悪魔の父が差し出した答え
その夜、俺は教会を出た。
駅へ向かい、改札を抜けて電車に乗る。目指すのは、かつて暮らしていたマンションだった。
もう二度と戻ることはないと思っていた場所だ。
だが、現実はそう甘くなかった。
清水教会を守るためには、残り二億円を調達しなければならない。そして、今の俺には、その金を短期間で用意できるだけの力がなかった。
結局、お父様に頼るしかない。
悪魔との交渉など、できれば二度としたくなかった。それでも、ほかに道がないのなら、頭を下げるしかないだろう。
電車を降り、駅の改札を抜ける。
駅前の大型ビジョンには、最新のニュースが映し出されていた。
中東情勢は悪化の一途をたどり、日本政府は現地への自衛隊派遣を決定したという。それに反発する与党議員たち。派遣に反対する市民の抗議活動も、各地で広がっているらしい。
画面の向こうでは、怒号が飛び交っていた。
戦争の目的は、石油資源の奪還。
正義だの、国益だの、もっともらしい言葉が並べられているが、その根底にあるのは、結局のところ欲望なのだろう。
もっと欲しい。もっと支配したい。自分たちの利益を守りたい。
その強欲が人間を動かし、世界を戦争へと導いていく。
……これも、お父様の仕業なのだろうか。
確証はない。だが、これまでの出来事を考えれば、そう疑わずにはいられなかった。
俺は大型ビジョンを見上げたまま、胸の内で願った。
どうか、お父様が俺を赦してくれますように。
そんな祈りが、あの方に届くとは思えなかったけれど。
◇ ◇ ◇
マンションの最上階。
俺は慣れ親しんだ部屋の扉を開け、奥へと進んだ。
そして、寝室の扉を開いた瞬間、思わず足を止めた。
そこには、お父様がいた。
白いスーツを脱ぎ捨て、長い白髪を揺らしながら、ベッドの上でくつろいでいる。周囲には何人もの女性がいて、お父様は彼女たちと談笑しながら、手元のタブレットを眺めていた。
まるで、世界の終わりなど自分には関係ないと言わんばかりの余裕だった。
「……お父様」
俺が声をかけると、お父様はゆっくりと顔を上げた。
「ほう。帰ってきたのか、坂井」
「はい。お願いがあって参りました」
「お願い?」
お父様はタブレットを置き、興味深そうに俺を見た。
「この我に、何を望む?」
その問いかけだけで、心臓が激しく脈打った。
相手は悪魔の王。
数えきれないほどの悪魔を従え、人間社会の裏側にまで手を伸ばす存在だ。
その前に立つと、自分がどれほど小さな存在なのかを思い知らされる。
俺は床に正座し、膝の上で拳を握った。
どう切り出すべきか。
教会を守るためだと正直に話すべきか。それとも、別の理由を用意するべきか。
考えれば考えるほど、言葉が出てこなくなる。
だが、ここで取り繕っても意味はない。
俺は覚悟を決め、口を開いた。
「お父様。株価を操作していただけませんか?」
「ほう。株価を?」
「はい。二億円が必要なんです」
「二億円だと?」
お父様は片眉を上げた。
「お前が、そんな大金を何に使う?」
女性の一人が、お父様の耳元で何かをささやく。お父様はそれに軽く笑って応じてから、再び俺に視線を戻した。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
どう答えるのが正解なのだろう。
自分の生活のためだと言えば、まだ理解してもらえるのかもしれない。だが、それは嘘になる。
俺が本当に欲しいのは、清水教会を守るための金だった。
「……教会の借金を返すためです」
「教会?」
お父様の表情から、笑みが消えた。
「忌まわしい教会のために、この我が株価を操作しろと?」
「はい」
「ふむ」
お父様は俺を見下ろしたまま、黙り込んだ。
その沈黙が、かえって恐ろしかった。
「ただでとは申しません。俺にできることなら、何でもします。だから……お願いします」
俺は額を床につけた。
これが、今の俺にできる精いっぱいのことだった。
誇りも、見栄も、もうどうでもいい。
清水教会がなくなれば、ソフィアや子供たちの居場所が失われてしまう。
それだけは、何としても避けたかった。
「……お前は」
頭上から、低い声が降ってきた。
「この契約に、何を差し出すつもりだ?」
俺は顔を上げた。
その問いが来ることは、最初からわかっていた。
悪魔との契約に、無償の恩恵など存在しない。
願いをかなえるには、相応の対価が必要だ。
ならば、差し出せるものは一つしかない。
「俺の血も、肉体も、魂も……すべて差し上げます」
「ほう?」
「だから、株価を操作してください。俺が利益を得られるように、市場を動かしてほしいんです」
再び、俺は頭を下げた。
自分の命がどうなろうと構わない。
俺は多くの過ちを犯してきた。ソフィアを利用し、彼女の信仰を踏みにじろうとした。
その罪が消えるわけではない。
ならば、せめて今度こそ、誰かを守るために行動したかった。
長い沈黙が続いた。
やがて、お父様が口を開いた。
「そうか。お前は、自分の大切なもののために、そこまでするのか」
「はい、お父様」
「ならば、答えは決まっている」
お父様は立ち上がった。
その動きに合わせて、そばにいた女性が身を引く。
そして、お父様は俺を見下ろし、冷たく言い放った。
「断る」
「……え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「お前の願いはかなえない」
「な、なぜですか……?」
俺は呆然としたまま、お父様を見上げた。
お父様の顔には、苛立ちが浮かんでいた。
「簡単な話だ。我は教会が嫌いなのだ」
頭を殴られたような衝撃が走った。
「そ、それだけの理由で……?」
「それだけ?」
お父様の声が低くなる。
「お前は自分の立場がわかっていないようだな」
その目が、すっと細められた。
「お前は弱くなった。悪魔の権能を失い、我が息子としての誇りすら捨てた。今のお前に、何が残っている?」
「……っ」
「そのような者が、我に願いをかなえろと言うのか?」
返す言葉がなかった。
俺は、もう以前の俺ではない。
悪魔の力も、父の寵愛も、失ってしまった。
「お父様……それでも、教会を守りたいんです」
「知ったことか」
お父様は吐き捨てるように言った。
「お前は悪魔を裏切った。裏切り者に、なぜ我が恩恵を与えねばならん?」
その瞳が、蛇のように細くなった。
瞬間、全身が硬直した。
息ができない。
指先ひとつ、動かせなかった。
これが、お父様の力。
相手を見据えるだけで、その自由を奪う、圧倒的な魔力だった。
以前の俺なら、多少なりとも抵抗できたのかもしれない。
だが、今は違う。
俺はただの人間に近い存在へと落ちてしまった。
「ふん。これほどの威圧にも耐えられぬとはな」
お父様が視線を外す。
その瞬間、肺に空気が流れ込んできた。
「はっ……! はあっ……!」
俺は肩で息をしながら、床に手をついた。
たったこれだけのことで、何もできなくなる。
自分がどれほど弱くなったのか、思い知らされた。
「見損なったぞ、坂井」
その一言が、胸に突き刺さった。
だが、お父様はそこで話を終わらせなかった。
「……まあ、よい。助言くらいなら、くれてやろう」
「助言……ですか?」
「ああ。お前が二億円を手に入れる方法についてだ」
お父様は口元を歪めた。
その笑みは、甘い誘惑を差し出す悪魔そのものだった。
俺は唾をのみ、次の言葉を待った。
「坂井。清水教会の借金取りについては知っているな?」
「……山口組のことですか?」
「そうだ」
お父様は再びベッドに腰を下ろした。
「連中は金を持っている。表向きの事業だけでは説明できぬほどにな」
「それは……そうでしょうね」
違法な手段で資金を集めているのなら、相応の蓄えがあっても不思議ではない。
だが、そんなことは今さら言われなくてもわかっている。
「お父様。それが、どうしたんですか?」
「連中の拠点には、まとまった現金が保管されている」
「……!」
俺は息をのんだ。
お父様は、俺の反応を楽しむように目を細めた。
「お前が何をすべきか、もうわかっているはずだ」
「まさか……」
「ああ。そのまさかだ」
お父様の口元に、笑みが広がった。
その意味は、嫌というほど理解できた。
金を奪え。
つまり、そういうことだ。
「俺に……盗みをしろと?」
「盗みとは、また人聞きの悪い言葉だな」
「犯罪ですよ、お父様」
「ほう。犯罪が怖いのか?」
お父様は、さもおかしそうに笑った。
「二億円が欲しいのだろう? ならば、手段を選んでいる場合ではないのではないか?」
「それは……」
「正当な方法で稼ぐと言ったな。だが、時間がない。株価を操作することもできぬ。ならば、ほかに何がある?」
俺は答えられなかった。
お父様の言葉は、ひどく残酷だった。
俺が考えていた選択肢を一つずつ潰し、最後に残った道を、あたかも唯一の正解であるかのように差し出してくる。
「それに、相手は暴力団だ。まともな手段で築いた金ばかりではあるまい」
「だからといって、奪っていい理由にはなりません」
「理由?」
お父様は鼻で笑った。
「人間は、自分の利益になるなら、どれほど都合のいい理由でも作り出すものだ。お前もそうだっただろう?」
「……っ」
反論できなかった。
かつての俺も、自分の欲望を正当化するために、いくつもの理由を並べてきた。
悪魔の使命だから。
人間は愚かだから。
世界は不公平だから。
だから、何をしても構わない。
そうやって、自分の罪から目を背けてきたのだ。
「連中の金を奪えば、教会は救われるかもしれん。お前が大切にしている少女も、子供たちもな」
お父様は、俺の迷いを見透かしたように言った。
「それとも、犯罪を犯すくらいなら、教会が潰れるのを黙って見ているか?」
「……!」
「選ぶのは、お前だ」
お父様は両手を広げた。
「我は、ただ道を示しただけにすぎん」
その言葉を聞きながら、俺は拳を握りしめた。
確かに、二億円があれば教会は救われるかもしれない。
ソフィアたちの居場所を守れるかもしれない。
だが、そのために犯罪を犯していいのか。
そもそも、相手が暴力団だからといって、何をしても許されるわけではない。
そんなことは、わかっている。
わかっているはずなのに。
俺の頭には、ソフィアの笑顔が浮かんでいた。
子供たちの笑い声が聞こえてきた。
あの場所を失いたくない。
その思いが、正しさと間違いの境界を曖昧にしていく。
「……本当に、誰もいないんですか?」
気づけば、俺はそう尋ねていた。
お父様は、満足そうに目を細めた。
「さあな。信じるかどうかは、お前次第だ」
答えになっていない。
だが、お父様はそれ以上、何も説明するつもりがないらしかった。
「ヒントは与えた。あとは自分で決めろ、坂井」
俺は黙り込んだ。
この話を信じていいのか。
そもそも、お父様は本当に教会を救う方法を教えてくれたのか。
それとも、俺をさらに深い罪へと引きずり込もうとしているだけなのか。
考えても、答えは出なかった。
ただ一つ、確かなことがある。
お父様は、俺の願いをかなえるつもりなどない。
俺が何を差し出そうと、あの方にとってはどうでもいいのだ。
それでも、あの方は誘惑を差し出した。
教会を救いたければ、犯罪に手を染めろ。
大切なものを守りたければ、正しさを捨てろ。
それが、お父様の答えだった。
「……わかりました」
俺はゆっくりと立ち上がった。
お父様は、満足げに笑った。
「さすがは我が息子だ。お前なら、そう答えると思っていたぞ」
その言葉を聞いても、嬉しくはなかった。
俺はただ、頭を下げて寝室を出た。
廊下を歩きながら、何度も自分に問いかける。
俺は、何をしようとしている?
教会を守るためなら、何をしてもいいのか。
ソフィアの笑顔を守るためなら、誰かを傷つけても構わないのか。
そんなはずはない。
そんなはずはないのに……。
俺の心は、すでに揺らいでいた。
お父様の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
――二億円が欲しいのだろう?
――ならば、手段を選んでいる場合ではない。
俺は目を閉じた。
この夜は、まだ終わらない。
教会を守るために、俺は決断しなければならない。
だが、その決断が本当にソフィアたちを救うものなのか。
それとも、俺を再び悪魔へと引き戻すものなのか。
今の俺には、まだわからなかった。




