罪と罰
その日の夕方。
俺は、清水教会へ戻ってきた。
教会の扉を開くと、静寂に包まれた礼拝堂が目に入った。
赤い絨毯の先、祭壇のそばに置かれたマリア像。その前で、ソフィアが祈りを捧げていた。
両手を組み、静かに目を閉じている。
ステンドグラスから差し込む夕陽が、彼女の横顔を淡く照らしていた。
その姿には、どこか近寄りがたいほどの気高さがあった。
信仰とは、こういうものなのだろうか。
誰に命じられたわけでもなく、誰に褒められるわけでもなく、ただ自分の信じるものに祈りを捧げる。
俺には理解できない。
理解できないはずだった。
「あっ、哲夫さん。お帰りなさい」
祈りを終えたソフィアが振り返る。
いつもの笑顔だった。
俺は何も答えず、彼女の目を見つめた。
澄んだ碧眼が、まっすぐに俺を捉えている。
その瞳に映る自分の顔が、ひどく曇って見えた。
まるで、これから自分が何をしようとしているのか、すべて見透かされているようだった。
……違う。
俺は、立ち止まるわけにはいかない。
これは、お父様の夢だ。
悪魔たちの悲願だ。
神に奪われた楽園を取り戻し、世界の支配者となる。そのために、俺は選ばれた。
ここで失敗するわけにはいかない。
「哲夫さん……?」
ソフィアが、俺の様子をうかがうように首を傾げた。
いつもと違う何かを感じ取ったのだろう。
その笑顔に、わずかな戸惑いが浮かぶ。
俺は彼女の前まで歩いていった。
そして、逃げ道を塞ぐように立ち、低い声で告げた。
「ソフィア。俺の子を産め」
「……え?」
彼女の表情が凍りついた。
俺はその腕をつかみ、強引に床へ押し倒した。
「きゃっ……!」
小さな悲鳴が、静かな礼拝堂に響く。
ソフィアは何が起きたのかわからないという顔で、俺を見上げていた。
「哲夫さん……? いったい、何を……」
「言ったはずだ。お前の血も、肉も、髪も、すべて俺のものだとな」
俺は彼女を見下ろした。
「お前には、悪魔の子を産んでもらう。神に愛された聖女が、悪魔の子を宿す。これ以上、神を侮辱する方法があると思うか?」
それは、お父様の計画だった。
ソフィアの信仰を利用し、彼女を絶望させ、神への信頼を根底から覆す。
そして、悪魔の血を引く子供をこの世に誕生させる。
俺は、そのためにここへ来た。
ソフィアが俺を信じていることも、俺に笑いかけてくれることも、すべて利用するつもりだった。
だから、ためらうな。
もっと恐怖させろ。
信頼していた人間が、自分を裏切ったのだ。
悲しいだろう。
悔しいだろう。
俺を憎め。
俺に絶望しろ。
そして、神に救いを求めても何も変わらないと知るがいい。
それなのに。
「哲夫さん……」
ソフィアは、震える声で俺の名を呼んだ。
その瞳には、確かに恐怖があった。
だが、それだけではなかった。
俺を憎む目でも、呪う目でもない。
どうしてこんなことをするのかと、悲しんでいる目だった。
「どうして……?」
「黙れ」
「私、何か……あなたを傷つけることをしてしまったのでしょうか?」
「黙れと言っている!」
俺は声を荒らげた。
違う。
そうじゃない。
お前は何もしていない。
だからこそ、俺はお前を壊さなければならないのだ。
お前が何も悪くないというのなら、悪魔である俺が、お前を悪へと引きずり込めばいい。
そうすれば、神の正義など、ただの幻想にすぎないと証明できる。
……できるはずなのに。
ソフィアは、俺を見つめたまま、ゆっくりと両手を伸ばした。
そして、俺の腕にそっと触れた。
「哲夫さん。私は……あなたのことが、大切です」
「……何?」
「だから、どうか……そんなに苦しそうな顔をしないでください」
俺は息をのんだ。
苦しそうな顔?
俺が?
何を言っている。
苦しんでいるのは、お前のほうだろう。
俺はお前を裏切った。
お前の信頼を踏みにじり、取り返しのつかないことをしようとしている。
それなのに、どうしてお前は、俺の心配などしている?
「やめろ……」
「哲夫さん……」
「その目で、俺を見るな!」
俺は彼女の腕を放した。
ソフィアは、床に座り込んだまま俺を見上げていた。
その目には涙が浮かんでいた。
恐怖がないわけではない。
悲しくないわけでもない。
それでも彼女は、俺をただの怪物として切り捨てようとはしなかった。
俺には、それが耐えられなかった。
「くそ……っ!」
俺は踵を返した。
「哲夫さん!」
背後からソフィアの声が聞こえる。
だが、振り返ることはできなかった。
礼拝堂を飛び出し、教会の扉を乱暴に開け放つ。
外は、いつの間にか雷雨になっていた。
空が光り、遅れて雷鳴が轟く。
雨粒が顔に打ちつける。
それでも、俺は走った。
どこへ向かうのかもわからない。
ただ、あの場所から逃げたかった。
あの瞳から。
あの声から。
そして、あのとき、自分の中に生まれた感情から。
「くそっ……!」
何度も悪態をつきながら、雨の中を走り続けた。
俺は悪魔だ。
人間を欺き、欲望を煽り、神に反逆するために生まれてきた。
他人の苦しみを利用することに、ためらいなどあってはならない。
そうやって生きてきた。
そう信じてきた。
なのに、どうしてだ。
どうして、あの目を見ただけで、何もできなくなった?
どうして、俺は自分のしたことを恥じている?
悪魔が罪を恥じるなど、笑い話にもならない。
それなのに、胸の奥には、消えない痛みが残っていた。
やがて、俺は駅前にたどり着いた。
大きな電光掲示板には、世界各地のニュースが流れている。
中東で激化する戦争。
暴落する日本の株価。
ラブホテルで発見された男性の遺体。
人間たちの争いと欲望が、次々と報じられていく。
その多くに、悪魔たちの思惑が絡んでいる。
俺たちは人間の弱さにつけ込み、争いを煽り、世界を破滅へと導こうとしてきた。
それが、俺たちの正義だった。
……だったはずだ。
雷鳴が響く。
駅前を行き交う人々は、傘を差し、足早に通り過ぎていく。
誰も俺を見ない。
誰も俺を気に留めない。
その中で、俺だけが立ち尽くしていた。
水たまりに、自分の顔が映る。
濡れた髪。
歪んだ表情。
そこにいるのは、見慣れた自分のはずだった。
なのに、ひどく醜い化け物に見えた。
「……俺は、何をしているんだ」
声に出してみても、答えは返ってこない。
俺は、悪魔になった。
人間を見下し、神を憎み、自分こそが正しいと信じてきた。
だが、いざ自分の信念を貫こうとしたとき、俺は何もできなかった。
悪人にもなりきれない。
善人になれるわけでもない。
俺は、いったい何者なのだろう。
気づけば、俺はあの公園に来ていた。
ソフィアと一緒に、最初の計画を実行しようとした公園だ。
あのときは、彼女に小さな悪事をさせようとした。
その結果、俺たちは善行を積み重ねることになった。
今となっては、ずいぶん遠い出来事のように思える。
公園の片隅には、古びた電話ボックスが立っていた。
俺は雨を避けるように、その中へ入った。
濡れた服が肌に張りつき、身体が冷えていく。
ポケットからスマートフォンを取り出したが、画面は真っ暗だった。
充電が切れている。
俺はしばらく画面を見つめ、それから、公衆電話に目を向けた。
小銭を探る。
十円玉が一枚だけ見つかった。
俺はそれを投入口に入れ、お父様の番号を押した。
呼び出し音が鳴る。
やがて、聞き慣れた声が返ってきた。
『なんだ、哲夫』
「……お父様」
『どうした?』
俺は唇をかみしめた。
言いたくなかった。
だが、報告しなければならない。
「失敗しました」
『何にだ?』
「……俺には、できませんでした。ソフィアを、力ずくで従わせることが」
電話の向こうで、短い沈黙が流れた。
『お前は、自分の役目を忘れたのか?』
「忘れていません」
『ならば、なぜ失敗した?』
「それは……」
言葉が出てこなかった。
ソフィアの瞳が脳裏によみがえる。
恐怖に震えながら、それでも俺を見捨てなかった、あの目。
「俺には、わからないんです。あの目を見たら……何もできなくなった」
『……そうか』
お父様の声が、わずかに低くなった。
『失望したぞ、哲夫』
その一言が、胸に突き刺さった。
『お前は悪魔のメサイアなどではない。自分の使命すら果たせないのなら、何のために私の血を引いている?』
「……っ」
反論できなかった。
俺は何も成し遂げていない。
ソフィアを堕落させることもできず、父の期待に応えることもできなかった。
俺はただ、失敗を繰り返しただけだ。
『もう一度、自分が何者なのか考えることだ』
その言葉を最後に、通話が途切れた。
十円玉の通話時間が尽きたのだ。
「……お父様?」
返事はない。
俺は受話器を握ったまま、しばらく動けなかった。
もう一度、連絡しようと思った。
だが、ポケットを探っても、小銭は残っていない。
俺には、何もなかった。
父の期待に応える力も。
自分の信念を貫く勇気も。
何より、自分自身を正しいと信じる根拠すら、見つけられなかった。
「くそ……っ」
俺は受話器を戻した。
どうして、こうなった?
今までの俺は、間違っていなかったはずだ。
世界は不公平だ。
人間は欲望に溺れる。
神はすべての者に平等な力を与えたわけではない。
だからこそ、俺たちは神に反逆する。
そのはずだった。
なのに、俺は今、ソフィアのことを考えている。
あんなにも純粋な少女を、どうして俺は傷つけようとしたのだろう。
彼女は、俺に何をしたわけでもない。
俺を騙したわけでも、利用したわけでもない。
ただ、俺を信じてくれた。
それだけだった。
なのに、俺はその信頼を利用しようとした。
「……俺は、何を間違えたんだろうな」
声が震えた。
答えはわからない。
いや、本当はわかっているのかもしれない。
自分の行いが間違っていたと認めてしまえば、今まで信じてきたものが、すべて崩れてしまう。
悪魔としての誇りも。
神への憎しみも。
お父様の掲げる理想も。
それらを否定した先に、何が残るというのだろう。
俺は電話ボックスの壁に額を預けた。
雨音が響く。
誰もいない。
誰も俺を責めない。
それなのに、俺は自分を責めることをやめられなかった。
ソフィアに謝りたい。
だが、どんな顔をして彼女に会えばいい?
許してほしいなどと、口にする資格が俺にあるのだろうか。
彼女を傷つけようとしたのは、ほかでもない俺自身なのに。
「……俺は、自分を赦せない」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
涙が頬を伝う。
どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。
悔しいからか。
情けないからか。
それとも、初めて自分の醜さを真正面から見せつけられたからなのか。
わからない。
ただ、涙が止まらなかった。
俺は、綺麗なものを汚そうとした。
自分の目的のために、誰かの善意を利用しようとした。
それなのに、最後の最後で、俺は自分の行いに耐えられなくなった。
なんて中途半端な悪魔なのだろう。
悪人にもなれず、善人にもなれず。
強い存在になったつもりで、実際には、自分が何を信じればいいのかすらわからない。
俺は狼になったつもりだった。
弱い人間を見下し、世界を支配する側に立ったつもりだった。
けれど、今の俺は、帰る場所を見失った子羊のようだった。
「神様……」
気づけば、俺は空を見上げていた。
灰色の雲が空を覆い、雨が降り続いている。
神など信じていない。
神を憎み、神を倒すことを望んできた。
それなのに、俺の口から出てきたのは、神への呼びかけだった。
「……どうか、この醜い俺を赦してください」
初めてだった。
俺が、自分から神に祈ったのは。
祈れば何かが変わるなど、思っていなかった。
神が俺を赦してくれるとも思えなかった。
それでも、ほかに何をすればいいのか、わからなかった。
俺は電話ボックスの中で、ひとり泣き続けた。
声がかすれるほど泣いても、胸の痛みは消えなかった。
やがて、全身から力が抜けていく。
疲れ果てた俺は、壁にもたれ、その場に座り込んだ。
意識が遠のいていく。
もう、何も考えたくなかった。
ソフィアを貶める計画も。
悪魔の子を宿させるという野望も。
教会を奪い、神に復讐するという目的も。
すべてが、遠いものに思えた。
何もかもうまくいかなかった。
だが、本当に失敗したのは、計画だけなのだろうか。
俺は悪魔として生きてきた。
それ以外の生き方など、考えたこともなかった。
もし、悪魔であることを除いたら。
もし、お父様の期待を除いたら。
もし、神への憎しみを除いたら。
俺には、何が残るのだろう。
答えは出なかった。
雨音だけが、静かに響いていた。
俺はそのまま、深い疲労の中へと沈んでいった。
意識を失う直前、最後に浮かんだのは、ソフィアの顔だった。
あの、まぶしい笑顔。
俺のことを信じてくれた、あの瞳。
そして、俺が彼女に向けた、取り返しのつかない行為。
……もう、彼女に会う資格などない。
そう思った。
だが、それでも。
もし、もう一度だけ彼女に会えるのなら。
今度こそ、あの目をまっすぐに見られる自分でありたい。
そんな願いが、ほんの一瞬だけ、胸の奥に浮かんだ。
それが悪魔としての敗北なのか。
それとも、人間としての始まりなのか。
そのときの俺には、まだわからなかった。




