悪魔になるまで
俺は捨て子だった。
両親の顔も、名前も知らない。物心がついた頃には、俺はすでにヤクザの組に拾われ、そこで暮らしていた。
親方は、俺にこの世の汚い部分を徹底的に教え込んだ。
詐欺、窃盗、脅迫、暴力。
人をだますことも、他人のものを奪うことも、相手の人生を壊すことも、すべて生きていくために必要な技術なのだと教えられた。
俺は、それを疑わなかった。
いや、疑うことすら許されなかった。
最初に仕込まれたのは、電話を使った詐欺だった。
相手の身の上を調べ、家族構成や財産状況を把握する。警戒心の薄い人間を見つければ、言葉巧みに不安をあおり、金を振り込ませる。
相手がどれほど困窮しようと、どれほど泣き叫ぼうと、関係なかった。
電話の向こうで震える声を聞きながら、俺は指示された言葉を繰り返した。
そして、数億円もの金が動いた。
成功しても、俺の懐に入る金は一円もない。
次に覚えたのは窃盗だった。
最初はコンビニのおにぎり。やがて飲み物や商品を盗み、さらにはレジの金にまで手を伸ばした。
店員の視線がそれた一瞬を見極める。防犯カメラの位置を覚え、周囲の人間の動きを読む。
盗むものが変わっても、やることは同じだった。
相手の隙を見つけ、利用する。
人間を人間として見る必要などない。
そう教えられた俺は、やがて他人の尊厳すら踏みにじるようになった。
十二歳の頃には、取り返しのつかない罪にも手を染めていた。
相手の意思を無視し、薬物まで利用して、女性を傷つけた。
詳しいことを語るつもりはない。
あれは、どんな理由をつけようとも許される行為ではなかった。
俺は人間として越えてはならない一線を、いくつも越えていたのだ。
振り返れば、ろくでもない人生だった。
だが、当時の俺は自分の人生を恥じることさえなかった。
なぜなら、俺に罪悪感を抱く余裕など与えられていなかったからだ。
「いいか! お前は捨て子だ。親もいない、帰る家もない。そんなお前を拾ってやったのは、この俺だ!」
親方は、幼い俺に何度もそう言い聞かせた。
「だから、お前は俺の言うことを聞けばいい。逆らうなんて許さねえぞ!」
「……はい、親方」
俺はうなずくしかなかった。
従わなければ殴られる。
失敗すれば殴られる。
成功しても、褒められることはなかった。
俺はただ、親方の命令を実行するための道具だった。
ある日、詐欺の標的にした相手が、警察関係者とつながりのある人物だったことが発覚した。
「なんで、あいつを選んだ! 少し調べりゃわかったはずだろうが!」
「す、すみません、親方!」
「謝れば済むと思ってんのか!」
怒号が響き、俺は床に倒れ込んだ。
それでも、謝るのをやめることはできなかった。
「申し訳ありません! 次は必ず……!」
頭を下げても、許しを請うても、何も変わらない。
俺はただ、怒りが収まるのを待つしかなかった。
警察に捕まったときも同じだった。
親方は迎えに来てくれた。だが、組に戻った途端、俺を責め立てた。
「警察に捕まるな! それくらいのこともわからねえのか!」
「すみません!」
捕まらなければ殴られない。
失敗しなければ怒鳴られない。
その単純な理屈だけが、俺の中に刻み込まれていった。
やがて俺は、失敗しないために何でもするようになった。
組同士の抗争にも駆り出された。
縄張り争い。報復。裏切り者の始末。
大人たちが欲望と憎悪をぶつけ合う世界で、俺は都合のいい駒として使われた。
子供である俺は、相手の警戒をかいくぐる役目を押しつけられることもあった。
俺は命令に従い、銃を手にした。
何人の人生を壊したのか。
何人の人間を傷つけたのか。
もう、正確には覚えていない。
最初の頃は、怒号や悲鳴を聞くだけで頭が真っ白になった。
それでも、何度も同じことを繰り返すうちに、感情は少しずつ摩耗していった。
恐怖も、後悔も、他人への同情も。
感じないほうが楽だった。
何も感じなければ、命令を実行できる。
何も考えなければ、自分が何をしているのか忘れられる。
俺はそうやって、自分の心を閉ざしていった。
何人もの人間を傷つけ、何人もの人生を狂わせた。
それでも、俺は生き残った。
いつしか、自分には怖いものなどないと思い込むようになっていた。
――あの日が来るまでは。
ある夜、仕事を終えて組の屋敷に戻った俺は、妙な違和感を覚えた。
いつもなら、怒鳴り声や笑い声、酒を飲む音が絶えない場所だ。
それなのに、その日は何も聞こえなかった。
「……親方?」
返事はない。
俺は警戒しながら、屋敷の奥へと進んでいった。
誰もいない。
いや、正確には、人の気配がなかった。
あれほど騒がしかった屋敷が、まるで世界から切り離されたかのように静まり返っている。
そして、奥の部屋に足を踏み入れた瞬間、俺は腰を抜かした。
そこに、一人の男が立っていた。
白い服をまとった、見知らぬ男。
その足元には、親方が倒れていた。
「ひっ……!」
声にならない悲鳴が漏れた。
親方が死んでいる。
あの男が?
ありえない。
親方は用心深く、狡猾で、誰よりも自分の身を守ることに長けていた。
そんな男が、どうして……。
白衣の男は、ゆっくりと俺に視線を向けた。
「お前は、誰の味方だ?」
静かな声だった。
怒鳴っているわけでも、脅しているわけでもない。
なのに、俺は身動きひとつ取れなかった。
男から放たれる圧倒的な威圧感に、全身が凍りつく。
「こいつは、私の財産に手を出そうとした。当然の報いだ」
男は、足元の親方を一瞥して言った。
俺はその瞬間、確信した。
こいつは人間じゃない。
親方を殺したというのに、男の服には汚れひとつなかった。
どうやって殺したのかもわからない。
ただ、目の前にいる存在が、自分とはまるで違う次元の生き物なのだということだけは理解できた。
「お前は、何を選ぶ?」
男が一歩、近づいてくる。
俺は後ずさろうとした。
だが、足が動かなかった。
逃げなければ。
何かしなければ。
そう思うのに、体は言うことを聞かない。
初めてだった。
自分が本当に殺されるかもしれないと、心の底から恐怖したのは。
俺は蛇ににらまれた蛙のように、ただ男を見上げていた。
そして、必死に頭を働かせた。
生き残るには、どうすればいい?
勝てない。逃げられない。抵抗など論外だ。
ならば――。
「ど、どうか……あなたの下僕にしてください!」
「ほう。下僕か」
「はい! 俺は十年間、この世界で生きてきました! 何でもします! どんな命令にも従います!」
俺は床に額をこすりつけた。
プライドなど、とうに捨てていた。
生き残るためなら、何だってする。
死にたくない。
俺はまだ、何も知らない。
この世界には、俺の知らないものがある。
それを知る前に、ここで終わるわけにはいかなかった。
「いいだろう」
男の声が降ってきた。
「お前に新たな命を与えてやろう」
「……え?」
「我が血を飲め」
男が差し出したものを、俺は震える手で受け取った。
それは、人ならざる者の血だった。
俺はためらった。
だが、選択肢などなかった。
口に含み、飲み込む。
その瞬間だった。
「っ……!?」
全身に異変が走った。
体の奥から、猛烈な熱が湧き上がってくる。
血管の中を何かが駆け巡り、骨の髄まで焼き尽くされるような感覚に襲われた。
「ああああああああああああっ!」
俺は床を転げ回った。
体が変わっていく。
人間だった頃の自分が、内側から塗り替えられていく。
何が起きているのか、理解できなかった。
ただ、目の前の男の笑い声だけが、遠くから聞こえていた。
「生き残れよ。そうでなければ、悪魔にはなれぬ」
「ああああああっ!」
やがて、激しい変化が収まった。
荒い息をつきながら、俺は自分の手を見つめた。
そこにあったのは、以前と同じ手ではなかった。
体の奥底から、未知の力が湧き上がってくる。
俺は変わってしまったのだ。
人間ではない、別の何かに。
「喜べ。お前は悪魔になった」
男は満足そうに告げた。
「これからは、私の手足となって働け」
俺は、床にひざまずいた。
「はい……お父様」
その日から、俺は彼をお父様と呼ぶようになった。
そして、お父様の命令に従い、悪魔として生きることになったのだ。
*
悪魔になった俺は、人間の欲望につけ込み、他人の心を操り、数え切れないほどの人生を狂わせた。
人間だった頃に覚えた詐欺や欺瞞は、悪魔となった俺にとって格好の武器だった。
相手の弱みを見つけ、望みを刺激し、破滅へと導く。
人間は、自分の欲望を満たすためなら、驚くほど簡単に道を踏み外す。
俺は、それをよく知っていた。
各国を渡り歩き、お父様の計画を実行する。
お父様は政界にまで影響力を広げ、日本という国の仕組みさえ、裏側から変えようとしていた。
俺はその手足となり、悪魔の軍勢を率いた。
世界が少しずつ混乱に沈んでいく。
争いが起き、人々は互いを疑い、目先の利益を求めて大切なものを失っていく。
それを眺めながら、俺は思っていた。
人間など、所詮はこんなものだ。
善意も正義も、追い詰められれば簡単に崩れる。
神が人間を愛しているというのなら、なぜこんな世界を放置している?
俺には理解できなかった。
いや、理解したくもなかった。
「この国は目障りだ。あの教会を焼き払え」
「承知しました、お父様」
命令を受けるたび、俺は教会を襲撃した。
祈りの場を奪い、人々の信仰を揺さぶり、神にすがる者たちの希望を打ち砕く。
背後にはお父様の力がある。
俺たちの存在が表沙汰になることはなく、事件は闇の中へと葬られていった。
悪魔の血を人間に受け継がせる計画にも、俺は関わった。
人間を利用し、悪魔の勢力を広げる。
それが俺の役目だった。
そこに罪悪感などなかった。
人間の苦しみを気にかける理由など、どこにもなかったからだ。
「ハルマゲドンは近い」
ある日、お父様は俺に告げた。
「お前は、もっと多くの悪魔をこの世界に広められるか?」
「もちろんです。何なりとお申し付けください、お父様」
「ならば、やるべきことをやれ。坂井哲夫」
「はい」
俺は頭を下げた。
お父様の望みをかなえること。それが俺の存在意義だった。
自分の意思など必要ない。
誰かの命令に従い、与えられた役割を果たす。
そうすれば、生きていける。
幼い頃から、ずっとそうしてきたのだから。
そんな俺の前に現れたのが、須美だった。
「坂井様! 今日も計画を実行しましょう!」
彼女は人懐っこい笑顔を浮かべ、まるで尻尾を振る子犬のように俺のもとへやって来た。
お父様に仕える悪魔の一人であり、俺の後輩でもある。
俺たちは手を組み、悪魔の勢力を広げるために行動した。
人間の世界を混乱させ、神への信仰を揺るがせる。
そのためなら、どんな手段もいとわなかった。
俺は自分が間違っているなど、考えもしなかった。
悪魔なのだから、悪をなすのは当然だ。
そう信じていた。
――あのシスターに出会うまでは。
清水ソフィア。
神を信じ、他人を思いやり、困っている人間を見捨てられない少女。
俺は彼女を利用し、その信仰を打ち砕くつもりだった。
彼女を絶望させ、神への祈りに意味などないと思い知らせてやる。
そうすれば、お父様の計画は大きく前進するはずだった。
だが、俺は失敗した。
何度も、何度も。
彼女を悪の道へ誘い込もうとするたび、思いもしなかった結果が待っていた。
そして最後には、俺自身が取り返しのつかない一線を越えようとした。
彼女の意思を踏みにじり、力ずくで自分の望みを押し通そうとしたのだ。
それなのに、ソフィアは俺をただの化け物として切り捨てなかった。
彼女の瞳には恐怖があった。
当然だ。俺は彼女を傷つけようとしたのだから。
それでも、その奥には、俺の知らない感情が残っていた。
哀れみ。
そして、慈愛。
どうしてだ?
どうして、そんな目で俺を見る?
俺は彼女の信じるものを踏みにじろうとした悪魔だ。
彼女の善意を利用しようとした卑劣な人間だ。
許されるはずがない。
許されていいはずがない。
なのに、彼女の目を見た瞬間、俺は自分がひどく恥ずかしくなった。
これまで自分がしてきたこと。
傷つけてきた人々。
奪ってきた人生。
それらが一気に胸へ押し寄せてきた。
俺は悪魔だ。
ずっと、そう思って生きてきた。
悪魔だから、悪事を働く。
悪魔だから、人間の苦しみなど気にしない。
悪魔だから、何をしても構わない。
そうやって、自分の罪から目を背けてきた。
だが、本当にそうなのか?
悪魔であることは、何をしても許される理由になるのか?
俺は答えを出せなかった。
ただ、あの場所にいることができなくなった。
俺は逃げ出した。
ソフィアの前から。
自分自身と向き合うことから。
そして、お父様に現状を報告した。
結果は、言うまでもない。
俺は期待を裏切り、失望させた。
これまでお父様の命令に従い、どれほどの悪事を成功させてきたとしても、最後の一歩で失敗した。
俺は、自分の存在意義さえ見失った。
これから、どうすればいい?
悪魔として生きるべきなのか。
それとも、人間として生き直すことができるのか。
そもそも、俺にそんな資格があるのか。
答えは出ない。
俺は電話ボックスの中で、ひとり泣いていた。
もう、悪魔としての自分を誇ることはできなかった。
けれど、人間として生きる方法も知らなかった。
俺はただ、何もわからないまま、声を押し殺して泣き続けた。




