雨上がりの奇跡
雨の中、俺は電話ボックスに閉じこもり、泣いていた。
自分の罪深さに、ほとほと嫌気が差していた。
なぜ、俺はこんなにも醜いのだろう。
なぜ、俺はこんなにも汚れてしまったのだろう。
どうして、これほど多くの罪を重ねてしまったのだろう。
同じ問いが、頭の中をぐるぐると巡る。
考えても、考えても、答えは出ない。
ただ、これまでの自分がしてきたことを思い返すたび、胸の奥が締めつけられた。
もう、誰にも会いたくなかった。
誰にも顔を見られたくなかった。
ましてや、ソフィアの顔など、まともに見られるはずがない。
スマートフォンを取り出す。
時刻は、すでに午前零時を過ぎていた。
画面には、世界の惨状を伝えるニュースが次々と流れている。
中東で激化する戦争。数千人もの犠牲者。
ラブホテルで相次ぐ、不可解な事件。
株価の急落と、それによって生活を脅かされる人々。
画面の向こうでは、世界が壊れ続けていた。
けれど、今の俺には、そのどれもが遠い出来事のように感じられた。
悪魔の仕業だ。
俺たちが、人間の欲望を利用し、争いをあおり、世界を混乱へと導いてきた結果だ。
俺だって、その一端を担ってきた。
なのに今、俺はそんな悪魔たちに嫌悪感を抱いている。
いや。
一番嫌悪しているのは、ほかでもない。
自分自身だ。
……俺は、取り返しのつかない罪を犯そうとした。
ソフィアの意思を踏みにじり、力ずくで自分の望みを押し通そうとした。
あのとき、彼女がどれほど怖かったのか。
どれほど傷ついたのか。
俺は、考えようともしなかった。
自分の目的を果たすことしか頭になかった。
そんな俺を、ソフィアは恐れながらも、最後には心配してくれた。
その優しさが、何よりも苦しかった。
俺は彼女から逃げ出した。
そして、お父様の期待を裏切った。
須美だって、きっと俺に失望するだろう。
これまで悪魔として生きてきたくせに、肝心なところで何もできなかった。
なんて情けない悪魔なのだろう。
……俺は、どこで間違えた?
生まれたときから、間違っていたのか。
捨て子として生まれ、暴力に支配された世界で育ったことが原因なのか。
それとも、悪魔になったあの日が、すべての始まりだったのか。
愛を知らず、誰かを愛する方法も知らず、他人を利用することだけを覚えた。
俺は、自分のことを怪物だと思っていた。
だが、本当にそうなのだろうか。
もし俺が怪物なら、どうして今、こんなにも苦しいのだろう。
どうして、彼女の言葉が頭から離れないのだろう。
「……っ」
そのときだった。
雨に煙る街の向こうに、懐中電灯の光が見えた。
誰かが傘を差し、こちらへ向かって走ってくる。
小柄な人影だった。
フードから、金色の髪がわずかにのぞいている。
俺は息をのんだ。
「あれは……」
見間違えるはずがない。
清水ソフィア。
彼女は雨の中、足元も気にせず、必死に辺りを照らしていた。
「哲夫さん! どこですか? 哲夫さん!」
「……っ!?」
名前を呼ばれ、俺は反射的に身を縮めた。
電話ボックスの隅で膝を抱え、顔を伏せる。
なんで、ここまで来たんだ。
俺は、お前にひどいことをしようとしたんだぞ。
お前を傷つけようとした、最低の人間なんだぞ。
それなのに、どうして……。
「哲夫さん!」
ソフィアの声が、雨音にかき消されそうになりながらも響いてくる。
俺は返事ができなかった。
ただ、震える手で財布を取り出す。
中には、札束が詰まっていた。
だが、これだって胸を張って手に入れた金ではない。
人間の不安や欲望につけ込み、他人の人生を狂わせて得たものだ。
金ならある。
力だって、権力だって、手に入れてきた。
なのに、今の俺には何もない。
自分が何者なのかさえ、わからなくなっていた。
「哲夫さん!」
もう一度、声がした。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
電話ボックスのガラス越しに、少女の姿が見える。
雨に濡れながら、ソフィアは俺を見つけていた。
その頬を、雨とは違う雫が伝っている。
「……よかった」
彼女は、安堵したように微笑んだ。
「無事で、本当によかったです」
どうして、そんな顔をするんだ。
どうして、俺を見つけて喜べるんだ。
「……なんで?」
かすれた声で、俺は尋ねた。
「なんで、俺を探しに来たんだ?」
ソフィアは少しだけ困ったように笑った。
「哲夫さんが、ひどく苦しんでいるように見えたからです」
「俺は……」
言葉が喉につかえた。
「俺は、お前にひどいことをしようとしたんだぞ」
「はい」
「お前の気持ちなんか考えずに、自分の望みを押し通そうとした。お前を傷つけるところだったんだ」
「……はい」
彼女は、目をそらさなかった。
俺の罪を否定することも、何もなかったかのように振る舞うこともしなかった。
「それでも、俺を探しに来たのか?」
「はい」
「どうしてだよ……」
自分でも驚くほど、情けない声だった。
ソフィアは、少し考えるように視線を落とした。
「哲夫さんには、助けてもらったこともありますから」
「それは……」
新宿での一件が、脳裏をよぎる。
俺が彼女を助けたのは、善意からではなかった。
自分の獲物を、ほかの人間に横取りされたくなかっただけだ。
「違う。あれは、ただ自分の都合で……」
「そうだったのかもしれません」
ソフィアは静かにうなずいた。
「でも、あのとき、哲夫さんは私を助けてくれました。そのことまで、なかったことにはできません」
「……っ」
「もちろん、だからといって、哲夫さんがしようとしたことが許されるわけではありません」
その言葉に、俺は息を止めた。
ソフィアは、俺をかばおうとしているわけではなかった。
俺が犯そうとした罪を、軽く扱っているわけでもない。
それでも彼女は、俺を探しに来てくれたのだ。
「私は、哲夫さんが苦しんでいるのを見て、放っておけませんでした」
彼女は、まっすぐに俺を見つめた。
「それだけです」
ああ。
俺は、この子には勝てない。
純粋無垢という言葉だけでは、とても言い表せない。
彼女は、俺が思っていたほど何も知らない少女ではなかった。
人の弱さも、過ちも、きっと知っている。
それでも、誰かを見捨てないことを選んでいるのだ。
俺は最後の抵抗を試みた。
彼女に嫌われればいい。
俺から離れてくれればいい。
そうすれば、もう彼女を傷つけずに済む。
「俺は……悪魔なんだ」
声が震えた。
「人間じゃない。お前とは違う。俺は人をだまして、傷つけて、人生を狂わせてきた。お前が思っているような人間じゃない」
俺は顔を伏せた。
「だから、もう俺に構うな。頼むから……俺なんか、放っておいてくれ」
しばらく、返事はなかった。
やがて、雨音の向こうから、ソフィアの声が聞こえてきた。
「いいえ」
彼女は、はっきりと言った。
「私は、あなたを一人にはしません」
「……どうしてだよ」
「あなたが泣いているからです」
その瞬間、俺は自分の頬に触れた。
濡れている。
雨に濡れたからではない。
俺は、泣いていたのだ。
自分の罪が、恥ずかしかった。
これまでの自分が、許せなかった。
それなのに、ソフィアは俺を探してくれた。
どうして、そんなことができるんだ。
俺には、わからなかった。
「聖書に、こんな言葉があります」
ソフィアは静かに語り始めた。
「『もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます』」
「それは……」
「ヨハネの手紙第一、一章九節です」
ソフィアは、そっと微笑んだ。
「神様は、私たちが自分の罪と向き合うことを望んでおられるのだと、私は信じています」
「……俺みたいな悪魔でも?」
「私は、神様にすべてをお任せしています。でも、哲夫さんが犯した罪が、なかったことになるわけではありません」
彼女は、言葉を選ぶように続けた。
「傷つけられた人の痛みも、失われたものも、簡単には元に戻せません。だからこそ、罪から目をそらさず、これからどう生きるかを考えてほしいんです」
俺は何も言えなかった。
「私は、あなたの罪を代わりに消すことはできません。でも、あなたが自分の過ちと向き合おうとするなら、その道を一人で歩かせたくはありません」
ソフィアは、俺に手を差し出した。
「だから、帰りましょう。哲夫さん」
その笑顔は、眩しかった。
俺のような人間には、まぶしすぎるほどに。
俺は、また泣いてしまった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
謝罪の言葉すら、口にできなかった。
そんな俺を、ソフィアは急かさなかった。
ただ、俺が落ち着くまで、そばにいてくれた。
「……俺は、化け物だ」
ようやく絞り出した言葉は、それだった。
ソフィアは首を横に振った。
「哲夫さんは、化け物になったつもりで生きてきたのかもしれません。でも、今のあなたは、自分の罪を悲しんでいます」
「それが、何になるんだよ……」
「これから、どうするかを考えることができます」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
俺は悪魔だった。
悪魔として生きてきた。
だが、これからも同じように生きなければならない理由など、本当にあるのだろうか。
そのとき、体の奥で何かが揺らいだ。
今まで当たり前のように感じていた力が、急速に遠ざかっていく。
「な……っ?」
額に生えていた角が、淡い光となって消えていく。
背中にあったコウモリの翼も、黒い霧のようにほどけ、夜の闇へと溶けていった。
俺は呆然と、自分の手を見つめた。
悪魔の権能が、失われていく。
お父様から与えられた力。
インキュバスとしての力。
それらが、俺の体から離れていった。
「まさか……」
俺は、ソフィアを見た。
彼女は驚いた様子だったが、逃げることも、俺を恐れて遠ざかることもしなかった。
俺は、もう悪魔ではないのか。
いや。
そんな簡単な話ではないのだろう。
力を失ったからといって、これまでの罪が消えるわけではない。
俺が犯したことも、傷つけた人々の苦しみも、何一つ変わらない。
それでも。
これからの自分を変えることは、できるのかもしれない。
俺は、そう思った。
「……ソフィア」
「はい」
「俺は……」
謝りたかった。
許してほしいと言いたかった。
けれど、そんな言葉を口にする資格が、自分にあるとは思えなかった。
だから、俺はうつむいた。
「ごめん……」
それだけしか、言えなかった。
ソフィアは、すぐには答えなかった。
やがて、静かにうなずく。
「その言葉を忘れないでくださいね」
「ああ……」
「そして、これからの行動で示してください」
俺は、何度もうなずいた。
いつか、彼女の目をまっすぐに見られるようになりたい。
そのために、何をすべきなのか。
今は、まだわからない。
けれど、もう逃げたくなかった。
「さあ、帰りましょう」
ソフィアが手を差し出す。
俺はためらいながら、その手を握った。
その瞬間だった。
あれほど激しく降っていた雨が、ふっと弱まった。
そして、雲の切れ間から、月明かりが差し込んでくる。
長い夜の中に、ほんのわずかな光が生まれた。
まるで、俺の心にも同じような光が差し込んだかのようだった。
「……雨が、止んだな」
「本当ですね」
ソフィアは空を見上げ、嬉しそうに笑った。
「きっと、帰り道を神様が照らしてくださっているんです」
「……そうかもな」
俺は、そう答えることしかできなかった。
神など信じていなかった。
むしろ、憎んでさえいた。
それなのに今は、その言葉を否定する気になれなかった。
「手を離さないでくださいね」
ソフィアが言った。
「はぐれたら大変ですから」
「子供じゃあるまいし……」
「ふふ。今の哲夫さんは、迷子の子供みたいです」
「う、うるさい」
「でも、もう大丈夫。ちゃんと一緒に帰りましょう」
彼女は、俺の手をしっかりと握った。
その手は、温かかった。
俺が知っているのは、命令と暴力、裏切りと恐怖ばかりだった。
誰かに手を引かれることが、こんなにも心強いものだなんて、知らなかった。
ソフィアの言葉には、悪意がない。
からかうような口調の奥に、確かな優しさがある。
俺は、その温もりを感じながら、彼女の隣を歩いた。
この最低な一日。
これまでの、最悪な人生。
そのすべてが、今すぐ変わるわけではない。
それでも、これから先を照らしてくれる人が、目の前にいる。
俺は、その手を離さないように、しっかりと握り返した。
*
清水教会に戻る頃には、雨はすっかり上がっていた。
「さあ、宿舎に行きましょう。温かいココアを用意しますね」
ソフィアは、俺を教会の裏手にある宿舎へと案内した。
食堂の椅子に腰を下ろすと、彼女は台所へ向かった。
やがて、湯気の立つマグカップを手に戻ってくる。
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
俺は両手でカップを受け取った。
一口、飲む。
甘かった。
あまりにも、甘かった。
けれど、その温かさが、冷え切った体にゆっくりと染み渡っていく。
ただのココアだ。
特別な材料が入っているわけでも、魔法がかけられているわけでもない。
それなのに、どうしてこんなにも心が温まるのだろう。
俺は、カップを見つめた。
こんな何でもない時間を、俺は知らなかった。
誰かが自分のために飲み物を用意してくれること。
何も求めず、隣に座ってくれること。
自分が泣いていても、急かさずに待ってくれること。
そんな当たり前のような優しさを、俺は一度も知らなかったのだ。
「……っ」
また、涙がこぼれた。
「やっぱり、哲夫さんは泣き虫ですね」
ソフィアは、困ったように笑いながら、俺の頭をそっとなでた。
「う、うるさい……」
「はいはい」
「俺は……悪魔だったんだぞ」
「そうですね」
「人間じゃなかったんだ」
「でも、今はここにいます」
彼女は、俺の隣に腰を下ろした。
「だから、少しずつ考えていきましょう。これから、どう生きるのか」
俺は答えられなかった。
ただ、泣き続けた。
ソフィアは、俺が泣き止むまでそばにいてくれた。
過去を問いただすことも、無理に話を聞き出すこともなかった。
ただ、そこにいてくれた。
その沈黙が、何よりもありがたかった。
「哲夫さん」
やがて、彼女が静かに口を開いた。
「神様は、あなたが罪と向き合うことを望んでおられると、私は信じています」
「……ああ」
「だから、これからのあなたを、私は見ていたいです」
俺は顔を上げた。
ソフィアは、穏やかな笑顔を浮かべていた。
その笑顔を見て、また涙がこぼれた。
けれど、今度の涙は、さっきまでのものとは少し違っていた。
悲しみだけではない。
後悔だけでもない。
初めて知った温もりに、胸がいっぱいになっていた。
俺は、まだ何も償っていない。
悪魔として犯してきた罪は、山のように残っている。
ソフィアにだって、これから先、どんな顔をして接すればいいのかわからない。
それでも。
俺は、もう一度やり直したい。
自分のためではなく、誰かを傷つけるためでもなく。
自分の意思で、誰かを守れる人間になりたい。
そう思った。
「……ありがとう、ソフィア」
ようやく、それだけを口にした。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「どういたしまして」
俺は、温かいココアをもう一口飲んだ。
甘さが、胸の奥に染み込んでいく。
この一杯のココアが、俺の人生を変えたわけではない。
ソフィアの優しさが、俺の罪を消してくれたわけでもない。
それでも、この夜を忘れることはないだろう。
悪魔として生きてきた俺が、初めて自分の罪を見つめた夜。
そして、人間として生き直したいと願った夜。
俺は、心の中で誓った。
もう二度と、自分の欲望のために彼女を傷つけない。
彼女の信じるものを、踏みにじらない。
いつか、自分の罪から目をそらさず、彼女の前に立てるようになる。
その日まで、逃げずに生きていこう。
新しい人生に、乾杯。
俺はマグカップを両手で包み込み、静かに目を閉じた。
明日から、何が変わるのかはわからない。
けれど、もう一度歩き出すことはできる。
今の俺には、それだけで十分だった。




