悪魔の囁き
「……ここか」
深夜。
俺は、とある屋敷の前に立っていた。
高い塀に囲まれた、いかにも堅気ではない連中が住んでいそうな屋敷だ。門には、山口組の名が掲げられている。
間違いない。
清水教会に三億円もの借金を突きつけてきた、あの連中の本拠地だ。
「まさか、こんなところに来る羽目になるとはな……」
俺は小さくため息をついた。
目的は、ただ一つ。
二億円を手に入れること。
清水教会を守るために必要な、残りの金額だ。
本来なら、お父様に株価を操作してもらい、資金を用意するつもりだった。しかし、あの男は俺の頼みを聞き入れなかった。
代わりに与えられたのが、この屋敷に大金が保管されているという情報だった。
悪魔の王が差し出した、救いの手。
……いや。
悪魔の差し出す手を、救いと呼んでいいのだろうか。
「今さら考えても仕方ないか」
俺は自分に言い聞かせる。
ここまで来た以上、後戻りするわけにはいかない。
ソフィアが守ろうとしている教会。
洋子、純子、真美の三人が笑って暮らしている場所。
そして、俺が初めて、人間として生きてみたいと思えた場所。
あそこだけは、失いたくなかった。
「……行くぞ」
俺は覚悟を決め、屋敷へと向かった。
◇
屋敷の内部は、想像以上に広かった。
古びた木造の廊下が続き、壁には高そうな絵画や書が飾られている。ところどころから人の話し声が聞こえ、まだ起きている者がいることを知らせていた。
俺は物陰に身を寄せ、息を潜める。
「くそ……ずいぶん人が多いな」
さすがは暴力団の本拠地だ。
深夜だというのに、屋敷の中には何人もの男たちがいる。
以前の俺なら、こんな連中など恐れる必要はなかった。
悪魔の力を使えば、どうにでもできたからだ。
しかし、今の俺は違う。
角も翼も、あの夜に失った。
人間と同じように傷つき、人間と同じように恐怖する。
今さらながら、その事実が重くのしかかってくる。
「……不便な身体になったものだ」
自嘲気味につぶやく。
だが、不思議と悪魔に戻りたいとは思わなかった。
俺が取り戻したいのは、悪魔の力ではない。
ソフィアと過ごす、あの何でもない日常なのだから。
そう考えながら奥へ進んでいると、不意に男の声が聞こえた。
「まったく、あの教会もしぶといもんだ」
「……!」
俺は思わず足を止めた。
廊下の向こうから、初老の男が姿を現す。
高そうな着物を身につけた、恰幅のいい男だった。
「さっさと土地を明け渡せばいいものを。三億も払えるわけがなかろうに」
……清水教会のことか?
俺は息を殺し、男の話に耳を傾けた。
「まあ、あの大臣の言うとおりにしておけば、間違いはあるまい。じきに教会の土地も、こちらのものになる」
男は満足そうに笑った。
「神様とやらも、金の前では無力というわけだ。はっはっは!」
そのまま、男は廊下の向こうへ消えていった。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
大臣。
その言葉に、嫌な予感がしたからだ。
「……まさかな」
お父様は、国会で演説するほどの政治的影響力を持っている。
そして、清水教会を忌み嫌っている。
もしも、あの男が言っていた大臣がお父様だとしたら……。
「いや。今は考えるな」
俺は首を振った。
考えれば考えるほど、嫌な結論にたどり着いてしまいそうだった。
まずは金だ。
二億円さえ用意できれば、教会は守れる。
それだけを考えろ。
俺は再び、屋敷の奥へ向かった。
◇
「……あった」
やがて俺は、屋敷の奥まった一室で、大きな金庫を発見した。
重厚な扉。
頑丈そうな外装。
いかにも大金が眠っていそうな代物だった。
「ようやく見つけたぞ……」
思わず頬が緩む。
お父様の情報が正しければ、この中に教会を救うだけの金があるはずだ。
俺は金庫の前にしゃがみ込んだ。
しかし、そこで異変に気づく。
「……おかしいな」
お父様から教えられた情報と、目の前の金庫が一致しない。
念のため確かめてみたものの、扉は固く閉ざされたままだった。
「……どういうことだ?」
嫌な汗が背中を伝う。
情報が古かったのか。
それとも、俺が何かを勘違いしているのか。
いや。
もっと単純な可能性がある。
「……お父様?」
俺は金庫を見つめた。
あの男は、俺に嘘をついたのか?
その疑念を振り払うように、俺は金庫と向き合い続けた。
時間だけが過ぎていく。
焦りが募る。
それでも、諦めることができなかった。
頭の中に浮かぶのは、ソフィアの顔だった。
『大丈夫ですよ、哲夫さん。きっと、神父様が何とかしてくださいますから』
そう言って、あいつは笑っていた。
自分の暮らす場所が奪われるかもしれないというのに。
誰よりも不安なはずなのに。
あいつは、俺の前では笑おうとする。
「……くそっ」
その笑顔を、失わせたくない。
たとえ、俺が再び罪を犯すことになったとしても。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
ソフィアなら、こんな俺を見て何と言うだろう。
きっと、悲しむ。
それでも俺は、手を止められなかった。
やがて、金庫の扉が開いた。
「……開いた?」
俺は一瞬、目を見開く。
次いで、安堵の息を漏らした。
「はは……やったぞ」
ようやく。
ようやく、二億円を手に入れられる。
これで清水教会を救える。
ソフィアも、あの子供たちも、明日から安心して暮らせる。
そんな希望を胸に、俺は金庫の中を覗き込んだ。
そして――。
「…………は?」
言葉を失った。
金庫の中には、札束など一つもなかった。
金塊も、宝石もない。
あるのは、数枚の紙だけ。
「……なんだよ、これ」
俺は呆然とつぶやいた。
二億円は?
教会を救うための金は?
俺がここまで危険を冒して、手に入れようとしたものは?
「ふざけるな……!」
思わず、拳を握りしめた。
俺は何のために、こんなところまで来たんだ。
何のために、ソフィアとの約束を破ってまで、盗みに手を染めたんだ。
震える手で、金庫の中の紙を取り上げる。
何かの書類らしい。
内容を確かめる余裕もなく、俺はそれを鞄にしまった。
「……帰るか」
もはや、ここにいる意味はない。
そう思い、部屋の出口へ振り返った。
その瞬間だった。
「よう、クソガキ」
「…………え?」
部屋の前に、数人の男たちが立っていた。
全員が、こちらを睨みつけている。
逃げ道を塞ぐように。
「ずいぶん熱心に、うちの金庫を調べてくれたじゃねえか」
男の一人が、にやりと笑った。
俺の背筋が凍る。
「……あの、これはですね」
「言い訳はいい」
「ですよねー……」
まずい。
非常にまずい。
俺は一歩、後ずさった。
しかし、その先には金庫しかない。
男たちがじりじりと距離を詰めてくる。
「お前、何が目的だ?」
「……金だよ」
「金?」
「ああ。二億円だ。ここにあるって聞いたんだよ!」
すると、男たちは顔を見合わせた。
そして、一斉に笑い始めた。
「はっはっは! こいつ、本当に信じてやがった!」
「……何がおかしい?」
「金なんざ、とっくに別の場所へ移してあるんだよ」
「……は?」
俺は耳を疑った。
「お前みたいな盗人が来るって、前もって聞いていたからな」
男が笑う。
「まったく、あの大臣の情報は正確だぜ」
――大臣。
その一言で、全身から血の気が引いた。
「……誰だ?」
「あん?」
「その情報を教えた大臣は、誰なんだよ!」
俺が叫ぶと、男は不愉快そうに眉をひそめた。
「お前に教える義理はねえよ。だが、ずいぶんお前のことを知っている様子だったぜ」
「…………」
「今日の夜、若い男が金を狙って来る。そう聞かされていたんだ」
そこで、ようやく理解した。
金庫の情報。
屋敷の場所。
金が眠っているという話。
そして、俺が今夜ここへ来ることまで。
すべて、お父様は知っていた。
いや。
最初から、こうなるように仕組んでいたのだ。
「……は、はは」
乾いた笑いが漏れる。
「そういうことかよ……」
俺は金庫を振り返った。
空っぽの金庫。
待ち構えていた男たち。
最初から、二億円など手に入るはずがなかった。
これは救済ではない。
罠だったのだ。
「……お父様」
あの男は、俺が教会を救おうとしていることを知っていた。
ソフィアを守りたいと思っていることも。
そして、そのためなら俺がどれほど愚かな選択をするかも。
すべて承知したうえで、ここへ送り込んだ。
「……くそったれ」
俺は歯を食いしばった。
「最初から、俺を売るつもりだったのかよ……!」
「何をぶつぶつ言ってやがる!」
男が俺の胸ぐらをつかんだ。
「うちに泥棒に入っておいて、ただで帰れると思うなよ!」
「……離せ!」
俺は腕を振りほどこうとした。
しかし、相手の力は強かった。
次の瞬間、身体が大きく揺さぶられ、床に倒れ込む。
「ぐっ……!」
痛みが走る。
立ち上がろうとしたところを、別の男に押さえつけられた。
「暴れるんじゃねえ!」
「くそっ! 離せって言ってんだろ!」
必死に抵抗する。
だが、人数が違いすぎた。
悪魔だったころなら、こんな連中に負けるはずがなかった。
指先一つで、全員を黙らせることだってできた。
しかし、今の俺には何の力もない。
ただの人間だ。
無力で、愚かで、どうしようもない人間。
「……ちくしょう!」
怒鳴っても、状況は変わらなかった。
男たちに押さえつけられたまま、俺は身動きが取れなくなる。
痛い。
怖い。
逃げたい。
そんな当たり前の感情が、頭の中を埋め尽くしていく。
……こんなはずじゃなかった。
俺は、ただ教会を救いたかっただけなのに。
ソフィアを笑顔にしたかっただけなのに。
それなのに、どうして。
どうして、こんなことになったんだ。
そのとき、ふと気づいた。
――俺は、また同じことを繰り返したのだ。
自分の目的のためなら、悪事を働いても構わない。
相手が悪人なら、奪っても構わない。
結果さえよければ、手段なんてどうでもいい。
それは、かつて悪魔だった俺の考え方そのものではないか。
「……はは」
思わず笑ってしまった。
なんて滑稽なんだろう。
悪魔をやめたつもりでいた。
ソフィアの隣に立てる人間になりたいと思っていた。
それなのに、困った途端、俺は悪魔のやり方に頼った。
しかも、よりによって、悪魔の王であるお父様に。
悪魔が人を騙す存在だということくらい、誰よりも知っていたはずなのに。
「……馬鹿だな、俺」
声が震えた。
お父様に騙されたことが悔しい。
けれど、それ以上に。
あの男の言葉を信じ、自分の意思でここへ来たことが、どうしようもなく情けなかった。
俺は誰かに強制されたわけじゃない。
自分で選んだのだ。
ソフィアなら、きっと止めただろう。
『哲夫さん。誰かを助けるためだからといって、誰かを傷つけていいわけではありませんよ』
そんな声が、頭の中に響いた気がした。
……わかっている。
今なら、わかる。
でも。
今さらわかったところで、何になる?
「おい、こいつ、笑ってやがるぞ」
「頭でもおかしくなったか?」
男たちの声が遠く聞こえた。
俺は床に伏せたまま、目を閉じる。
脳裏に浮かんだのは、清水教会の食堂だった。
長いテーブル。
温かい食事。
元気に騒ぐ三人の子供たち。
そして、俺に向かって微笑む、金髪碧眼の少女。
『おかえりなさい、哲夫さん』
……ああ。
帰りたい。
あの場所へ、帰りたい。
でも、どんな顔をして帰ればいいんだ?
教会を救うために出かけたはずが、金は手に入らず、盗みまで働いてしまった。
ソフィアに合わせる顔なんて、あるはずがない。
「……ソフィア」
かすれた声で、その名前を呼んだ。
返事はない。
当然だ。
こんな場所に、あいつがいるはずもない。
俺はただ、暗い天井を見上げることしかできなかった。
お父様の罠に落ちた。
それは間違いない。
だが、最後に俺をここまで追い込んだのは、父の嘘だけではなかった。
**悪魔のやり方で、聖女の居場所を守れると信じた、俺自身の弱さだった。**
――俺は、いったい何をやっているんだろうな。
その問いに答えてくれる者は、誰もいなかった。




