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借金まみれのシスターですが、元悪魔の俺に愛されてもいいですか?  作者: ウイング神風


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23/28

悪魔は幸せを掴めない

「……駄目だな」


 目を覚ました俺は、ノートパソコンを開き、株式市場の動向を確認した。


 画面には、相変わらず不穏な数字が並んでいる。


 中東の和平交渉は決裂。


 軍事的緊張はさらに高まり、世界中の金融市場が混乱していた。


 その一方で、半導体分野では新たな技術革新が発表され、既存の企業の将来性を巡って投資家たちの思惑が交錯している。


 上がる銘柄もあれば、下がる銘柄もある。


 だが、その値動きはあまりにも激しかった。


「……もう、手に負えないな」


 俺は深いため息をついた。


 幸い、手元には二百万円が残っている。


 昨日、一千万円まで増やした資金は、結局、元の金額に戻ってしまった。


 あれほど必死に取引したというのに、利益はゼロ。


 時間だけを浪費した格好だ。


「……何をやっているんだ、俺は」


 自嘲気味に笑う。


 そもそも、二百万円を二億円に増やそうという発想自体、無謀だったのだ。


 百倍。


 そんな利益を短期間で得られるなら、世の中の人間は誰も苦労しない。


 それなのに、俺はできると思ってしまった。


 いや。


 できると思いたかったのだ。


 金さえ手に入れば、清水教会を救える。


 ソフィアを守れる。


 あの子供たちの笑顔を守れる。


 そう自分に言い聞かせながら、俺はいつの間にか、金そのものに囚われていた。


「……結局、悪魔の思う壺か」


 ウォール街には、欲望を煽る悪魔たちが潜んでいる。


 かつては俺も、その一員だった。


 人間が金に目を眩ませ、冷静な判断を失っていく姿を、何度も笑って眺めていた。


 ところが、今度は俺自身が、その誘惑に負けてしまった。


 ……皮肉なものだ。


 悪魔をやめたつもりでいても、心の中から悪魔的な欲望が消えたわけではない。


 しかも、お父様は俺の考えを見透かしていた。


 あの男が市場の混乱にどこまで関わっているのかはわからない。


 だが、少なくとも、俺が苦しむ様子を楽しんでいるのは確かだ。


「……なんでだよ」


 俺は両手で顔を覆った。


「なんで、こんなにうまくいかないんだ……」


 ただ、幸せになりたいだけなのに。


 ソフィアと一緒に、穏やかな日々を送りたいだけなのに。


 どうして、それすら叶わないのだろう。


 俺は、悪魔の子として生まれた。


 人間を誘惑し、騙し、傷つける側の存在だった。


 その罪は、簡単に消えるものではない。


 だからといって。


 これから先も、幸せを望んではいけないのだろうか。


「……神様」


 気づけば、俺はそうつぶやいていた。


 かつて、あれほど憎んでいた存在。


 世界を不公平に作ったと、恨み続けてきた相手。


 その神に、今の俺は問いかけている。


「……俺は、どうすればいいんだ?」


 返事はない。


 当然だ。


 神様が、都合よく答えを教えてくれるはずもない。


 それでも、俺は目を閉じた。


 胸の奥に溜まっていた感情が、どうしようもなく込み上げてくる。


「……くそっ」


 目元を拭う。


 泣いたところで、二億円が手に入るわけではない。


 わかっている。


 わかっているのに、悔しかった。


 自分の無力さが。


 何もできない現実が。


 そして、ソフィアとの約束を果たせない自分自身が。


「……会いたいな」


 ぽつりと、言葉が漏れた。


 ソフィアに会いたい。


 あいつの顔を見たい。


 ただ、それだけだった。


 俺はパソコンを閉じ、椅子から立ち上がった。


 そして、ふらつく足取りで部屋を出た。


 ◇


 清水教会の扉を開くと、礼拝堂には静かな光が差し込んでいた。


 高い天井。


 古い木製の長椅子。


 祭壇の奥には、柔らかな表情を浮かべる聖母マリアのステンドグラス。


 そして、その前に一人の少女が跪いていた。


 清水ソフィアだった。


 長い金髪が、窓から差し込む光を受けて淡く輝いている。


 彼女は両手を組み、静かに祈りを捧げていた。


 その姿を見た瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着いた。


「……ソフィア」


 俺が名前を呼ぶと、彼女は振り返った。


「あっ、哲夫さん」


 ぱっと表情が明るくなる。


「もう、お仕事は終わったのですか?」


「……ああ」


 俺は彼女の隣に腰を下ろした。


 そして、しばらく黙っていた。


 どう説明すればいいのかわからなかったのだ。


 あれだけ大口を叩いておきながら、結局、何もできなかった。


 そんな自分が、情けなかった。


「……ソフィア」


「はい?」


「……ごめん」


 彼女は、不思議そうに首を傾げた。


「どうしたのですか?」


「二億円……用意できなかった」


 俺は俯いた。


「株で増やそうとしたんだ。でも、失敗した」


「……そうだったのですね」


「一時は一千万円まで増えたんだ。なのに、欲張って……全部、元に戻っちまった」


 ソフィアは黙って聞いていた。


「……俺、何をやっているんだろうな」


 乾いた笑いが漏れる。


「教会を守るって約束したのに。結局、何もできていない」


「…………」


「お父様にも、全部見透かされていた。あの男の言うとおりだよ」


 俺は拳を握りしめた。


「俺は、弱い人間になっちまった」


 しばらく、沈黙が続いた。


 やがて、ソフィアが静かに口を開いた。


「……哲夫さん」


「……なんだ?」


「私は、あなたが弱い人だとは思いませんよ」


「……え?」


 顔を上げる。


 ソフィアは、穏やかに微笑んでいた。


「だって、哲夫さんは、何度失敗しても諦めずに頑張ってくださったでしょう?」


「……でも、結果が出ていない」


「そうですね」


 彼女は、あっさりと認めた。


「お金は、まだ足りません」


「……うっ」


「でも、それと哲夫さんの価値は、別のことだと思います」


 俺は、思わず目を見開いた。


「……別?」


「はい」


 ソフィアは頷いた。


「二億円を用意できなかったからといって、哲夫さんが駄目な人間になるわけではありません」


「…………」


「それに、教会を守るのは、哲夫さん一人の役目ではありませんよ」


 そう言って、彼女は俺の手にそっと触れた。


「私もいます。神父様もいます。みんなで考えれば、きっと何か方法が見つかります」


「……ソフィア」


「だから、そんなに自分を責めないでください」


 その言葉に、胸が締めつけられた。


 俺は、二億円を用意できなければ、ソフィアに嫌われるのではないかと恐れていた。


 役に立たない自分には、彼女の隣にいる資格などないのではないかと。


 だが、ソフィアは違った。


 俺が金を持っていようが、いまいが。


 失敗しようが、成功しようが。


 彼女は、変わらず俺を見てくれている。


「……参ったな」


 俺は小さく笑った。


「お前には、かなわないよ」


「ふふっ。そうですか?」


「ああ。完敗だ」


 ソフィアは、少しだけ嬉しそうに笑った。


 そして、祭壇へ向き直る。


「では、哲夫さん」


「……ん?」


「一緒にお祈りしませんか?」


「……祈り?」


「はい」


 彼女は両手を組んだ。


「今すぐ答えが見つからなくても、心を落ち着けることはできますから」


 俺は、しばらく祭壇を見つめた。


 神に祈る。


 かつての俺なら、絶対にしなかったことだ。


 だが、今は。


「……そうだな」


 俺は彼女に倣い、両手を組んだ。


 目を閉じる。


 何を祈ればいいのか、よくわからない。


 だから、心の中で素直に願った。


 ――どうか、ソフィアたちが笑って暮らせますように。


 たった、それだけ。


 自分のための願いではなかった。


 けれど、不思議と心が軽くなった気がした。


「……きっと、大丈夫ですよ」


 隣から、ソフィアの声が聞こえた。


「神様は、私たちを見守ってくださっています。それに、清水神父様もきっと戻ってきます」


「……神父様、か」


「はい」


 彼女は、まっすぐ前を見つめた。


「神父様は、私たちを見捨てるような方ではありません」


 俺は何も言わなかった。


 正直なところ、まだ半信半疑だった。


 こんな大変な状況なのに、神父様は一度も姿を見せていない。


 本当に、頼っていい相手なのだろうか。


 だが、ソフィアは信じている。


 それなら、俺も少しくらいは信じてみるべきなのかもしれない。


「……哲夫さん」


「……ん?」


「私たちは、まだここにいます」


 ソフィアは、静かに微笑んだ。


「今日も、こうして一緒にお話ができています」


「……ああ」


「明日も、きっと何かできます。だから、今日うまくいかなかったことだけで、すべてを諦めないでください」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


 そうだな。


 まだ、終わっていない。


 失敗したことは、取り消せない。


 だが、これからどうするかは、自分で選べる。


「……ありがとう、ソフィア」


「どういたしまして」


 彼女は、いつもの笑顔を浮かべた。


 そのときだった。


 ギィィ……。


 礼拝堂の大きな扉が、ゆっくりと開いた。


「……ん?」


 俺は振り返った。


 入口に、一人の男が立っていた。


 年齢は六十代ほどだろうか。


 白髪交じりの髪。


 深い皺の刻まれた顔。


 くたびれた服装に、少し曲がった背中。


 そして、ひどく疲れ切った様子だった。


「……いやはや」


 男は、扉に手をついたまま苦笑した。


「年を取ると、長旅も楽じゃないねえ……」


 ……誰だ、このおっさん。


 俺は眉をひそめた。


 こんな時間に、教会へ何の用だ?


 そう思った瞬間。


「……神父様?」


 隣で、ソフィアが小さく声を上げた。


「……え?」


 俺が振り返るよりも早く、彼女は立ち上がった。


「清水神父様!」


 そして、入口へ駆け出していく。


「おお、ソフィア」


 男は、にっこりと微笑んだ。


「ただいま」


「おかえりなさい!」


 ソフィアは、嬉しそうに駆け寄った。


 しかし、すぐに表情を曇らせる。


「……神父様? そのお怪我は……!」


「ん? ああ、これかい」


 男は、自分の腕を見下ろした。


 よく見ると、服のあちこちが汚れ、手には包帯が巻かれていた。


「ちょっと、あちこち走り回っていたらね。年寄りには、なかなか堪えるものだよ」


「そんな……無理をなさったのですね」


「ははは。大したことじゃないさ」


 男は笑った。


「まだまだ、君たちを見守る仕事が残っているからね」


 ……この人が、清水神父?


 俺は思わず、立ち上がった。


 男は俺に気づくと、穏やかな笑みを向けてきた。


「おや。君が坂井哲夫くんかな?」


「……え?」


「ソフィアから、話は聞いているよ」


 男は、ゆっくりと近づいてきた。


「初めまして。私は清水。この教会の神父をしている者だ」


「……ど、どうも」


 俺は、ぎこちなく頭を下げた。


 まさか、本当に帰ってくるとは。


 いや、帰ってきたこと自体はいい。


 問題は、この男が何を持ち帰ったかだ。


 金か。


 それとも、教会を救う方法か。


「さて……」


 清水神父は、長椅子に腰を下ろした。


「二人とも、少し話を聞いてくれるかな」


 その表情から、先ほどまでの笑みが消える。


「この教会の未来について、大切な話があるんだ」


 ◇


「まず、結論から話そう」


 清水神父は、静かに口を開いた。


「私は、弁護士に相談してきた」


「……弁護士?」


 俺は眉を上げた。


「ああ。山口組との借金問題についてね」


 神父は、深く息をついた。


「実は、この教会は以前、運営資金として一千万円を借り入れたことがある」


「……一千万円?」


「そうだ。だが、相手は法外な利息を要求してきた」


 神父は、苦々しそうに続けた。


「一日ごとに一割もの利息を上乗せすると言い出したんだ」


「……は?」


 俺は耳を疑った。


「一日一割!? そんな馬鹿な話があるか!」


「そうだね。到底、認められる条件ではない」


 神父は頷いた。


「だが、彼らはその金額を膨らませ続け、ついには三億円を要求してきた」


「……ふざけてやがる」


 俺は拳を握りしめた。


 三億円。


 その金を用意するために、俺はどれほど苦労したことか。


 お父様に頭を下げ。


 暴力団の屋敷へ忍び込み。


 株式投資で無茶な勝負までした。


 それなのに、そもそもの請求自体が不当だったとは。


「……それで、弁護士は何と?」


 俺が尋ねると、神父は少しだけ表情を和らげた。


「法外な利息については、争う余地が十分にあるそうだ」


「……本当か?」


「ああ。少なくとも、相手が要求する三億円を、そのまま支払う必要があるとは考えにくい」


 俺は、思わず息を吐いた。


 ……よかった。


 いや、まだ安心するのは早い。


「でも、土地の問題はどうなるんだ?」


「そこが厄介なんだよ」


 神父は頷いた。


「借り入れの際、教会の土地に関する重要な書類を相手に預けてしまった。さらに、担保についての契約も交わしている」


「……なるほど」


「弁護士によれば、土地の権利関係を調べ、契約がどのように結ばれたのかを確認する必要があるそうだ」


 神父は、悔しそうに目を伏せた。


「だが、肝心の書類の一部が、相手の手元にあるんだ」


「……書類?」


「ああ。土地の権利証や、契約に関する書面だよ」


 ……土地の権利証。


 その言葉を聞いた瞬間。


 俺の頭の中で、何かが引っかかった。


「……待てよ」


 書類。


 土地。


 権利証。


 ……そういえば。


 あの屋敷の金庫。


 中には、札束など一つもなかった。


 あったのは、数枚の紙だけ。


 俺は、それを持ち帰ったはずだ。


「……まさか」


 俺は、勢いよく立ち上がった。


「哲夫さん?」


 ソフィアが驚いたように俺を見る。


「ちょっと待ってくれ!」


「え?」


「確認したいものがある!」


 俺は、そのまま礼拝堂を飛び出した。


 ◇


「……どこだ!」


 宿舎の自室へ戻った俺は、鞄を引っ張り出した。


 あの夜。


 暴力団の屋敷へ持っていった鞄だ。


 中身を確かめる。


 財布。


 小物。


 そして――。


「……あった!」


 折り畳まれた数枚の書類。


 俺は、それを机の上に広げた。


 古びた紙。


 印鑑。


 見慣れない法律用語。


 その中に、一つの文字が目に飛び込んできた。


『登記識別情報通知』


「……登記?」


 さらに、別の書類を確認する。


 そこには、土地の所在地と、清水教会に関する記載があった。


「……おいおい」


 俺は目を見開いた。


「まさか、これって……!」


 あのとき、ただの紙切れだと思っていた。


 金庫の中に金がなかったから、腹いせ半分で持ち帰っただけだった。


 だが、もしも。


 これが、神父の言っていた書類だとしたら。


「……ビンゴ!」


 俺は書類を掴み、部屋を飛び出した。


 ◇


「神父様!」


 礼拝堂へ駆け込むと、ソフィアと神父がこちらを振り返った。


「哲夫さん?」


「これを見てくれ!」


 俺は、書類を差し出した。


「……これは?」


 清水神父は、怪訝そうに受け取った。


 そして、一枚目に目を通した瞬間。


「……っ!」


 その表情が変わった。


「……これは……!」


 神父は、慌てて次の書類を確認する。


 そして、さらに次の一枚へ。


「……間違いない」


 震える声で、つぶやいた。


「これだ……!」


「……本当か?」


「ああ!」


 神父は、顔を上げた。


「私が探していた、土地に関する書類だ!」


「……おお!」


 思わず、俺は声を上げた。


「やっぱり、そうだったのか!」


「だが、哲夫くん」


 神父は、急に真剣な顔になった。


「どうして、これを君が持っているんだい?」


「……あ」


 しまった。


 そこを聞かれるよな。


 俺は、気まずそうに視線を逸らした。


「……実は、その」


 ソフィアが、じっと俺を見つめている。


 ……逃げられそうにない。


「……山口組の屋敷に忍び込んだとき、持ってきた」


 神父は、目を丸くした。


「……何だって?」


「いや、その……金庫の中に金があると思って……」


「…………」


「でも、金はなくて。代わりに書類があったから……」


 俺は頭を掻いた。


「……持ってきちまった」


 長い沈黙が流れた。


 やがて、ソフィアが口を開いた。


「……哲夫さん」


「……はい」


「やっぱり、あの怪我は……」


「……はい」


 彼女は、深いため息をついた。


「もう……本当に、無茶ばかりするんですから」


「……面目ない」


 俺は素直に頭を下げた。


 神父も、困ったように眉を寄せている。


「哲夫くん。教会を助けようとしてくれた気持ちはありがたい。だが、危険なことをしてはいけないよ」


「……すみません」


「この書類についても、弁護士に経緯を正直に説明して、適切に扱ってもらおう」


「……はい」


 神父は、もう一度書類を見つめた。


 そして、静かに続けた。


「ただ……これで、調べられることが増えたのは確かだ」


「……え?」


「土地の権利関係や、担保の契約について、弁護士に確認してもらえる」


 神父の声には、確かな希望が宿っていた。


「これだけで問題がすべて解決するわけではない。だが、相手の不当な要求に対抗するための、大切な手がかりになるかもしれない」


「……本当か?」


「ああ」


 俺は、思わず息を吐いた。


 ……よかった。


 少なくとも、何もかも無駄だったわけじゃない。


 もっとも、盗みに入ったことまで正当化されるわけではないが。


「……哲夫さん」


 ソフィアが、そっと俺の袖を引いた。


「……ん?」


「ありがとうございます」


「……え?」


「教会を守ろうとしてくださって」


 彼女は、少し困ったように微笑んだ。


「でも、もう危険なことはしないでくださいね」


「……ああ」


 俺は頷いた。


「約束する」


 今度こそ、その約束を守りたかった。


 ◇


「さて……」


 清水神父は、書類を丁寧にまとめた。


「これで、土地の問題については、弁護士と話を進められる」


「……でも、借金そのものは残っているんだろ?」


 俺が尋ねると、神父は頷いた。


「ああ。元々借りた一千万円については、返済の問題が残るだろうね。もっとも、これまでの支払いも含めて、正確に計算し直す必要がある」


「……一千万円か」


 俺は腕を組んだ。


 三億円に比べれば、ずいぶん現実的な金額になった。


 だが、それでも大金だ。


 俺の手元には、二百万円しかない。


 残り八百万円。


 簡単に用意できる金額ではなかった。


「……どうするんだ?」


 俺は神父に尋ねた。


「一千万円だって、すぐに用意できるわけじゃないだろ?」


「ふふっ」


 すると、神父は不思議そうに笑った。


「そのことなら、少し考えがあるんだ」


「……考え?」


「ああ」


 神父は、一本の指を立てた。


「展示会を開こうと思っている」


「……展示会?」


 俺は首を傾げた。


「何の展示会だ?」


「絵画だよ」


「……絵画?」


「ああ。実はね、私には少しばかり、美術品のコレクションがあってね」


 神父は、何でもないことのように言った。


「その中に、ゴッホの作品がいくつかあるんだ」


「…………」


 俺は、しばらく固まった。


 ……ゴッホ?


 今、ゴッホって言ったか?


「……神父様」


「何だい?」


「そのゴッホって、もしかして……」


「ああ。フィンセント・ファン・ゴッホだよ」


「…………」


 俺は、思わず頭を抱えた。


「いやいやいやいや!」


「おや?」


「ちょっと待ってくれ! あのゴッホか!? 『ひまわり』とか『星月夜』を描いた、あの画家か!?」


「そうだよ」


 神父は、あっさりと頷いた。


「……嘘だろ」


 俺は、口を開けたまま固まった。


 ゴッホの作品。


 世界的な美術館が所蔵し、美術市場でも極めて高く評価される、あの画家の作品だ。


 もし本物なら、一千万円どころの話ではない。


 だが、だからこそ疑問が湧く。


 そんなものを、この古びた教会の神父が持っている?


 しかも、複数?


「……神父様」


「何だい?」


「失礼だけど、それ、本物なのか?」


 俺が尋ねると、神父は穏やかに微笑んだ。


「ふふっ。いい質問だね」


「……え?」


「美術品というものは、作者の名前だけで価値が決まるわけではない。真贋や来歴、保存状態など、確かめなければならないことがたくさんある」


「……まあ、そうだな」


「だから、専門家にも相談してきたんだよ」


 神父は、胸元から一通の封筒を取り出した。


「正式な鑑定や売却には、まだ手続きが必要だけれどね」


 俺は、その封筒を見つめた。


 ……この人。


 ただの神父じゃないのか?


「……それで、展示会を開いてどうするんだ?」


「作品を皆さんに見てもらい、その後、適切な方法で売却できればと思っている」


 神父は、静かに答えた。


「もちろん、すぐに買い手が見つかるとは限らない。だが、教会を守るための資金を集める、一つの方法にはなるだろう」


「……なるほど」


 俺は、ゆっくりと頷いた。


 確かに、本物のゴッホ作品を所有しているのなら、大きな資金源になり得る。


 だが、話がうますぎる。


 あまりにも、都合がよすぎるのだ。


「……神父様」


「ん?」


「どうして、そんな高価な絵を持っているんだ?」


 俺の問いに、神父は一瞬だけ黙った。


 そして、懐かしそうに目を細めた。


「……昔、少し縁があってね」


「……縁?」


「ああ。ずいぶん昔の話だよ」


 神父は、それ以上語ろうとしなかった。


 その横顔には、どこか寂しげな表情が浮かんでいた。


 俺は、思わず口を閉じた。


 ……何だ?


 この人、何か隠しているのか?


「神父様……!」


 そのとき、ソフィアが声を上げた。


「それなら、教会は守れるのですね?」


 神父は、彼女に向き直った。


「まだ、すべてが解決したわけではないよ」


「……はい」


「でも、希望はある」


 そう言って、神父は優しく微笑んだ。


「だから、もう少しだけ、一緒に頑張ろう」


「……はい!」


 ソフィアの顔が、ぱっと明るくなった。


 彼女は胸の前で両手を組み、嬉しそうに目を閉じる。


「神様……ありがとうございます」


 その姿を見て、俺は小さく息を吐いた。


 ……まったく。


 さっきまで、二億円を用意できないと絶望していたのに。


 今度は、ゴッホの絵画だと?


 神様というやつは、ずいぶん奇妙な方法で人間を助けるらしい。


 いや。


 まだ、本当に助かったわけではない。


 書類の問題もある。


 借金も残っている。


 ゴッホの絵が本物なのかも、まだわからない。


 それでも。


 ソフィアの笑顔を見ていると、少しだけ信じてみたくなった。


 ……奇跡、か。


 お父様が、最も嫌っていた言葉。


 人間には起こせないと、あの男が笑い飛ばしたもの。


 だが、もしかすると。


 奇跡とは、何もないところから金が湧いてくることではないのかもしれない。


 誰かが諦めずに動き、別の誰かがその努力を受け取り、少しずつ道が開けていく。


 そういうものを、人間は奇跡と呼ぶのかもしれない。


「……やれやれ」


 俺は小さく笑った。


「まだまだ、終われそうにないな」


 すると、清水神父が俺を見た。


「ところで、哲夫くん」


「……はい?」


「君は、美術に興味があるかい?」


「……え?」


 突然の質問に、俺は目を瞬かせた。


 神父は、意味ありげに微笑んでいる。


「実はね。展示会の準備を、少し手伝ってほしいんだ」


「……俺が?」


「ああ。若い人の意見も聞いてみたいからね」


 俺は、思わずソフィアを見た。


 彼女は、嬉しそうに頷いている。


「よかったですね、哲夫さん!」


「……いや、まだ何も決まってないんだけどな」


「ふふっ。きっと、楽しくなりますよ」


 ……まったく。


 この少女には、かなわない。


 俺は苦笑しながら、もう一度神父を見た。


 白髪交じりの髪。


 穏やかな笑顔。


 そして、胸元にしまわれた一通の封筒。


 ……清水神父。


 いったい、何者なんだ?


 その疑問に答えるように、神父は静かに口を開いた。


「では、まずは私のコレクションを見てもらおうか」


 ――こうして俺は、清水教会に隠されていた、もう一つの秘密を知ることになる。


 そして、その秘密こそが。


 **お父様の企みを覆す、最初の一手になるのだった。**

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