悪魔は微笑む
「このクソガキ! 二度と顔を見せるんじゃねえぞ!」
「ぐあっ! いてえな、畜生!」
最後に蹴り飛ばされ、俺は屋敷の門前に転がった。
どうやら、ようやく解放されたらしい。
金庫を調べたことについて散々問い詰められたものの、結局、俺が金を持ち出していないとわかると、連中は俺を屋敷の外へ放り出した。
もっとも、無事に帰してもらえたとは、とても言い難い。
「二度と来るんじゃねえ!」
「頼まれたって来るかよ、こんなところ!」
精いっぱいの悪態をつく。
だが、立ち上がろうとした途端、全身に痛みが走った。
「いっ……ててて……!」
情けない声が漏れる。
顔も、腕も、背中も痛い。
身体のあちこちが悲鳴を上げている。
以前の俺なら、この程度の連中に手も足も出ないなんて、あり得なかった。
悪魔の力を失った今の俺は、ただの人間だ。
殴られれば痛いし、蹴られれば倒れる。
そんな当たり前のことを、今夜は嫌というほど思い知らされた。
「……くそっ」
俺は壁に手をつき、どうにか立ち上がった。
そして、重い足を引きずるように歩き始めた。
◇
しばらく歩いたところで、公園が見えてきた。
誰もいない。
街灯の下に並ぶベンチだけが、寂しそうに夜の闇へ浮かび上がっている。
俺はその一つに腰を下ろした。
「……失敗した」
ぽつりとつぶやく。
「見事に、騙されたな……」
二億円の強奪は失敗。
金庫は空っぽ。
おまけに、全身を痛めつけられた。
まさしく、踏んだり蹴ったりだ。
いや、実際に蹴られたんだけどな。
「……笑えねえ」
俺は天を仰いだ。
ゴールデンウィークも、残りわずか。
連中が再び教会へやって来るまで、どれほど時間が残されているのだろう。
このままでは、清水教会は奪われる。
ソフィアも、洋子も、純子も、真美も。
あの場所で暮らせなくなるかもしれない。
そう考えただけで、胸が苦しくなった。
「……守るって、約束したんだ」
俺は拳を握りしめる。
ソフィアに、約束した。
清水教会を守ると。
だから、諦めるわけにはいかない。
何としてでも、方法を見つけなければ――。
「ずいぶんと情けない姿だな、坂井」
「……っ!」
突然、聞き覚えのある声が響いた。
俺は顔を上げる。
街灯の下に、一人の男が立っていた。
純白のスーツ。
肩に流れる長い白髪。
月明かりに照らされた、血の気を感じさせない端整な顔。
お父様だった。
「……何の用だよ」
「我が息子の様子を見に来ただけだ」
お父様は、俺の姿を眺めた。
その口元に、嘲笑が浮かぶ。
「くくく……見違えたぞ。あれほど誇り高かった悪魔の王子が、今や人間の男どもに叩きのめされるとはな」
「うるさい」
「角も翼も失い、魔力すら使えぬ。実に哀れだ」
「……それより、お父様」
俺は男を睨みつけた。
「俺を騙したな」
「ほう?」
「とぼけるな! 金庫の情報も、二億円が眠っているって話も、全部嘘だったじゃねえか!」
お父様は、少しも悪びれなかった。
むしろ、愉快そうに笑った。
「それで?」
「……は?」
「我がいつ、お前に真実だけを話すと約束した?」
その言葉に、俺は絶句した。
「お前は、我が与えた情報を勝手に信じた。そして、自らの意思であの屋敷へ向かった。それだけのことだろう?」
「……ふざけるな」
「ふざけてなどおらぬ。悪魔の言葉を信じるとは、ずいぶん純粋になったものだな」
お父様は肩をすくめる。
「忘れたのか? 悪魔との取引に、無償の慈悲など存在せぬ」
「…………」
「何かを得ようとすれば、必ず代償を支払うことになる。それが我らの流儀だ」
……そうだった。
悪魔とは、そういう存在だった。
人間の願望につけ込み、欲望を刺激し、甘い言葉で破滅へと誘う。
俺自身、かつてはそれを得意としていた。
なのに、どうして。
どうして俺は、そんな相手の言葉を信じてしまったのだろう。
「……最初から、俺を陥れるつもりだったのか」
「さて、どうであろうな」
お父様は答えない。
ただ、俺を見下ろしていた。
「坂井よ。今なら、まだ間に合う」
「……何がだ?」
「悪魔に戻れ」
低く、威厳に満ちた声だった。
「我が血を再び受け入れよ。そうすれば、お前はかつての力を取り戻せる」
「…………」
「二億円程度の金など、容易に用意できよう。あの教会を守ることも、不可能ではない」
俺は思わず、顔を上げた。
悪魔の力。
それさえ取り戻せば、確かに今より多くのことができるだろう。
金を用意することも。
暴力団を退けることも。
ソフィアを守ることも。
……だが。
「その代わり、何を差し出せっていうんだ?」
お父様の笑みが、わずかに深くなった。
「お前の人間としての生を捨てよ。そして、再び我が息子として仕えるのだ」
「……やっぱりな」
「何が不満だ? お前は本来、こちら側の存在なのだぞ」
「断る」
俺は即答した。
お父様の眉が、ぴくりと動いた。
「……何?」
「俺は、もう悪魔には戻らない」
「愚かな」
「そうかもしれない。でも、決めたんだ」
俺は痛む身体を押して、ベンチから立ち上がった。
「俺はソフィアを守る。あいつと交わした約束を、今度こそ自分の力で果たす」
「その貧弱な身体でか?」
「ああ」
「何の力も持たぬ人間に、何ができる?」
「……わからない」
正直に答えた。
今の俺には、二億円を用意する方法すら見えていない。
何が正解なのかもわからない。
それでも。
「わからないからって、諦める理由にはならないだろ」
お父様の表情から、笑みが消えた。
「……弱くなったな、坂井」
「そうかもな」
「以前のお前なら、目的のために手段など選ばなかった」
「……ああ」
「人間を騙し、利用し、必要とあらば切り捨てた。それが悪魔の誇りだったはずだ」
「そうだったな」
俺は小さく笑った。
「でも、今は違う」
ソフィアの顔が浮かんだ。
あの雨の夜。
俺がすべてを失い、誰にも見捨てられたと思っていたとき。
あいつだけは、俺を探しに来てくれた。
何の見返りも求めずに。
ただ、俺が心配だったという理由だけで。
「俺は、あいつに教えてもらったんだ」
「何をだ?」
「誰かを大切に思うってことを」
お父様は鼻で笑った。
「愛か。くだらぬ」
「お父様には、そう見えるんだろうな」
「愛など、人間を縛る鎖にすぎぬ。現にお前は、その愛とやらのために無様な姿をさらしているではないか」
「……確かにな」
俺は自分の身体を見下ろした。
服は汚れ、腕には傷がある。
まともに立っているだけでも、つらい。
「でもさ、お父様」
俺は顔を上げた。
「昔の俺なら、こんなに必死になって誰かを守ろうとは思わなかった」
「…………」
「弱くなったのかもしれない。だけど、それが全部悪いことだとは思わない」
お父様はしばらく黙っていた。
やがて、冷たい声で告げる。
「清水教会は、いずれ消える」
「……消させない」
「我に逆らうつもりか?」
「ああ。何度でも逆らってやる」
「お前のような人間に、何ができる?」
「やってみせるさ」
俺はお父様を睨み返した。
「奇跡でも何でも、起こしてやる」
その瞬間、お父様の目が細くなった。
「……奇跡、か」
その言葉を、忌々しそうに繰り返す。
「我が最も嫌う言葉の一つだ」
「知ってるよ」
「奇跡とは、神の領分。人間ごときが望むものではない」
「だったら、人間にも奇跡を起こせるって、証明してやる」
お父様は、しばらく俺を見つめていた。
そして、ゆっくりと背を向ける。
「……失望したぞ、坂井哲夫」
「…………」
「お前は、もはや悪魔の子ではない」
俺は、その背中に向かって答えた。
「ああ。そうだな」
不思議と、迷いはなかった。
「俺は人間だ。インキュバスでも、悪魔の王子でもない」
そして、胸を張る。
「ただ、好きな女の子を守りたいだけの、普通の人間だ」
「……その愛とやらに、いずれ押し潰されるがよい」
お父様はそう言い残すと、闇の中へ消えていった。
あとには、冷たい夜風だけが残された。
「……上等だよ」
俺は誰もいない公園でつぶやいた。
「絶対に、諦めてやるものか」
◇
夜明けが近づいていた。
五月の風が、痛む身体を容赦なく冷やしていく。
「……いてて」
一歩進むたびに、身体のあちこちが痛んだ。
それでも、俺は歩き続けた。
向かう先は、清水教会。
今の俺が、唯一帰りたいと思える場所だ。
父親に与えられた高級マンションには、何不自由ない生活があった。
広い部屋も、高価な家具も、贅沢な食事も。
しかし、あそこには俺を待つ人間がいなかった。
一方、清水教会には大した財産などない。
建物は古いし、食事だって質素だ。
それでも。
あそこには、俺に「おかえりなさい」と言ってくれる少女がいる。
それだけで、帰る理由としては十分だった。
途中、コンビニに立ち寄った。
店頭に並ぶ新聞には、物騒な見出しが踊っている。
中東での戦争は、さらに激化。
アメリカでは大統領を狙った襲撃事件が発生したものの、未遂に終わったという。
金融市場は乱高下を繰り返し、各国の政府は対応に追われている。
日本でも、戦争への関与を巡って政治的対立が深まっていた。
「……相変わらず、ひどい世界だな」
俺は新聞から目を離した。
かつての俺なら、この混乱を歓迎していただろう。
人間同士が争い、憎しみを募らせる。
それこそが、悪魔の望む世界だったからだ。
だが、今は違う。
戦争が起これば、誰かの帰る場所が失われる。
家族が離れ離れになり、子供たちが不安な夜を過ごす。
清水教会のことを考えるようになって、ようやくそんな当たり前のことに気づいた。
「……ハルマゲドン、か」
お父様が目指す、神との最終戦争。
世界中の混乱が、その準備なのだとしたら。
この先、いったい何が起こるのだろう。
俺は新聞を棚に戻し、店を出た。
今は、世界を救う方法など考えている余裕はない。
目の前にある、小さな教会一つすら守れないのだから。
◇
清水教会に到着したころには、空が薄く白み始めていた。
古い石造りの建物。
屋根の上には十字架。
そして、礼拝堂の窓からは、柔らかな光が漏れていた。
「……もう起きてるのか」
そういえば、ソフィアは毎朝四時に起きて祈るのだったな。
俺は重い扉を押し開けた。
静かな礼拝堂。
祭壇の前に、一人の少女が跪いていた。
長い金髪。
白い肌。
朝の光に照らされた、その横顔。
清水ソフィアだった。
「……ソフィア」
俺が名前を呼ぶと、彼女は振り返った。
「あっ、哲夫さん!」
ぱっと表情を明るくする。
「おかえりなさい。ずいぶん遅かったのですね。心配して――」
そこで、彼女の言葉が止まった。
青い瞳が、大きく見開かれる。
「……哲夫さん?」
「……ただいま」
「その傷……!」
ソフィアは慌てて立ち上がった。
そして、俺のそばへ駆け寄ってくる。
「どうしたのですか!? 顔も、腕も……!」
「いや、ちょっとヘマをしてな」
「ヘマって……そんな簡単な話ではありません!」
彼女は珍しく、強い口調で言った。
「誰かに襲われたのですか? ひどく痛みますか?」
「まあ、多少は……」
「多少ではありません!」
ぴしゃりと言われた。
……怖い。
普段はあんなに穏やかなのに、怒ると意外に迫力があるんだな。
「とにかく、座ってください。すぐに手当てをしますから」
「……はい」
俺はおとなしく従った。
◇
しばらくして、ソフィアは救急箱を持って戻ってきた。
俺の顔や腕の傷を確かめ、慎重に手当てを始める。
「……痛かったでしょう」
「まあな」
「どうして、こんなことに……」
その声には、怒りよりも心配が滲んでいた。
俺は目を逸らした。
「……ごめん」
「え?」
「心配かけた」
ソフィアの手が、一瞬止まる。
そして、彼女は小さく息をついた。
「……本当に、心配したんですよ」
「…………」
「哲夫さんが帰ってこないから、何かあったのではないかと思って……」
俺は何も言えなかった。
あんな危険な場所へ行く前に、相談するべきだった。
だが、ソフィアに止められるのが怖かった。
自分のやろうとしていることが間違っていると、わかっていたからだ。
「……ソフィア」
「はい?」
「俺、また馬鹿なことをした」
彼女は俺の顔を見た。
「……何があったのですか?」
「教会の金を用意しようとして……人のものを盗もうとしたんだ」
言葉にした途端、胸が重くなった。
ソフィアは黙っていた。
その沈黙が、何よりもつらかった。
「……失敗したよ」
俺は苦笑した。
「金は手に入らなかった。お父様にも騙された。挙げ句の果てに、こんな姿だ」
「…………」
「情けないだろ?」
ソフィアは、すぐには答えなかった。
やがて、静かに口を開く。
「……哲夫さん」
「……なんだ?」
「教会を守ろうとしてくださったことは、嬉しいです」
彼女は俺の手を取った。
「でも、盗みを働くことは、間違っています」
「……わかってる」
「それに、私は……」
ソフィアの声が、わずかに震えた。
「教会を失うことも怖いです。でも、哲夫さんが帰ってこなくなることだって、怖いんですよ」
「…………!」
俺は顔を上げた。
彼女は、まっすぐ俺を見つめていた。
「お金のために、あなたが傷つくのは嫌です」
「……ソフィア」
「だから、お願いです。次は一人で抱え込まないでください」
そう言って、彼女は俺の手をそっと握り直した。
「一緒に考えましょう。ね?」
……参ったな。
そんなことを言われたら、何も反論できないじゃないか。
「……ああ」
俺は小さく頷いた。
「約束する」
ソフィアは、ようやく微笑んだ。
「はい。それなら、よかったです」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。
お父様は言った。
愛は、人間を弱くするものだと。
だが、本当にそうなのだろうか。
今の俺が、こうして立ち上がろうと思えるのは。
この少女が、俺の帰りを待っていてくれたからではないか。
「……ありがとう、ソフィア」
「どういたしまして」
彼女は、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
◇
「それで、残りの二億円ですけど……」
手当てを終えたソフィアが、困ったように首を傾げた。
「やはり、清水神父様にお任せしませんか?」
「……神父様、か」
俺は腕を組んだ。
正直なところ、まだ信用しきれない。
なにしろ、俺はその神父に一度も会ったことがないのだ。
ソフィアの話では、資金を集めるために遠方へ出かけているらしいが……。
「なあ、ソフィア。本当に神父様は戻ってくるのか?」
「もちろんです」
彼女は即答した。
「神父様は、私たちを見捨てたりしません」
「……そうか」
「はい。ずっと、私たちを守ってくださった方ですから」
その表情には、揺るぎない信頼があった。
俺には、まだ理解できない。
だが、ソフィアがそこまで信じる相手なら、頭ごなしに否定するのも違うだろう。
「……わかった。神父様のことも信じてみる」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、俺も何か方法を探す。何もしないで待っているのは、性に合わないからな」
「ふふっ。哲夫さんらしいですね」
ソフィアは小さく笑った。
「でも、まずは休んでください。その身体で無理をしてはいけませんよ」
「……善処する」
「善処ではなく、約束です」
「はいはい」
「お返事は一回です」
「はい」
……まったく。
いつの間に、俺はこんなに頭が上がらなくなったのだろう。
◇
その後、俺は教会の宿舎にある自分の部屋へ戻った。
机の上には、ノートパソコンが置かれている。
「……さてと」
椅子に腰を下ろし、画面を開いた。
「今度こそ、まともな方法を考えないとな」
ネットニュースには、世界各地の混乱が映し出されていた。
戦争。
外交問題。
エネルギー価格の変動。
そして、金融市場の激しい値動き。
俺は画面をスクロールする。
その途中、見覚えのある事件の記事が目に入った。
『都内の宿泊施設で男性が死亡。警察が経緯を捜査』
「……またか」
以前にも、似たような事件があった。
須美美和子の顔が脳裏に浮かぶ。
あいつなら、何か知っているのかもしれない。
もっとも、記事だけで須美の仕業だと決めつけるわけにはいかない。
「……今は、それどころじゃないな」
俺は別の記事へ目を移した。
海峡の航行再開によって原油価格が下落し、市場では関連企業の株価が大きく動いているらしい。
さらに、アメリカの襲撃事件が未遂に終わったことを受け、一部の市場では買い戻しが進んでいた。
「……なるほど」
俺は顎に手を当てる。
世界が混乱している。
それは、株式市場も同じだ。
上がる銘柄もあれば、下がる銘柄もある。
その変化をうまく捉えられれば、資金を増やせる可能性はある。
「……やっぱり、株か」
俺は証券口座を開いた。
画面に表示された残高を確認する。
二百万円。
これが、今の俺に残された資金だ。
以前の取引では、幸運にも大きな利益を得ることができた。
しかし、同じことがもう一度起こる保証など、どこにもない。
ましてや、二百万円を二億円にするには、百倍に増やさなければならない。
普通に考えれば、短期間で達成できるような目標ではなかった。
「……百倍、か」
数字にしてみると、改めて途方もない。
俺は椅子の背もたれに身体を預けた。
いっそ、お父様に頭を下げ、もう一度悪魔の力を取り戻したほうが早いのではないか。
そんな考えが、一瞬だけ脳裏をよぎる。
「……いや」
俺は首を振った。
もう、あの男の力には頼らない。
それだけは、決めたことだ。
だが、焦って資金を失えば、教会を救うどころではなくなる。
俺は画面を見つめたまま、しばらく考え込んだ。
「……本当に、これしかないのか?」
答えは出ない。
けれど、残された時間は刻一刻と減っている。
俺は企業情報や市場の動向を読み始めた。
株価の数字が、画面の上で絶えず変化していく。
その一つ一つが、俺には希望にも、罠にも見えた。
お父様に騙されたばかりだというのに。
今度は、数字の動きに救いを求めようとしている。
「……笑えるな」
俺は自嘲した。
それでも、何もせずにはいられなかった。
やがて、俺は一つの銘柄を選び、注文画面を開いた。
指先が止まる。
二百万円。
今の俺にとっては、決して小さな金額ではない。
失えば、取り戻すのは容易ではないだろう。
ソフィアの言葉が蘇る。
『次は一人で抱え込まないでください』
「……わかってるよ」
俺は小さくつぶやいた。
それでも、目の前の数字から視線を外せなかった。
迷った末に、俺は購入を確定させた。
画面に注文完了の表示が現れる。
「……頼むぞ」
思わず、祈るような言葉が漏れた。
株価が上がれば、利益になる。
下がれば、資金を失う。
当たり前のことだ。
けれど、今の俺にとって、その数字の重みは以前とは違っていた。
清水教会。
ソフィア。
洋子、純子、真美。
あの食堂で過ごした、何でもない時間。
すべてが、頭の中を駆け巡る。
「……上がれ」
俺は画面を見つめた。
「頼むから……上がってくれ」
だが、数字は俺の願いなど聞いてくれない。
上がったかと思えば、次の瞬間には下がる。
わずかな変化に、一喜一憂する。
気づけば、俺は拳を握りしめていた。
……お父様。
あなたは、奇跡など人間には起こせないと言ったな。
だったら、見ていろ。
俺は、悪魔の力を使わずに、あの教会を守ってみせる。
そのために必要なのが、二億円だというのなら。
何度でも考え、何度でも方法を探してやる。
たとえ、この取引が失敗したとしても。
俺は、もう逃げない。
窓の外では、朝日が昇り始めていた。
薄暗かった部屋に、少しずつ光が差し込んでくる。
俺はその光に気づかないまま、パソコンの画面を見つめ続けた。
――残り二億円。
教会を守るための戦いは、まだ終わっていない。
そして俺は、このときまだ知らなかった。
**自分が追いかけている数字の向こう側に、もう一つの悪魔の罠が待ち受けていることを。**




