
「でも、悪くないよ。坂井くんには、粘り強さがある」
「……粘り強さ?」
「ああ。何度失敗しても、描き直していたからね」
神父は、穏やかに続けた。
「それは、絵を描くうえで大切な才能の一つだよ」
「……そうか」
俺は、少しだけ照れくさくなった。
褒められるとは思っていなかったからだ。
「ただし……」
神父は、意味ありげに笑った。
「まだ、目が育っていないね」
「……目?」
「そう。芸術を見る目だよ」
俺は、首を傾げた。
「……どういう意味だ?」
「君は、見ているつもりでも、実際にはよく見ていないんだ」
「……は?」
「例えば、ひまわりを描くとき、君は『ひまわりとはこういう形だ』と考えてしまう」
「……まあ、そうだな」
「でも、本物のひまわりは、一輪ごとに形が違うだろう?」
「……確かに」
「だから、まずは先入観を捨てて、目の前にあるものを観察することが大切なんだ」
神父は、箸を置いた。
「そこで、ソフィア」
「はい?」
「明日は、何か予定があるかな?」
突然、話を振られたソフィアは、小首を傾げた。
「明日ですか?」
「ああ」
「特にありませんけれど……」
「そうか。それなら、坂井くんと一緒に出かけてほしいんだ」
「……え?」
俺とソフィアの声が、重なった。
神父は、懐から二枚のチケットを取り出した。
「これを使っておいで」
「……何だ、これ?」
俺は、差し出されたチケットを受け取った。
そこには、美術展の案内が印刷されていた。
『ゴッホ展――色彩と情熱の軌跡』
「……ゴッホ展?」
「ああ。上野で開催されている展覧会だよ」
神父は、にっこりと微笑んだ。
「実際の作品を見て、勉強しておいで」
「……なるほど」
俺は、チケットを見つめた。
「本物を見て、目を鍛えるってことか」
「そのとおり」
神父は頷いた。
「画集や写真だけでは、わからないことがたくさんあるからね」
「……例えば?」
「絵の具の厚み。筆の跡。色彩の重なり。そして、作品の前に立ったときに感じる印象」
神父は、穏やかに続けた。
「そういうものを、実際に体験してほしいんだ」
「……ふむ」
「特にゴッホの作品は、写真だけでは伝わりにくい魅力がある」
神父は、少し遠くを見るような目をした。
「彼が見ていた世界を、そのまま見ることはできない。でも、彼が残した絵を通して、その世界に近づくことはできるかもしれない」
「……なるほどな」
俺は、ゆっくりと頷いた。
確かに、画集で見るのと、実物を見るのとでは違うのだろう。
「でも、神父様は行かないのですか?」
ソフィアが尋ねた。
「私も、ご一緒したいですけれど……」
「ありがとう、ソフィア」
神父は、優しく微笑んだ。
「でも、私は弁護士と相談しなければならないんだ」
「……土地の件か?」
俺が尋ねると、神父は頷いた。
「ああ。借金の契約や、土地の権利関係について、まだ調べることが残っているからね」
「……そうか」
「だから、君たちは安心して出かけておいで」
神父は、俺たちにチケットを一枚ずつ渡した。
「二人で、楽しんでくるといい」
「……はい!」
ソフィアは、嬉しそうに頷いた。
……二人で。
その言葉が、妙に耳に残った。
◇
「ところで、坂井くん」
「……ん?」
「ゴッホの絵を見るとき、一つ覚えておいてほしいことがある」
神父は、穏やかな声で続けた。
「彼は、日本の美術に強い関心を持っていたんだ」
「……ああ。それは聞いたことがある」
「浮世絵を収集し、その構図や色彩から影響を受けたことでも知られている」
「……へえ」
「遠近感の扱い方や、大胆な色面の使い方など、学ぶところが多かったのだろうね」
神父は、チケットを指さした。
「だから、彼の絵を見るときは、何が描かれているかだけでなく、どう描かれているかにも注目してほしい」
「……どう描かれているか?」
「ああ」
神父は頷いた。
「例えば、色の使い方。筆の動き。そして、構図」
「……なるほど」
「《夜のカフェテラス》のような作品では、夜の闇と人工の光が印象的だね」
神父は、少し嬉しそうに語り始めた。
「ゴッホは、暗い夜を単なる黒一色では描かなかった。青や黄色を使い、夜の空気や光の輝きを表現している」
「……夜なのに、黒だけじゃないのか」
「そうだよ」
神父は、微笑んだ。
「絵を描くというのは、目に映ったものを機械のように写すことだけではないんだ」
「……ふむ」
「自分が何を感じ、何を見つめたのか。それを、色や形に置き換えることでもある」
俺は、少し考え込んだ。
……自分が感じたものを、描く。
それなら、俺にもできるのだろうか。
いや、まだわからない。
だが、少しだけ興味が湧いてきた。
「……神父様」
「何だい?」
「美しい絵って、どうやって判断するんだ?」
俺の問いに、神父は目を細めた。
「……面白い質問だね」
「……そうか?」
「ああ。美学の中心にある問いの一つだからね」
神父は、ゆっくりと口を開いた。
「例えば、カントは美について、利害から離れた快や、美的判断の普遍性を考えた」
「……カントか」
俺は頷いた。
その名前なら知っている。
かつて読んだ哲学書にも、何度か登場していた。
「……つまり、美しいと判断することが重要なのか?」
「そういう考え方もあるね」
神父は、穏やかに答えた。
「でも、私はもう一つ、大切なものがあると思っている」
「……何だ?」
「美的経験だよ」
「……美的経験?」
「ああ」
神父は、少し考えるように目を閉じた。
「例えば、美しい夕焼けを見たとしよう」
「……うん」
「そのとき、君は『この夕焼けは美しい』と判断するかもしれない」
「……そうだな」
「でも、夕焼けを見ている間に、何を感じたのか。どんな記憶が蘇ったのか。心がどう動いたのか。それも大切だと思わないかい?」
「…………」
俺は、しばらく考え込んだ。
確かに。
同じ夕焼けを見ても、人によって感じ方は違う。
嬉しいと思う人もいれば、寂しいと思う人もいるだろう。
誰かとの思い出を、懐かしく感じる人もいるかもしれない。
「……つまり」
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「美しいかどうかを判断するだけじゃなくて、その美しさをどう体験するかも重要ってことか?」
「そのとおり」
神父は、嬉しそうに頷いた。
「美学には、さまざまな立場がある。美的判断を重視する考え方もあれば、経験そのものに注目する考え方もある」
「……なるほど」
「だから、明日は難しい理屈を考えすぎなくてもいい」
神父は、穏やかに微笑んだ。
「まずは、実際に絵を見て、君自身が何を感じるのかを確かめておいで」
「……俺自身が、何を感じるか」
「ああ」
神父は頷いた。
「それが、君の絵を描く第一歩になるかもしれないからね」
俺は、手元のチケットを見つめた。
ゴッホ展。
美的経験。
芸術を見る目。
……なるほど。
明日は、なかなか勉強になりそうだ。
◇
「ふふっ。楽しみですね、哲夫さん」
ソフィアが、嬉しそうに微笑んだ。
「……ああ、そうだな」
「私、美術館へ行くのは久しぶりなんです」
「……そうなのか?」
「はい。神父様と一緒に行ったことはありますけれど、哲夫さんと行くのは初めてですから」
……そりゃ、そうだろうな。
俺だって、お前と美術館へ行くのは初めてだ。
というか。
……ちょっと待てよ。
俺は、手元のチケットを見つめた。
二枚。
俺とソフィア。
明日は、二人きりで上野へ出かける。
しかも、美術館。
……これって。
「……なあ、ソフィア」
「はい?」
「明日って、俺たち二人だけなんだよな?」
「そうですね」
「……神父様も、子供たちも来ないんだよな?」
「はい」
ソフィアは、きょとんとした顔で頷いた。
「どうかしましたか?」
「……いや」
俺は、視線を逸らした。
……まずい。
これ、どう考えてもデートじゃないか?
好きな女の子と、二人きりで美術館へ行く。
普通に考えれば、立派なデートだ。
しかも、相手はソフィア。
俺が初めて、本気で好きになった女の子だ。
……おいおい。
どうするんだ、俺。
今まで、須美美和子と出かけたことなら何度もある。
だが、あいつとの外出は、悪魔としての仕事や情報交換が目的だった。
そこに、こんな感情はなかった。
胸が落ち着かない。
妙に緊張する。
明日のことを考えるだけで、心臓がうるさい。
……何だ、これ。
悪魔の王子だったころには、経験したことのない感覚だぞ。
「……哲夫さん?」
「……ん?」
「お顔が赤いですよ?」
「……っ!」
俺は、思わず顔を背けた。
「き、気のせいだ!」
「そうですか?」
「ああ! 何でもない!」
ソフィアは、不思議そうに首を傾げた。
その仕草が、また可愛らしい。
……くそっ。
勘弁してくれ。
そんな顔をされたら、余計に意識するだろうが。
「ふふっ。明日は、よろしくお願いしますね」
ソフィアは、にっこりと微笑んだ。
「……ああ」
俺は、どうにか頷いた。
「こちらこそ、よろしく」
……まったく。
悪魔の王子として、数え切れないほどの人間を誘惑してきた俺が。
たった一人の少女の笑顔に、ここまで動揺するとは。
人生というのは、わからないものだ。
俺は、手元のチケットをもう一度見つめた。
明日は、ゴッホ展。
絵画の勉強。
そして、ソフィアとの初めてのデート。
……よし。
せっかくだ。
思い切り楽しんでやろうじゃないか。
もちろん、勉強も忘れずに。
なにしろ、残された時間は少ないのだから。
――こうして、俺の人生で初めての、美術館デートが決まった。
そして俺は、まだ知らなかった。
**その美術館で目にする一枚の絵が、俺の描く《ひまわり》を大きく変えることになるのを。**




