悪魔は幸せを掴めない
「……駄目だな」
目を覚ました俺は、ノートパソコンを開き、株式市場の動向を確認した。
画面には、相変わらず不穏な数字が並んでいる。
中東の和平交渉は決裂。
軍事的緊張はさらに高まり、世界中の金融市場が混乱していた。
その一方で、半導体分野では新たな技術革新が発表され、既存の企業の将来性を巡って投資家たちの思惑が交錯している。
上がる銘柄もあれば、下がる銘柄もある。
だが、その値動きはあまりにも激しかった。
「……もう、手に負えないな」
俺は深いため息をついた。
幸い、手元には二百万円が残っている。
昨日、一千万円まで増やした資金は、結局、元の金額に戻ってしまった。
あれほど必死に取引したというのに、利益はゼロ。
時間だけを浪費した格好だ。
「……何をやっているんだ、俺は」
自嘲気味に笑う。
そもそも、二百万円を二億円に増やそうという発想自体、無謀だったのだ。
百倍。
そんな利益を短期間で得られるなら、世の中の人間は誰も苦労しない。
それなのに、俺はできると思ってしまった。
いや。
できると思いたかったのだ。
金さえ手に入れば、清水教会を救える。
ソフィアを守れる。
あの子供たちの笑顔を守れる。
そう自分に言い聞かせながら、俺はいつの間にか、金そのものに囚われていた。
「……結局、悪魔の思う壺か」
ウォール街には、欲望を煽る悪魔たちが潜んでいる。
かつては俺も、その一員だった。
人間が金に目を眩ませ、冷静な判断を失っていく姿を、何度も笑って眺めていた。
ところが、今度は俺自身が、その誘惑に負けてしまった。
……皮肉なものだ。
悪魔をやめたつもりでいても、心の中から悪魔的な欲望が消えたわけではない。
しかも、お父様は俺の考えを見透かしていた。
あの男が市場の混乱にどこまで関わっているのかはわからない。
だが、少なくとも、俺が苦しむ様子を楽しんでいるのは確かだ。
「……なんでだよ」
俺は両手で顔を覆った。
「なんで、こんなにうまくいかないんだ……」
ただ、幸せになりたいだけなのに。
ソフィアと一緒に、穏やかな日々を送りたいだけなのに。
どうして、それすら叶わないのだろう。
俺は、悪魔の子として生まれた。
人間を誘惑し、騙し、傷つける側の存在だった。
その罪は、簡単に消えるものではない。
だからといって。
これから先も、幸せを望んではいけないのだろうか。
「……神様」
気づけば、俺はそうつぶやいていた。
かつて、あれほど憎んでいた存在。
世界を不公平に作ったと、恨み続けてきた相手。
その神に、今の俺は問いかけている。
「……俺は、どうすればいいんだ?」
返事はない。
当然だ。
神様が、都合よく答えを教えてくれるはずもない。
それでも、俺は目を閉じた。
胸の奥に溜まっていた感情が、どうしようもなく込み上げてくる。
「……くそっ」
目元を拭う。
泣いたところで、二億円が手に入るわけではない。
わかっている。
わかっているのに、悔しかった。
自分の無力さが。
何もできない現実が。
そして、ソフィアとの約束を果たせない自分自身が。
「……会いたいな」
ぽつりと、言葉が漏れた。
ソフィアに会いたい。
あいつの顔を見たい。
ただ、それだけだった。
俺はパソコンを閉じ、椅子から立ち上がった。
そして、ふらつく足取りで部屋を出た。
◇
清水教会の扉を開くと、礼拝堂には静かな光が差し込んでいた。
高い天井。
古い木製の長椅子。
祭壇の奥には、柔らかな表情を浮かべる聖母マリアのステンドグラス。
そして、その前に一人の少女が跪いていた。
清水ソフィアだった。
長い金髪が、窓から差し込む光を受けて淡く輝いている。
彼女は両手を組み、静かに祈りを捧げていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着いた。
「……ソフィア」
俺が名前を呼ぶと、彼女は振り返った。
「あっ、哲夫さん」
ぱっと表情が明るくなる。
「もう、お仕事は終わったのですか?」
「……ああ」
俺は彼女の隣に腰を下ろした。
そして、しばらく黙っていた。
どう説明すればいいのかわからなかったのだ。
あれだけ大口を叩いておきながら、結局、何もできなかった。
そんな自分が、情けなかった。
「……ソフィア」
「はい?」
「……ごめん」
彼女は、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたのですか?」
「二億円……用意できなかった」
俺は俯いた。
「株で増やそうとしたんだ。でも、失敗した」
「……そうだったのですね」
「一時は一千万円まで増えたんだ。なのに、欲張って……全部、元に戻っちまった」
ソフィアは黙って聞いていた。
「……俺、何をやっているんだろうな」
乾いた笑いが漏れる。
「教会を守るって約束したのに。結局、何もできていない」
「…………」
「お父様にも、全部見透かされていた。あの男の言うとおりだよ」
俺は拳を握りしめた。
「俺は、弱い人間になっちまった」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、ソフィアが静かに口を開いた。
「……哲夫さん」
「……なんだ?」
「私は、あなたが弱い人だとは思いませんよ」
「……え?」
顔を上げる。
ソフィアは、穏やかに微笑んでいた。
「だって、哲夫さんは、何度失敗しても諦めずに頑張ってくださったでしょう?」
「……でも、結果が出ていない」
「そうですね」
彼女は、あっさりと認めた。
「お金は、まだ足りません」
「……うっ」
「でも、それと哲夫さんの価値は、別のことだと思います」
俺は、思わず目を見開いた。
「……別?」
「はい」
ソフィアは頷いた。
「二億円を用意できなかったからといって、哲夫さんが駄目な人間になるわけではありません」
「…………」
「それに、教会を守るのは、哲夫さん一人の役目ではありませんよ」
そう言って、彼女は俺の手にそっと触れた。
「私もいます。神父様もいます。みんなで考えれば、きっと何か方法が見つかります」
「……ソフィア」
「だから、そんなに自分を責めないでください」
その言葉に、胸が締めつけられた。
俺は、二億円を用意できなければ、ソフィアに嫌われるのではないかと恐れていた。
役に立たない自分には、彼女の隣にいる資格などないのではないかと。
だが、ソフィアは違った。
俺が金を持っていようが、いまいが。
失敗しようが、成功しようが。
彼女は、変わらず俺を見てくれている。
「……参ったな」
俺は小さく笑った。
「お前には、かなわないよ」
「ふふっ。そうですか?」
「ああ。完敗だ」
ソフィアは、少しだけ嬉しそうに笑った。
そして、祭壇へ向き直る。
「では、哲夫さん」
「……ん?」
「一緒にお祈りしませんか?」
「……祈り?」
「はい」
彼女は両手を組んだ。
「今すぐ答えが見つからなくても、心を落ち着けることはできますから」
俺は、しばらく祭壇を見つめた。
神に祈る。
かつての俺なら、絶対にしなかったことだ。
だが、今は。
「……そうだな」
俺は彼女に倣い、両手を組んだ。
目を閉じる。
何を祈ればいいのか、よくわからない。
だから、心の中で素直に願った。
――どうか、ソフィアたちが笑って暮らせますように。
たった、それだけ。
自分のための願いではなかった。
けれど、不思議と心が軽くなった気がした。
「……きっと、大丈夫ですよ」
隣から、ソフィアの声が聞こえた。
「神様は、私たちを見守ってくださっています。それに、清水神父様もきっと戻ってきます」
「……神父様、か」
「はい」
彼女は、まっすぐ前を見つめた。
「神父様は、私たちを見捨てるような方ではありません」
俺は何も言わなかった。
正直なところ、まだ半信半疑だった。
こんな大変な状況なのに、神父様は一度も姿を見せていない。
本当に、頼っていい相手なのだろうか。
だが、ソフィアは信じている。
それなら、俺も少しくらいは信じてみるべきなのかもしれない。
「……哲夫さん」
「……ん?」
「私たちは、まだここにいます」
ソフィアは、静かに微笑んだ。
「今日も、こうして一緒にお話ができています」
「……ああ」
「明日も、きっと何かできます。だから、今日うまくいかなかったことだけで、すべてを諦めないでください」
俺は、ゆっくりと頷いた。
そうだな。
まだ、終わっていない。
失敗したことは、取り消せない。
だが、これからどうするかは、自分で選べる。
「……ありがとう、ソフィア」
「どういたしまして」
彼女は、いつもの笑顔を浮かべた。
そのときだった。
ギィィ……。
礼拝堂の大きな扉が、ゆっくりと開いた。
「……ん?」
俺は振り返った。
入口に、一人の男が立っていた。
年齢は六十代ほどだろうか。
白髪交じりの髪。
深い皺の刻まれた顔。
くたびれた服装に、少し曲がった背中。
そして、ひどく疲れ切った様子だった。
「……いやはや」
男は、扉に手をついたまま苦笑した。
「年を取ると、長旅も楽じゃないねえ……」
……誰だ、このおっさん。
俺は眉をひそめた。
こんな時間に、教会へ何の用だ?
そう思った瞬間。
「……神父様?」
隣で、ソフィアが小さく声を上げた。
「……え?」
俺が振り返るよりも早く、彼女は立ち上がった。
「清水神父様!」
そして、入口へ駆け出していく。
「おお、ソフィア」
男は、にっこりと微笑んだ。
「ただいま」
「おかえりなさい!」
ソフィアは、嬉しそうに駆け寄った。
しかし、すぐに表情を曇らせる。
「……神父様? そのお怪我は……!」
「ん? ああ、これかい」
男は、自分の腕を見下ろした。
よく見ると、服のあちこちが汚れ、手には包帯が巻かれていた。
「ちょっと、あちこち走り回っていたらね。年寄りには、なかなか堪えるものだよ」
「そんな……無理をなさったのですね」
「ははは。大したことじゃないさ」
男は笑った。
「まだまだ、君たちを見守る仕事が残っているからね」
……この人が、清水神父?
俺は思わず、立ち上がった。
男は俺に気づくと、穏やかな笑みを向けてきた。
「おや。君が坂井哲夫くんかな?」
「……え?」
「ソフィアから、話は聞いているよ」
男は、ゆっくりと近づいてきた。
「初めまして。私は清水。この教会の神父をしている者だ」
「……ど、どうも」
俺は、ぎこちなく頭を下げた。
まさか、本当に帰ってくるとは。
いや、帰ってきたこと自体はいい。
問題は、この男が何を持ち帰ったかだ。
金か。
それとも、教会を救う方法か。
「さて……」
清水神父は、長椅子に腰を下ろした。
「二人とも、少し話を聞いてくれるかな」
その表情から、先ほどまでの笑みが消える。
「この教会の未来について、大切な話があるんだ」
◇
「まず、結論から話そう」
清水神父は、静かに口を開いた。
「私は、弁護士に相談してきた」
「……弁護士?」
俺は眉を上げた。
「ああ。山口組との借金問題についてね」
神父は、深く息をついた。
「実は、この教会は以前、運営資金として一千万円を借り入れたことがある」
「……一千万円?」
「そうだ。だが、相手は法外な利息を要求してきた」
神父は、苦々しそうに続けた。
「一日ごとに一割もの利息を上乗せすると言い出したんだ」
「……は?」
俺は耳を疑った。
「一日一割!? そんな馬鹿な話があるか!」
「そうだね。到底、認められる条件ではない」
神父は頷いた。
「だが、彼らはその金額を膨らませ続け、ついには三億円を要求してきた」
「……ふざけてやがる」
俺は拳を握りしめた。
三億円。
その金を用意するために、俺はどれほど苦労したことか。
お父様に頭を下げ。
暴力団の屋敷へ忍び込み。
株式投資で無茶な勝負までした。
それなのに、そもそもの請求自体が不当だったとは。
「……それで、弁護士は何と?」
俺が尋ねると、神父は少しだけ表情を和らげた。
「法外な利息については、争う余地が十分にあるそうだ」
「……本当か?」
「ああ。少なくとも、相手が要求する三億円を、そのまま支払う必要があるとは考えにくい」
俺は、思わず息を吐いた。
……よかった。
いや、まだ安心するのは早い。
「でも、土地の問題はどうなるんだ?」
「そこが厄介なんだよ」
神父は頷いた。
「借り入れの際、教会の土地に関する重要な書類を相手に預けてしまった。さらに、担保についての契約も交わしている」
「……なるほど」
「弁護士によれば、土地の権利関係を調べ、契約がどのように結ばれたのかを確認する必要があるそうだ」
神父は、悔しそうに目を伏せた。
「だが、肝心の書類の一部が、相手の手元にあるんだ」
「……書類?」
「ああ。土地の権利証や、契約に関する書面だよ」
……土地の権利証。
その言葉を聞いた瞬間。
俺の頭の中で、何かが引っかかった。
「……待てよ」
書類。
土地。
権利証。
……そういえば。
あの屋敷の金庫。
中には、札束など一つもなかった。
あったのは、数枚の紙だけ。
俺は、それを持ち帰ったはずだ。
「……まさか」
俺は、勢いよく立ち上がった。
「哲夫さん?」
ソフィアが驚いたように俺を見る。
「ちょっと待ってくれ!」
「え?」
「確認したいものがある!」
俺は、そのまま礼拝堂を飛び出した。
◇
「……どこだ!」
宿舎の自室へ戻った俺は、鞄を引っ張り出した。
あの夜。
暴力団の屋敷へ持っていった鞄だ。
中身を確かめる。
財布。
小物。
そして――。
「……あった!」
折り畳まれた数枚の書類。
俺は、それを机の上に広げた。
古びた紙。
印鑑。
見慣れない法律用語。
その中に、一つの文字が目に飛び込んできた。
『登記識別情報通知』
「……登記?」
さらに、別の書類を確認する。
そこには、土地の所在地と、清水教会に関する記載があった。
「……おいおい」
俺は目を見開いた。
「まさか、これって……!」
あのとき、ただの紙切れだと思っていた。
金庫の中に金がなかったから、腹いせ半分で持ち帰っただけだった。
だが、もしも。
これが、神父の言っていた書類だとしたら。
「……ビンゴ!」
俺は書類を掴み、部屋を飛び出した。
◇
「神父様!」
礼拝堂へ駆け込むと、ソフィアと神父がこちらを振り返った。
「哲夫さん?」
「これを見てくれ!」
俺は、書類を差し出した。
「……これは?」
清水神父は、怪訝そうに受け取った。
そして、一枚目に目を通した瞬間。
「……っ!」
その表情が変わった。
「……これは……!」
神父は、慌てて次の書類を確認する。
そして、さらに次の一枚へ。
「……間違いない」
震える声で、つぶやいた。
「これだ……!」
「……本当か?」
「ああ!」
神父は、顔を上げた。
「私が探していた、土地に関する書類だ!」
「……おお!」
思わず、俺は声を上げた。
「やっぱり、そうだったのか!」
「だが、哲夫くん」
神父は、急に真剣な顔になった。
「どうして、これを君が持っているんだい?」
「……あ」
しまった。
そこを聞かれるよな。
俺は、気まずそうに視線を逸らした。
「……実は、その」
ソフィアが、じっと俺を見つめている。
……逃げられそうにない。
「……山口組の屋敷に忍び込んだとき、持ってきた」
神父は、目を丸くした。
「……何だって?」
「いや、その……金庫の中に金があると思って……」
「…………」
「でも、金はなくて。代わりに書類があったから……」
俺は頭を掻いた。
「……持ってきちまった」
長い沈黙が流れた。
やがて、ソフィアが口を開いた。
「……哲夫さん」
「……はい」
「やっぱり、あの怪我は……」
「……はい」
彼女は、深いため息をついた。
「もう……本当に、無茶ばかりするんですから」
「……面目ない」
俺は素直に頭を下げた。
神父も、困ったように眉を寄せている。
「哲夫くん。教会を助けようとしてくれた気持ちはありがたい。だが、危険なことをしてはいけないよ」
「……すみません」
「この書類についても、弁護士に経緯を正直に説明して、適切に扱ってもらおう」
「……はい」
神父は、もう一度書類を見つめた。
そして、静かに続けた。
「ただ……これで、調べられることが増えたのは確かだ」
「……え?」
「土地の権利関係や、担保の契約について、弁護士に確認してもらえる」
神父の声には、確かな希望が宿っていた。
「これだけで問題がすべて解決するわけではない。だが、相手の不当な要求に対抗するための、大切な手がかりになるかもしれない」
「……本当か?」
「ああ」
俺は、思わず息を吐いた。
……よかった。
少なくとも、何もかも無駄だったわけじゃない。
もっとも、盗みに入ったことまで正当化されるわけではないが。
「……哲夫さん」
ソフィアが、そっと俺の袖を引いた。
「……ん?」
「ありがとうございます」
「……え?」
「教会を守ろうとしてくださって」
彼女は、少し困ったように微笑んだ。
「でも、もう危険なことはしないでくださいね」
「……ああ」
俺は頷いた。
「約束する」
今度こそ、その約束を守りたかった。
◇
「さて……」
清水神父は、書類を丁寧にまとめた。
「これで、土地の問題については、弁護士と話を進められる」
「……でも、借金そのものは残っているんだろ?」
俺が尋ねると、神父は頷いた。
「ああ。元々借りた一千万円については、返済の問題が残るだろうね。もっとも、これまでの支払いも含めて、正確に計算し直す必要がある」
「……一千万円か」
俺は腕を組んだ。
三億円に比べれば、ずいぶん現実的な金額になった。
だが、それでも大金だ。
俺の手元には、二百万円しかない。
残り八百万円。
簡単に用意できる金額ではなかった。
「……どうするんだ?」
俺は神父に尋ねた。
「一千万円だって、すぐに用意できるわけじゃないだろ?」
「ふふっ」
すると、神父は不思議そうに笑った。
「そのことなら、少し考えがあるんだ」
「……考え?」
「ああ」
神父は、一本の指を立てた。
「展示会を開こうと思っている」
「……展示会?」
俺は首を傾げた。
「何の展示会だ?」
「絵画だよ」
「……絵画?」
「ああ。実はね、私には少しばかり、美術品のコレクションがあってね」
神父は、何でもないことのように言った。
「その中に、ゴッホの作品がいくつかあるんだ」
「…………」
俺は、しばらく固まった。
……ゴッホ?
今、ゴッホって言ったか?
「……神父様」
「何だい?」
「そのゴッホって、もしかして……」
「ああ。フィンセント・ファン・ゴッホだよ」
「…………」
俺は、思わず頭を抱えた。
「いやいやいやいや!」
「おや?」
「ちょっと待ってくれ! あのゴッホか!? 『ひまわり』とか『星月夜』を描いた、あの画家か!?」
「そうだよ」
神父は、あっさりと頷いた。
「……嘘だろ」
俺は、口を開けたまま固まった。
ゴッホの作品。
世界的な美術館が所蔵し、美術市場でも極めて高く評価される、あの画家の作品だ。
もし本物なら、一千万円どころの話ではない。
だが、だからこそ疑問が湧く。
そんなものを、この古びた教会の神父が持っている?
しかも、複数?
「……神父様」
「何だい?」
「失礼だけど、それ、本物なのか?」
俺が尋ねると、神父は穏やかに微笑んだ。
「ふふっ。いい質問だね」
「……え?」
「美術品というものは、作者の名前だけで価値が決まるわけではない。真贋や来歴、保存状態など、確かめなければならないことがたくさんある」
「……まあ、そうだな」
「だから、専門家にも相談してきたんだよ」
神父は、胸元から一通の封筒を取り出した。
「正式な鑑定や売却には、まだ手続きが必要だけれどね」
俺は、その封筒を見つめた。
……この人。
ただの神父じゃないのか?
「……それで、展示会を開いてどうするんだ?」
「作品を皆さんに見てもらい、その後、適切な方法で売却できればと思っている」
神父は、静かに答えた。
「もちろん、すぐに買い手が見つかるとは限らない。だが、教会を守るための資金を集める、一つの方法にはなるだろう」
「……なるほど」
俺は、ゆっくりと頷いた。
確かに、本物のゴッホ作品を所有しているのなら、大きな資金源になり得る。
だが、話がうますぎる。
あまりにも、都合がよすぎるのだ。
「……神父様」
「ん?」
「どうして、そんな高価な絵を持っているんだ?」
俺の問いに、神父は一瞬だけ黙った。
そして、懐かしそうに目を細めた。
「……昔、少し縁があってね」
「……縁?」
「ああ。ずいぶん昔の話だよ」
神父は、それ以上語ろうとしなかった。
その横顔には、どこか寂しげな表情が浮かんでいた。
俺は、思わず口を閉じた。
……何だ?
この人、何か隠しているのか?
「神父様……!」
そのとき、ソフィアが声を上げた。
「それなら、教会は守れるのですね?」
神父は、彼女に向き直った。
「まだ、すべてが解決したわけではないよ」
「……はい」
「でも、希望はある」
そう言って、神父は優しく微笑んだ。
「だから、もう少しだけ、一緒に頑張ろう」
「……はい!」
ソフィアの顔が、ぱっと明るくなった。
彼女は胸の前で両手を組み、嬉しそうに目を閉じる。
「神様……ありがとうございます」
その姿を見て、俺は小さく息を吐いた。
……まったく。
さっきまで、二億円を用意できないと絶望していたのに。
今度は、ゴッホの絵画だと?
神様というやつは、ずいぶん奇妙な方法で人間を助けるらしい。
いや。
まだ、本当に助かったわけではない。
書類の問題もある。
借金も残っている。
ゴッホの絵が本物なのかも、まだわからない。
それでも。
ソフィアの笑顔を見ていると、少しだけ信じてみたくなった。
……奇跡、か。
お父様が、最も嫌っていた言葉。
人間には起こせないと、あの男が笑い飛ばしたもの。
だが、もしかすると。
奇跡とは、何もないところから金が湧いてくることではないのかもしれない。
誰かが諦めずに動き、別の誰かがその努力を受け取り、少しずつ道が開けていく。
そういうものを、人間は奇跡と呼ぶのかもしれない。
「……やれやれ」
俺は小さく笑った。
「まだまだ、終われそうにないな」
すると、清水神父が俺を見た。
「ところで、哲夫くん」
「……はい?」
「君は、美術に興味があるかい?」
「……え?」
突然の質問に、俺は目を瞬かせた。
神父は、意味ありげに微笑んでいる。
「実はね。展示会の準備を、少し手伝ってほしいんだ」
「……俺が?」
「ああ。若い人の意見も聞いてみたいからね」
俺は、思わずソフィアを見た。
彼女は、嬉しそうに頷いている。
「よかったですね、哲夫さん!」
「……いや、まだ何も決まってないんだけどな」
「ふふっ。きっと、楽しくなりますよ」
……まったく。
この少女には、かなわない。
俺は苦笑しながら、もう一度神父を見た。
白髪交じりの髪。
穏やかな笑顔。
そして、胸元にしまわれた一通の封筒。
……清水神父。
いったい、何者なんだ?
その疑問に答えるように、神父は静かに口を開いた。
「では、まずは私のコレクションを見てもらおうか」
――こうして俺は、清水教会に隠されていた、もう一つの秘密を知ることになる。
そして、その秘密こそが。
**お父様の企みを覆す、最初の一手になるのだった。**




