聖女と迷える子羊の夜
「では、寝ましょう」
「ああ、そうだな」
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。
日付はとうに変わっている。俺たちは温かいココアを飲み、冷え切った体を温めた。
そろそろ眠る時間だ。
俺は立ち上がり、自分の部屋へ戻ろうとした。
ところが、ソフィアも当たり前のようについてくる。
「……ソフィア?」
「はい。なんでしょうか?」
「なんで、ついてくるんだ?」
「一緒に寝るからです」
「んなっ!?」
思わず声が裏返った。
何を言っているんだ、こいつは。
俺は、ついさっきまで彼女を傷つけようとしていた男だぞ。
そんな相手と一緒に寝るなんて、正気の沙汰じゃない。
「哲夫さん、さっきまで泣いていましたから」
「もう泣いてないだろ」
「でも、また泣くかもしれません」
「いや、泣かないから」
「そうですか?」
「そうだよ!」
「……本当ですか?」
ソフィアは、じっと俺の顔を見つめてきた。
くっ……。
その目で見られると、なんだか嘘をついているような気分になる。
「と、とにかく、もう大丈夫だ」
「それなら、なおさら一緒に寝ても問題ありませんね」
「どういう理屈だよ!」
「私はシスターですから。困っている人を慰めるのは得意なんです」
「……お前、いつか本当にひどい目に遭うぞ」
「そのときは、哲夫さんが守ってください」
ソフィアは、にっこりと笑った。
「だって、哲夫さんは本当は優しい人ですから」
「…………」
俺は天井を仰いだ。
駄目だ。
何を言っても、この少女には通じない。
頑固というか、何というか。
人の話を聞いているようで、最後には自分の意見を押し通してくる。
聖女というのは、みんなこうなのだろうか。
いや、絶対に違うはずだ。
俺は大きく息を吐き、ベッドに腰を下ろした。
「……好きにしろ」
「はい!」
どうやら、これで決まりらしい。
もっとも、俺はもう悪魔ではない。
あの力も失ってしまった。
これからは、悪魔としての欲望に振り回される必要もない。
だからこそ、彼女に妙な警戒をさせないよう、きちんと距離を守らなければならない。
……そう考えていたのだが。
「ん? おい、ソフィア。何をしている?」
隣を見ると、彼女は寝る支度を始めていた。
「寝る準備です」
「いや、それは見ればわかる。そうじゃなくて、どうして俺の部屋で……」
「だって、一緒に寝るんですから」
「だから、そういう意味じゃなくてだな!」
俺は慌てて視線をそらした。
「俺、男なんだけど!?」
「はい。知っていますよ?」
「わかってるなら、もう少し警戒しろ!」
ソフィアは不思議そうに首をかしげた。
「でも、哲夫さんのことは信じていますから」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。
信じている。
彼女は、簡単にその言葉を口にする。
けれど、その信頼がどれほど重いものなのか、彼女はわかっているのだろうか。
俺は彼女を裏切った。
傷つけようとした。
それなのに、彼女は俺を信じようとしている。
「……本当に、無防備な奴だな」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
「では、哲夫さんが見張っていてください」
「そういう問題じゃない!」
ソフィアは、くすくすと笑った。
まったく。
この少女は、見た目以上にしたたかなのかもしれない。
「では、ベッドに入りますね。あまり見ないでください」
「見ないよ!」
「ふふ。お願いしますね」
俺は言われるまでもなく、顔を背けた。
しばらくして、隣の布団が静かに沈む。
ソフィアはきちんと寝間着を着て、俺から少し距離を空けて横になった。
それでも、同じベッドに人がいるというだけで、どうにも落ち着かない。
目を閉じても、意識は隣に向いてしまう。
心臓がうるさい。
いや、別に変な意味ではない。
……本当だぞ?
「ふふっ」
「……何がおかしい?」
「哲夫さん、心臓がどきどきしていますね」
「聞くな! 気にしてるんだから!」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
「お前が平然としすぎなんだよ!」
俺は布団を頭までかぶった。
なんなんだ、この状況は。
つい先ほどまで、俺は自分の罪に押しつぶされそうになっていた。
それなのに今は、隣にいる少女のせいで別の意味で落ち着かない。
「……俺のライフは、もうゼロだ」
「ライフ?」
「何でもない。頼むから、もう寝てくれ」
「はい。でも、ひとつだけ」
「まだあるのか……」
「泣き虫を治すには、どうしたらいいと思いますか?」
「俺はそんなに泣き虫じゃない!」
「そうですか? さっきは、ずっと泣いていましたよ?」
「それは……」
反論できなかった。
「それに、哲夫さんは迷子の子羊さんみたいです」
「迷子の子羊?」
「はい。自分がどこへ行けばいいのか、わからなくなってしまった子羊さんです」
「…………」
俺は黙り込んだ。
以前の俺は、自分を狼だと思っていた。
他人を欺き、追い詰め、思いどおりに操る捕食者。
誰かに頭を下げることも、助けを求めることも、弱さだと思っていた。
けれど、今は違う。
自分が何者なのかも、どこへ向かえばいいのかもわからない。
ソフィアの言うとおり、俺は迷子なのかもしれない。
「……子守歌でも歌ってやろうか?」
「いや、逆だろ。俺が子守歌を歌ってもらう側なのかよ」
「はい。必要でしたら、歌いますよ?」
「結構です!」
「そうですか。残念です」
ソフィアは、少しも残念そうではない声で言った。
こいつ……。
もしかして、俺をからかって楽しんでいるのではないだろうか。
「では、おとぎ話をしましょう」
「……寝るんじゃなかったのか?」
「寝る前のおとぎ話です」
「子供か!」
「はい。哲夫さんは、まだ子供みたいですから」
ぐっ……。
言い返せないのが悔しい。
俺よりも頑固で、面倒見がよくて、しかも妙に押しが強い。
この聖女、実はとんでもない性格なのではないだろうか。
だが、彼女の声には不思議な心地よさがあった。
俺は観念して、枕に頭を沈めた。
「……わかった。聞くだけ聞いてやる」
「ふふ。では、始めますね」
ソフィアは、ゆっくりと語り始めた。
「昔々、清水教会の前に、一人の赤ちゃんが置き去りにされていました」
「……え?」
「その子には、名前しかありませんでした。両親が誰なのかも、どこから来たのかも、わからなかったのです」
俺は、隣にいる少女を見た。
ソフィアは天井を見つめながら、穏やかな声で話を続けた。
「赤ちゃんを見つけた神父様は、その子を教会で育てることにしました。金色の髪に青い瞳。日本では珍しい容姿だったので、遠い外国から来た子なのかもしれない、と考えたそうです」
「……それって」
「はい。私のことです」
やっぱり、そうだったのか。
ソフィアが捨て子だったことは知っていた。
けれど、彼女自身の口から、こうして聞くのは初めてだった。
「神父様は、私に名前をつけて、育ててくださいました。教会の子供たちも、私を家族のように迎えてくれたんです」
彼女の声は、どこまでも穏やかだった。
「私は、たくさんの人に支えられて大きくなりました。だから、今度は私が、みんなを支えられる人になりたいと思ったんです」
「……そうか」
「はい。それで、いつか神父様のように、困っている人を助けられるようになりたいと思っています」
ソフィアは少しだけ笑った。
「でも、私はまだまだ未熟ですね」
「そんなことは……」
ない、と言いかけて、俺は口を閉じた。
彼女は、誰よりも人を助けようとしている。
それでも、自分の未熟さを認めているのだ。
俺とは正反対だった。
俺は、自分の弱さを認めたくなくて、他人を傷つけてきた。
彼女は、自分の弱さを認めながら、誰かを助けようとしている。
それが、俺には眩しかった。
「でも、ある日、私は知ってしまったんです」
「何を?」
「この教会が、大きな借金を抱えていることを」
その言葉に、俺は黙って耳を傾けた。
「神父様は、ずっと私たちに心配をかけないようにしてくださっていました。でも、教会を守るためには、たくさんのお金が必要だったんです」
ソフィアは、小さく息を吐いた。
「私は、何かできることはないかと考えました。勉強を教えたり、家事を手伝ったり、できることは何でもしました。でも、それだけでは足りませんでした」
「それで……」
「はい。インターネットで知り合った人たちと会って、お話をする仕事を始めたんです。話をするだけなら、誰も傷つかないと思っていましたから」
彼女の声が、少しだけ小さくなる。
「でも、世の中には、私が考えていたよりもずっと危険な人がいるんですね」
「……ああ」
俺は、拳を握りしめた。
あの夜のことが、脳裏によみがえる。
彼女は、ただ教会を守りたかっただけだった。
それなのに、俺は彼女の善意につけ込もうとした。
自分の目的を果たすために。
「私が危ない目に遭ったとき、哲夫さんが助けてくれました」
「……俺は、そんな立派な人間じゃない」
「知っています」
「おい」
思わず突っ込んでしまった。
ソフィアは、楽しそうに笑った。
「だって、哲夫さんは自分のことを悪く言いすぎですから」
「事実だろ」
「そうですね。悪いことをしたのは事実です」
「……うっ」
「でも、哲夫さんには、これから何をするかを選ぶこともできます」
彼女は、俺のほうへ顔を向けた。
「だから、私は、これからの哲夫さんを信じたいんです」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
俺は、彼女を裏切った。
彼女の信頼に値する人間ではない。
それでも彼女は、過去の俺だけを見て、未来まで決めつけようとはしなかった。
「……どうして、そこまでしてくれるんだ?」
俺は、思わず尋ねた。
ソフィアは少し考えてから、恥ずかしそうに微笑んだ。
「哲夫さんの力になりたいからです」
「それは、どうして?」
「……好きだから、でしょうか」
「…………は?」
俺は、思考が停止した。
今、何と言った?
好き?
誰が?
誰を?
俺を?
「ちょ、ちょっと待て! それは、その……どういう意味だ?」
慌てて尋ねると、ソフィアは頬をほんのり赤くした。
「私にも、まだよくわかりません」
「わからないのかよ!」
「でも、哲夫さんが苦しんでいると悲しいですし、笑っていると嬉しいです。もう一度、元気になってほしいと思います」
彼女は、ゆっくりと言葉を続けた。
「私は、哲夫さんに幸せになってほしいんです」
「……ソフィア」
「それが恋なのか、愛なのか、今の私には、まだうまく説明できません。でも、あなたのことを大切に思っているのは、本当です」
俺は、何も言えなかった。
悪魔にとって、愛とは利用するものだった。
誰かの恋心を利用し、欲望を刺激し、相手の人生を狂わせる。
俺は、そうやって生きてきた。
だから、愛など偽りの感情だと思っていた。
人間は寂しさを埋めるために誰かを求める。
欲望を満たすために誰かを利用する。
そう信じていた。
けれど、ソフィアの言葉には、俺の知っている欲望とは違うものがあった。
彼女は、俺に何かを要求しているわけではない。
俺を自分の思いどおりに変えようとしているわけでもない。
ただ、俺が幸せになれるように願っている。
その気持ちが、俺には理解できなかった。
理解できないからこそ、知りたいと思った。
「……俺は、そんな人間じゃないぞ」
「はい。今は、まだそうかもしれませんね」
「おい……」
「でも、これから変わっていけると思います」
ソフィアは、穏やかに笑った。
「いつか、哲夫さんが立派な大人になって、誰かを傷つけるのではなく、誰かを支えられる人になれたらいいですね」
「……そうだな」
俺は、静かにうなずいた。
「きっと、なれるよ」
それが誰のことを指しているのか、俺にはわからなかった。
けれど、その言葉を否定したくはなかった。
ソフィアは、満足そうに微笑んだ。
「ふふ。そうですね」
その夜、俺たちは静かに笑い合った。
外では、雨上がりの風が木々を揺らしていた。
男女が同じベッドで眠る。
そんな状況なのだから、もっと気まずい空気になると思っていた。
だが、実際には何も起こらなかった。
ソフィアは、俺の隣でおとぎ話を語り、俺はそれを聞いていた。
ただ、それだけだった。
けれど、俺にとっては、それだけで十分だった。
「……もう、眠くなってきた」
俺は大きなあくびをした。
「それはよかったです」
「お前のおとぎ話、意外と眠くなるな」
「まあ。せっかく心を込めてお話ししたのに」
「悪い、悪い」
「では、子守歌も歌いましょうか?」
「結構です! 今度こそ、本当に寝るから!」
「ふふ。わかりました」
ソフィアは、くすくすと笑いながら目を閉じた。
やがて、隣から穏やかな寝息が聞こえてくる。
俺も、ゆっくりと目を閉じた。
いろいろと考えたいことはあった。
これまでの罪。
お父様のこと。
失ってしまった悪魔の力。
そして、これから自分がどう生きていくのか。
だが、今はもう、何も考えられなかった。
心も体も、疲れ切っていた。
俺は悪魔ではなくなった。
だからといって、これまでの罪が消えるわけではない。
俺は、これから償っていかなければならない。
それでも、もう自分の罪から逃げるのはやめよう。
迷子の子羊でもいい。
行き先がわからないのなら、これから探せばいい。
誰かの命令ではなく、自分の意思で歩いていこう。
そんなことを考えているうちに、まぶたが重くなっていった。
眠りに落ちる直前、俺は隣にいる少女のことを考えた。
明日も、ソフィアの顔を見られたらいい。
そして、いつか。
彼女の隣に立つことを、恥ずかしいと思わずに済む人間になれたらいい。
そう願いながら、俺は静かに眠りについた。




