朝の光と、残された二億円
ちゅん、ちゅん。
小鳥のさえずりが、静かな朝の訪れを告げていた。
ゆっくりと目を開ける。窓の外では朝日が昇り、柔らかな陽光が部屋の中へ差し込んでいた。
「もう、朝か……」
俺はぼんやりとつぶやき、隣に視線を向けた。
そこには、金髪碧眼の少女が静かな寝息を立てていた。無防備な寝顔は、普段の凛とした雰囲気とは違い、どこか幼く見える。
その穏やかな表情を見ていると、なぜか胸が落ち着かなくなった。
俺は思わず顔を背ける。
……やっぱり、彼女には敵わない。
昨日までの俺なら、こんな感情を抱くことなどなかったはずだ。
ソフィアを利用し、彼女の信仰を踏みにじり、悪魔の目的を果たす。それが俺に与えられた任務だった。
なのに、今の俺には、彼女を傷つけることができそうになかった。
ふと、自分の手元に目を落とす。
俺の手は、ソフィアの手としっかりつながっていた。
そういえば、昨晩はこうして手をつないだまま眠ったのだった。
彼女の温もりが、今も手のひらに残っている。
俺は起こさないように、そっと指をほどいた。そして、ベッドから抜け出そうとした、そのとき。
「……ん」
隣で身じろぎしたソフィアが、ゆっくりと目を開けた。
「おはようございます、哲夫さん」
「あ、ああ。おはよう」
寝起きだというのに、彼女は柔らかな笑顔を浮かべている。
「昨晩は、いい夢を見られましたか?」
「うん。いい夢だった」
夢の内容は、もう覚えていない。
けれど、幸せな夢だったことだけは、はっきりと覚えていた。
欲望にまみれた夢ではない。誰かを出し抜くことも、誰かを傷つけることもない。
ただ、温かくて、穏やかで……。
まるで、神の恩寵を受けたかのような夢だった。
悪魔である俺が、そんな夢を見るなんてな。
「ふふっ。それはよかったです」
ソフィアは嬉しそうに微笑んだ。
「さて、朝食にしましょう。子供たちも、そろそろ起きてくる時間ですから」
「そうだな」
俺はベッドから降り、部屋の出口へと向かった。
ソフィアはこれから着替えるだろう。さすがに、いつまでもここにいるわけにはいかない。
部屋を出ると、洗面台へ向かった。
歯を磨き、顔を洗う。鏡に映った自分の顔を、じっと見つめた。
「……なんだ?」
いつもと同じ顔のはずなのに、どこか違って見える。
昨日、俺は悪魔としての権能を失った。
それが原因なのだろうか。
いや、顔そのものが変わったわけではないのだろう。
ただ、今の自分の顔には、以前にはなかったものがあるような気がした。
それは、未来への期待だった。
もう、悪事を働かなくてもいい。
誰かを騙す必要も、傷つける必要もない。
罪を犯した俺に、そんな幸福を望む資格があるのかはわからない。それでも、これからの生き方を変えることならできるはずだ。
俺は両手で頬を軽く叩いた。
「よし」
気持ちを切り替え、洗面台を離れる。
ダイニングルームに向かうと、ソフィアが朝食の準備をしていた。
「朝食は、パンとオムレツです」
「おお、美味しそうだな」
「はい。心を込めて作りましたから」
そう言って、ソフィアはにっこりと微笑んだ。
……百点満点の笑顔だ。
いや、そんな採点をしている場合じゃない。
「さあ、子供たちもそろそろ起きてくるはずです」
「そうだな」
俺たちが話していると、廊下の向こうから三つの視線が飛んできた。
「なんか、いい感じ」
「いい感じ!」
「……いい感じ」
三人の子供たちが、こちらを見ながら口々につぶやいていた。
「お前たち……」
俺が言いかけると、ソフィアは慣れた様子で手を叩いた。
「はいはい。みんな、まずは手を洗って、顔を洗ってきなさい」
「「「はーい!」」」
三人は元気よく返事をすると、洗面台の方へ駆けていった。
……助かった。
余計なことを聞かれる前に、うまく追い払ってくれたらしい。
もっとも、あの様子では、あとで何か言われそうだが。
やがて全員が席に着き、朝食が始まった。
食事の前には、ソフィアに促されて短い祈りを捧げた。
神を信じていた頃の習慣など、俺にはない。
それでも、今は目を閉じて、みんなと一緒に祈った。
焼きたてのパンは香ばしく、オムレツはふんわりとしていた。口に運ぶと、卵の優しい甘みが広がる。
「……うまい」
「本当ですか? よかったです」
ソフィアは、俺の反応を見て嬉しそうに笑った。
こんな何気ない朝食が、どうしてこんなにも心地よいのだろう。
今までの俺は、金さえあれば何でも手に入ると思っていた。
だが、目の前にあるこの穏やかな時間は、金だけでは買えないのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は最後の一口を食べた。
食事を終えると、俺は流し台へ向かった。
「皿洗いは俺がやるよ」
「ありがとうございます、哲夫さん」
居候の身なのだから、これくらいは当然だ。
……とはいえ、皿洗いなど久しぶりすぎる。
以前、ヤクザたちと関わったとき以来だろうか。いや、あのときだって、まともに家事をした覚えはない。
お父様のもとで暮らしていた頃は、身の回りのことを使用人たちがすべて済ませてくれた。
そのせいで、皿を洗うだけでも妙に手間取ってしまう。
泡を流しきったつもりが、まだ洗剤が残っている。水を止めたと思えば、蛇口から水が垂れている。
……家事というのは、意外と面倒なものだな。
それでも、なんとかすべての皿を洗い終えた。
そのときだった。
玄関の方から、荒々しい声が聞こえてきた。
「おい! いつまで待たせるつもりだ!」
ただならぬ気配を感じ、俺は手を拭いて玄関へ向かった。
そこには、大柄な男が三人立っていた。
いずれも威圧的な風貌をしている。以前、俺がソフィアを助けたときに関わった連中と同じ類いの人間だ。
そして、その前に立っているのはソフィアだった。
「三億円だ。契約書に書いてあるだろう。さっさと払え」
「申し訳ありません。まだ、全額を用意できていないのです」
「なら、ここから出ていけ」
「それはできません」
ソフィアは、男たちをまっすぐに見据えていた。
「ここは、行き場のない子供たちが暮らす場所です。それだけではありません。苦しんでいる人たちが心を休め、安心して過ごせる場所でもあります。私たちには、この教会を守る責任があります」
「知ったことか。金が払えねえなら、出ていく。それだけの話だ」
「どうか、もう少しだけお待ちいただけませんか」
「同じことばかり言いやがって……!」
話し合いは、完全に平行線だった。
やがて、男の一人が苛立たしげに舌打ちした。
「だったら、お前自身に払ってもらおうか」
「え……?」
「体で払えって言ってんだよ!」
「きゃっ!」
男がソフィアの腕をつかみ、乱暴に引き寄せた。
ソフィアの顔から血の気が引く。
その瞬間、俺の体は勝手に動いていた。
「やめろ!」
男とソフィアの間に割って入る。
「なんだ、このガキは?」
「金なら出す。だから、その手を放せ」
俺は男をにらみつけた。
もう、目の前で彼女が傷つけられるのを黙って見ているつもりはなかった。
「……金だと?」
男はソフィアの腕を放し、俺を値踏みするように見た。
「いくら持ってる?」
「一億円だ」
「ほう?」
「それで今日は勘弁してくれ。残りは、なんとかする」
男は一瞬、驚いたような顔をした。
だが、すぐに下卑た笑みを浮かべる。
「ガキのくせに、ずいぶん景気がいいじゃねえか。いいだろう。今日のところは、それで手を打ってやる」
「少し待っていてくれ」
俺は自室へ駆け戻った。
鞄を開け、中身を確認する。
そこには、お父様から渡された一億円が入っていた。
任務を成功させるための資金。俺が悪魔として生きていた証のような金だ。
今となっては、見るだけで胸が重くなる。
それでも、今は迷っている場合ではなかった。
俺は鞄のファスナーを閉じ、玄関へ戻った。
「ほら。約束の一億円だ」
男たちの前に鞄を差し出す。
男は受け取ると、中身を確かめるように重さを量り、満足そうにうなずいた。
「話がわかるじゃねえか。だが、残り二億円も忘れるなよ」
「ああ」
「じゃあ、また来る。次は全額、用意しておけよ」
男たちは鞄を持ち、玄関から出ていった。
最後まで威圧的な態度を崩さなかったが、ひとまず今日は引き下がってくれたらしい。
足音が遠ざかるのを確認してから、俺は大きく息を吐いた。
「……ふう」
ひとまず、危機は去った。
だが、問題が解決したわけではない。
残り二億円。
この金額を用意できなければ、教会がどうなるのかもわからない。
「哲夫さん……」
隣から、ソフィアの声が聞こえた。
振り向くと、彼女は心配そうに俺を見つめていた。
「あのお金、本当によかったのですか? あれほどの大金を……」
「いいんだ」
俺は短く答えた。
「もう、俺には必要のない金だからな」
そう。あれは、お父様が俺に与えた金だ。
悪魔の任務を遂行するために渡された、いわば前金のようなもの。
俺が任務に失敗した以上、あの金を持っている理由もない。
お父様に返すつもりもなかった。そもそも、あの方は金に困っていない。あの程度の金額など、痛くもかゆくもないだろう。
問題は、そこではない。
どうやって残りの二億円を調達するか。
俺の手元には、まだ二百万円ほど残っている。ソフィアの貯金を合わせても、到底足りない。
二百万円を百倍にしたところで、二億円だ。
いや、百倍にすること自体が、すでに無謀なのだが。
「この件について、少し話そう。ソフィア」
「はい。そうですね」
俺たちは玄関を離れ、宿舎のダイニングルームへ戻った。
ソフィアも事態の深刻さを理解しているのだろう。先ほどまでの穏やかな表情は消え、真剣な顔で椅子に腰を下ろした。
「大変なことになったな。どうにかして、残りの二億円を用意しないと」
「はい……。私の手元には、十万円もありません」
「それじゃ、どう考えても足りないな」
「そうですね。何か、よい方法はないでしょうか?」
「難しいな。株式投資にしても、元手が少なすぎる。短期間で何倍、何十倍にも増やすなんて、現実的じゃない」
俺の二百万円を合わせたところで、焼け石に水だ。
そもそも、短期間で大金を稼ごうとすれば、それだけ大きな危険を背負うことになる。
お父様なら、株価を操作するなり、裏から市場を動かすなりして、二億円くらい簡単に用意できるかもしれない。
だが、それだけはできなかった。
俺は、もう悪魔ではない。
いや、正確に言えば、かつての俺が持っていた力を失ったのだ。
任務に失敗し、お父様の期待を裏切った俺が、今さら助けを求められるはずもない。
あの方にとって、失敗した息子など、価値のない存在なのだから。
「困りましたね……」
「そうだな。何か、ほかに手立てはないものか」
俺は腕を組み、考え込んだ。
だが、どれだけ頭をひねっても、妙案は浮かばない。
そもそも、二億円という金額が大きすぎるのだ。普通に働いて稼げる額ではないし、宝くじに期待するのも馬鹿げている。
ましてや、俺たちに残された時間は限られている。
ふと、気になっていたことを思い出した。
「そういえば、清水神父はどこにいるんだ?」
「え?」
「この教会には、大人がいるはずだろう。今の状況を、神父はどう考えているんだ?」
そう尋ねると、ソフィアの表情が曇った。
彼女は視線を落とし、少し震える声で答えた。
「清水神父様は、お金を調達するために出かけています。詳しいことは、私にもわかりません」
「金を調達するために……か」
俺は眉をひそめた。
どうにも、嫌な予感がする。
「神父様は、あまりお体が丈夫ではありません。それに、そんな大金をすぐに用意できるような方でもないと思います」
「……そうか」
神父がどこへ向かったのか。誰を頼ろうとしているのか。
そのあたりを調べる必要がありそうだ。
俺は再び考え込んだ。
二億円を調達する方法。
現時点で思いつくのは、ただ一つ。
お父様と交渉することだ。
だが、あの方は無償で何かを与えるような存在ではない。金を得るためには、それに見合う対価を差し出さなければならない。
では、何を差し出す?
教会を譲り渡したところで、あの方にとって、どれほどの価値があるのだろう。
悪魔との契約は、願いを唱えるだけで成立するような都合のいいものではない。相応の対価が必要になる。
魂か。血か。それとも、もっと別の何かか。
かつての俺なら、迷うことなくソフィアを対価に差し出そうとしただろう。
彼女の信仰を利用し、人生を踏みにじり、お父様の目的を果たす。そのために、俺はここへ来たのだから。
だが、今は違う。
ソフィアを犠牲にして手に入れた金など、受け取れるはずがなかった。
……では、俺自身に何ができる?
考えても、すぐには答えが出ない。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
ゴールデンウィークが終わるまでに、何らかの手立てを見つけなければならない。
残された時間は、あとわずかだ。
情報を集め、状況を整理し、実行可能な方法を考える。
まずは、そこから始めるしかない。
俺は悪魔の王の息子として生まれた。
だからこそ、どんな手段を使ってでも、この危機を乗り越えられるはずだ。
……いや。
今はもう、悪魔の力に頼ることはできない。
ならば、俺自身の頭で考え、俺自身の手で道を切り開くしかないのだ。
「大丈夫ですよ」
不意に、ソフィアが口を開いた。
「……何が?」
「きっと大丈夫です。清水神父様なら、きっと何とかしてくださいます」
彼女はそう言って、いつものように微笑んだ。
なんとも楽観的な言葉だ。
「それは、少し神頼みが過ぎるんじゃないか?」
「ふふっ。そうでしょうか?」
「そうだろう。今は祈るだけじゃなく、具体的な方法を考えないといけない」
「はい。私も、できることを探してみます」
ソフィアは真剣な表情でうなずいた。
……まったく。
彼女の前向きさには、どうにも調子を狂わされる。
けれど、今はその明るさに甘えている場合ではない。
俺は椅子の背にもたれ、頭の中で考えを整理した。
残り二億円。
限られた時間。
そして、何としても守りたい場所がある。
さて、どうするべきか。
今の俺には、まだ答えが見つからなかった。




