二億円を調達する方法
残り二億円。
言うまでもなく、簡単に用意できる金額ではない。
俺が知る限り、金を増やす方法は大きく三つに分けられる。
一つ目は、事業や副業によって稼ぐ方法。
資本主義社会において、最も基本的な金の稼ぎ方だ。自分の時間と労働力を提供し、その対価として報酬を得る。
マルクスの労働論を持ち出すまでもなく、人間は働くことで生活を支えている。
だが、この方法には致命的な弱点がある。
時間がかかりすぎるのだ。
俺の頭脳と体力、そして現在の能力を考えれば、普通のアルバイトで稼げる金額など、たかが知れている。仮に時給千三百円で働いたとしても、二億円を稼ぐには約十五万四千時間が必要になる。
一日も休まず、二十四時間働き続けたとしても、十七年以上だ。
現実的な労働時間を考えれば、さらに長い年月が必要になる。
もちろん、そんな悠長なことをしている暇はない。
ヤクザたちが次にやってくるのは、ゴールデンウィーク明けだ。
つまり、残された時間はわずか五日間。
この方法は、最初から選択肢に入らなかった。
二つ目は、資産運用。
手元にある金を株式や投資信託などで運用し、時間をかけて資産を増やす方法だ。
たとえば、毎月二十万円を積み立て、年利五パーセントで運用できたとする。複利の効果を考慮すれば、二億円に到達するまでには、およそ三十五年から四十年ほどかかる計算になる。
もちろん、これは一定の利回りが続くと仮定した場合の話だ。実際の投資では、資産が減る可能性もある。
資本主義社会で資産を築くには、堅実な方法と言えるだろう。
だが、これも時間がかかりすぎる。
毎月二十万円を投資に回すには、それだけの収入が必要になる。結局、元手を稼ぐために働かなければならない。
今の俺たちに、三十五年も待つ余裕はない。
よって、この方法も却下。
三つ目は、ハイリスク・ハイリターンの投資。
個別株やFX、暗号資産などを利用して、短期間で大きな利益を狙う方法だ。
少額の資金から一気に増やせる可能性はある。だが、その反面、元手を失う危険性も高い。
投資というより、博打に近い。
値上がりする銘柄を見極め、適切なタイミングで売買する。あるいは、為替の変動を利用して利益を得る。
運がよければ、大きく稼げるかもしれない。
しかし、失敗すれば、手元の資金をすべて失いかねない。
それでも、今の状況では、この方法が最も現実的に思えた。
……もっとも、俺には一つ、大きな障害がある。
お父様だ。
人間の欲望、とりわけ強欲を司る悪魔。
お父様は人間社会の裏側に潜み、株価の上昇も暴落も、思いのままに操っている。
人間が利益を求めて群がれば、その欲望を利用する。恐怖に駆られて売りに走れば、その恐怖をさらに膨らませる。
株式市場は、もはや人間だけのものではない。
そんな場所で勝ち続けるには、お父様の機嫌をうかがう必要がある。
だが、俺はそのお父様を裏切った。
任務に失敗し、悪魔としての力まで失った俺に、あの方が手を貸してくれるとは思えない。
「……困ったものだな」
俺はため息をつき、教会の祭壇を見上げた。
正面には、美しい十字架が掲げられている。
訪れる人々が心を落ち着け、祈りを捧げられるように。
この場所は、そうして大切に守られてきたのだろう。
俺は視線を落とし、再び手元の雑巾を動かした。
濡れた布で木製の長椅子を拭き、表面の汚れを丁寧に落としていく。
ここに居候すると決めた以上、何もしないわけにはいかない。
それに、掃除をしていると、不思議と頭の中が整理される。
教会を守る方法を考えながら、俺は黙々と清掃を続けた。
「あの……そんなに一生懸命していただかなくても大丈夫ですよ?」
背後から声がした。
振り返ると、ソフィアが扉の向こうから顔をのぞかせていた。
「いや、これくらいはさせてくれ。居候の身だからな。それに、体を動かしていると頭も働く。借金のことを考えるにも、ちょうどいい」
「でも、借金の件なら、清水神父様が何とかしてくださいます」
「……その頼もしい神父様が、今ここにいないんだけどな」
俺は思わず、皮肉っぽく返した。
この教会に来てから、俺はまだ清水神父と顔を合わせていない。
ソフィアがこれほど信頼している人物なのだから、何かしら理由はあるのだろう。
それでも、肝心なときに本人が不在というのは、どうにも心もとない。
そもそも、三億円という大金を、あの神父はどうやって用意するつもりなのだろうか。
「大丈夫です。清水神父様なら、きっと何とかしてくださいます」
ソフィアは、少しも疑っていない様子で言った。
「……君は本当に、神父を信じているんだな」
「はい。私にとって、大切な方ですから」
迷いのない返事だった。
その信頼がどこから来るのか、俺にはまだわからない。
だが、彼女がそう信じている以上、俺が頭ごなしに否定するのも違うのだろう。
「わかった。とりあえず、俺も自分にできることを考えてみるよ」
「ありがとうございます。でも、あまり無理はしないでくださいね」
「ああ」
俺は雑巾をバケツに放り込み、掃除道具を片づけた。
そして、自室へ戻ると、ノートパソコンを開いた。
画面には、株価や為替のチャートが並んでいる。
数字は激しく上下し、赤と青の線が複雑に入り乱れていた。
まずはニュースを確認する。
中東の海峡が封鎖され、石油の供給が滞っているらしい。エネルギー価格の上昇を警戒する動きが広がり、各国の株式市場にも不安が波及していた。
この状況で株に手を出すのは危険だ。
少なくとも、普通の投資家ならそう判断するだろう。
だが、俺は知っている。
この混乱の裏には、人間の欲望を操る悪魔の影がある。
市場がどう動くかを予測するだけでは足りない。お父様が何を考え、どこで人間の欲望を刺激するのか。それまで読み切らなければならないのだ。
「二百万円で、何ができる……?」
俺は画面をにらみながら考えた。
不動産を購入して値上がりを待つにしても、二百万円では選択肢が限られる。短期売買で利益を積み重ねるにしても、元手が少なすぎる。
それでも、俺には多少の自信があった。
相場の流れを読み、売買のタイミングを見極める。それを繰り返せば、少なくとも一千万円程度までは増やせるかもしれない。
問題は、その先だ。
一千万円から二億円へ。
そこから先は、もはや実力だけではどうにもならない。
運と、判断力と、そして……お父様の気まぐれ。
「やるしかない、か」
俺は椅子に座り直し、画面に集中した。
今の俺には、悪魔の力はない。
だが、考える頭まで失ったわけではないのだ。
まずは、手元の資金を増やす。
そのために、できることから始めるしかなかった。
◇ ◇ ◇
「……五千万円か」
夕方。
画面に表示された資産額を見て、俺は思わず声を漏らした。
二百万円だった元手が、五千万円にまで膨れ上がっている。
自分でやっておきながら、信じられない数字だった。
相場を読み、売買を繰り返した結果、ここまで増やすことができた。
もちろん、俺の判断が功を奏した部分もある。
だが、これほど都合よく利益が続くものだろうか。
まるで、誰かに背中を押されているかのようだった。
……いや、考えすぎか。
それでも、ここから先は慎重にならなければならない。
五千万円は大金だ。
だが、二億円には届かない。
残り一億五千万円。
このまま利益を伸ばせば、手が届く可能性はある。だが、同時に、これまで稼いだ金をすべて失う危険もある。
相場の世界では、一度の判断ミスが致命傷になる。
目をつぶって車道を横切るようなものだ。
うまくいけば向こう側へ渡れる。だが、失敗すれば、そこで終わりだ。
俺は画面を見つめたまま、指を止めた。
ここで、さらに勝負に出るべきなのか。
それとも、いったん手を引くべきなのか。
「……いや、やめておこう」
俺はノートパソコンの蓋を閉じた。
五千万円まで増やせたことは幸運だった。だからといって、その幸運がいつまでも続くとは限らない。
欲を出せば、すべてを失うかもしれない。
かつての俺なら、そんな危険など気にも留めなかっただろう。
だが、今は違う。
俺が失うのは、ただの金ではない。
この金を必要としているのは、俺ではなく、ソフィアたちなのだ。
ここで無謀な賭けに出るわけにはいかなかった。
時計を見ると、午後六時を回っていた。
そろそろ夕食の時間だ。
きっと、ソフィアが呼びに来る。
そう思った矢先、部屋の外から声が聞こえた。
「哲夫さん。ご飯ですよ」
「ああ、今行く」
俺は椅子から立ち上がり、部屋を出た。
廊下を歩き、階段を下りてダイニングルームへ向かう。
そこでは、子供たちがすでに席についていた。
「今日は火曜日なので、チャーハンにしました」
「チャーハンだ!」
「チャーハン!」
「……チャーハン」
三人は、それぞれの調子で喜んでいる。
食欲をそそる香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がっていた。
なるほど。これは期待できそうだ。
俺も席につき、手を合わせた。
食前の祈りを済ませてから、スプーンを手に取る。
一口食べると、炒めた米の香ばしさと卵のまろやかさが口の中に広がった。
「うまいな」
「本当ですか? よかったです」
ソフィアは嬉しそうに笑った。
この何気ない食卓を、俺は守りたいと思っている。
その気持ちは、もう誤魔化せそうになかった。
「ソフィア」
「はい。何でしょうか?」
「俺、お父様に話をしてみる」
俺はスプーンを置き、彼女を見つめた。
ソフィアは目をぱちぱちと瞬かせた。
「お父様……ですか?」
「ああ。悪魔たちの頂点に立つ、俺の父親だ。あの方に頼んで、金を用意する方法を探ってみる」
「……本当に、信用してもいい方なのですか?」
「いや。信用できるかどうかで言えば、まったくできない」
俺は正直に答えた。
「ただ、交渉してみる価値はあると思う」
悪魔との契約だ。
願いをかなえてもらうには、相応の対価が必要になる。
何を要求されるかはわからない。
それでも、俺は覚悟を決めていた。
この教会を守るために。
ソフィアや子供たちの居場所を失わせないために。
俺は、もう一度お父様と向き合わなければならない。
「無理はしないでくださいね」
「ああ。無茶はしないさ」
俺は少しだけ笑った。
「みんなの笑顔を守ってみせる」
そう口にした瞬間、ソフィアの表情がわずかに曇った。
悪魔という言葉の重さを、彼女も理解しているのだろう。
俺がこれから会おうとしているのは、ただの父親ではない。
人間の欲望を利用し、世界を自分の思いどおりに動かそうとする存在だ。
そんな相手が、俺の願いを聞き入れる保証などない。
むしろ、俺が何かを差し出すことを期待しているはずだ。
それでも、今はほかに道が見つからなかった。
俺は再びスプーンを手に取り、残りのチャーハンを食べた。
「ごちそうさま」
食器を片づけてから、俺は自室へ戻った。
ノートパソコンを開くと、株価は相変わらず激しく上下していた。
まるでジェットコースターだ。
人々は利益を求めて群がり、値が下がれば恐怖に駆られて売り、値が上がればさらに欲を出して買い続ける。
その動きの裏側に、お父様の影がちらついている。
……人間の欲望とは、なんと扱いやすいものなのだろう。
かつては、俺もその仕組みを利用する側だった。
今では、その光景を見るだけで嫌悪感を覚える。
ふと、別のニュースが目に入った。
またしても、ラブホテルで男性の遺体が発見されたらしい。
警察は自殺の可能性が高いとみて、詳しい状況を調べているという。
だが、同じような事件が続いているのなら、単なる偶然とは思えなかった。
「……須美か?」
俺は画面をにらんだ。
須美美和子。サキュバスである、かつての仲間。
彼女が関与しているという証拠はない。
それでも、悪魔たちが人間社会に潜み、暗躍していることを、俺は知っている。
人間の欲望を刺激し、争いを生み、絶望を広げる。
その先にあるのは、ハルマゲドン。
世界を巻き込む、悪魔たちの戦争だ。
ニュースを見れば見るほど、悪魔が人間社会のあちこちに潜んでいることを思い知らされる。
俺は深いため息をついた。
こんな世界に、いったい何の意味があるのだろう。
だが、今は世界の行く末を嘆いている場合ではない。
俺には、守らなければならない場所がある。
そのためには、嫌悪している相手の力を借りることさえ考えなければならないのだ。
……本当に、嫌な話だ。
俺は画面を閉じ、椅子の背にもたれた。
お父様に連絡すれば、何かが変わるかもしれない。
だが、何を要求されるのかはわからない。
金か。忠誠か。それとも、俺が二度と差し出したくない何かか。
それでも、逃げるわけにはいかなかった。
俺はもう、悪魔の命令に従うだけの存在ではない。
自分で選び、自分の責任で行動する。
そのために、まずはお父様と交渉する。
たとえ、その先にどんな代償が待っていたとしても。
……さて。
世界は、いったいどこへ向かっているのだろうか。




