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8.元恋人?

「アリシア、今日は昼食をご一緒しませんか?城下町に美味しい店があると聞いたんです」


レイモンドにそう言われたのは教団の敷地内にある屋敷に住み始めてから数日たってからのことだ。長く職場を離れていたために業務量はとてつもないことになっているらしく、仕事に向かっても帰ってくるのは夜が更けてから。少し余裕が出て来たのだろうか、レイモンドの表情は疲れているように見えるけれど少しだけ晴れやかだった。


「城下町・・・行ってみたい!」


予想していなかった嬉しい提案に食いつくように賛同する。レイモンドがいない数日間はずっとこもり切りだった。家にある本を読んで過ごしていたけれど、どこにも出かけられないという状況に少し退屈していた。


「では、昼の鐘が鳴ったら迎えにきます」


レイモンドは私の答えに嬉しそうに微笑むと、手を伸ばして私の髪を一束掬い取るとそっと口付けた。綺麗なエメラルドの瞳が反応を伺うみたいに私の顔を見つめる。


「なっ何してるの!」


とっさに後ずさって距離を取る。今までにないくらいに顔が熱くて心臓の音が耳まで聞こえるくらいに大きく鳴っている。鏡を見ていなくても自分の顔が髪と同じくらい真っ赤になっているのがわかる。私の反応が可笑しかったからか、レイモンドは楽しそうに笑う。


「ははっすみません。あなたの反応が可愛くてつい」


「つい、じゃないわ・・」


「許してください。本当は髪だけじゃなく、あなたの肌にも触れたい気持ちを我慢しているんです」


「なっ・・・」


(なんてことを言うの!)


思わず絶句して言葉が出なかった。この婚約者は私の反応を試している。初めは遠慮していたみたいだけれど、私が許せる範囲がどこなのか、実行して反応を見て試しているような気がする。掌の上で転がされているような感覚に悔しい気持ちと恥ずかしい気持ちで悶えてしまいそうだ。


「では行ってきます」


警戒心をあらわにした私がこれ以上近づいてこないことを察したらしい。真っ白な礼服を身にまとったレイモンドは手を振って行ってしまう。


「・・・・・行ってらっしゃい」


朝からしてやられたことがに悔しい気持ちになりながら、仕事へと向かう背中に聞こえないくらいの小さな声で呟いた。意趣返しのつもりだったけれど、私の小さな呟きが聞こえたらしいレイモンドは振り返って眩しいくらいの笑顔を見せてから今度こそ扉を閉めて仕事へと向かった。


「はぁ・・・心臓に悪い」


1人になった部屋で赤く火照った頬を覚ましながら呟く。記憶を失う前の私はあれに耐えていたんだろうか。だとしたら相当な精神力の持ち主だ。


「・・・・さて、何から始めようかな・・」


部屋の中を見渡しながら呟いた。といってもこの屋敷は定期的に使用人の清掃が入り、前に住んでいた家のようにアリシアができることはそれほどない。以前よりも余ってしまう時間を有意義に使うためにも頭の中で今日の計画を立てる。


「本でも読もうかな。たしか途中だったし」


応接室からレイモンドの書斎に行き、本を物色する。壁一面に並んでいる本棚には難しい専門書も多いけれど、自分の記憶に役立ちそうな歴史の本もある。


「たしかこの辺に・・・あれ、これは・・」


目的の本を探して物色しているとくたびれた背表紙の本が目に入った。好奇心のまま手に取ってみるそれは神話を元にした絵本のようだった。子供向けの本がここにあることは少し意外だった。


(レイモンドが読んでたのかな・・・?)


少し年期の入ったその背表紙をめくってパラパラとめくる。絵本の内容はレイモンドから聞いていた話とほとんど同じだった。神カトライアが人間と精霊を作り出し、神は人間のために神託を下ろし人間は感謝と敬愛をもって神を崇拝した。子供が歴史を知るための教材なのだろう。可愛らしい絵とともにわかりやすくまとめられている。微笑ましく見ながら最後のページをめくると、その部分だけ明らかに子供の字で加筆されていた。そこにはこう書かれていた。


『僕は皆のために生きて死ねる。選ばれた特別な人間だ』


付け加えて書かれていたのはそれだけだった。


「・・・どういう意味だろう」


子供の字だ。もしかしたら大した意味はないのかもしれないけれど、少しだけ気になった。普通に考えれば持ち主であるレイモンドが書いたものなのだろう。けれど考えたところで答えは出ない。


(・・・レイモンドが帰ってきたら、聞いてみようかな)


考えるよりも持ち主に聞いてしまった方が早い。そう結論付けて絵本を元のあった位置に戻すと、目的の本に手を伸ばした。



読みふけってしまっていたらしい。

気が付くと時計の針はまもなくになるという昼の時間を指していた。もうすぐ昼を告げる鐘も鳴るだろう。


「そろそろレイモンドも帰ってくるかな?」


(たしか庭園までなら行ってもいいって言っていたし、迎えに行こう)


城下町に出かけられる楽しみに居ても立っても居られず、手に取っていた本を元の位置に戻すと庭園へと向かった。



「わぁ、綺麗・・」


渡り廊下に面した庭を見て周る。丁寧に世話をされているのだろう。どの花も太陽の下でみずみずしく輝いているみたいだ。花を眺めながら散歩しているだけで癒される。


「そこの君」


声をかけられたのはそのときだった。レイモンドの指示でこの辺りに足を踏み入れる人は限られている。使用人たちも私がレイモンドの婚約者だと知っているからか、不用意に声をかけてくるようなことはしない。だからこそ戸惑ったまま、振り向くことができなかった。


「枢機卿の婚約者というのあなたですね。名を名乗りなさい」


男性の声に息をのんだ。丁寧な口調だけれど明らかに歓迎されていない、警戒心が滲んだ声だった。姿を隠すためのローブはまだ羽織ってすらいない。


「・・・聞いているのですか?」


声をかけているにもかかわらず、振り返ることなく黙り込んだ私に苛立ったのだろう。男性は私の肩を掴むと強引に振り向かせた。恐怖でぎゅっと目をつむる。けれどそれ以上の衝撃が襲ってくることは無かった。


「・・・シア?・・アリシア?」


「・・え?」


愛称で呼ばれ、驚いて目を開く。陽の光に照らされた銀髪、騎士の鎧に身を包んでいるその姿は見覚えがあった。聖女の夫と呼ばれていた騎士ではなかっただろうか。彼の水色の瞳は信じられないものを見たかのように見開かれていた。


(知り合いなの・・?)


「本当に・・・?アリシア、君なんですか?」


男性はまるで存在を確かめるように困惑して声が出せない私の頬に慎重に触れた。驚いて反射的に後ずさって距離を取ろうとした。


「見つけた・・・やっと見つけた。ずっと・・ずっとあなたを探していたんです」


逃げることを許さないというようにきつく抱きしめられて、とっさに抵抗することができずにされるがままになる。けれど、抵抗できなかったのはそれだけではない。ふわりと香る石鹸とほのかな汗の香り、抱きしめる腕の力強さに覚えがあったからだ。


(・・・私、この人のことを知ってる・・?)


そう気が付いたとき細切れの映像が流れこんできた。


『アリシア。君だけを愛しています』


『私を信じてください。これは必要なことなんです』


『信じてくれだと?どうしてそんなことが言えるんだ!』


『私だけじゃなく、あの人のことも裏切っているくせに!』


「――っあ」


切なさや悲しみ、怒り。襲い掛かる様々な感情に胸だけじゃなく息が苦しくなり身体の奥で何かが悲鳴を上げるような音がした。


「アリシアっ!!」


濁流のような感情に飲み込まれそうになったとき、ぐっと身体を引かれて先ほどとは違うぬくもりに抱きしめられた。左手で抱え込まれながら右手で視界を塞がれた。ふわりと香るの彼の匂いに途切れかけた意識が引き戻される。


「もう大丈夫。俺が来ましたから」


「あ・・・レイ、モンド・・」


「そうです。落ち着いて、深呼吸をしてください」


穏やかな声に諭され喉がひくつきながらもゆっくりと深く息を吸い込む。苦しさからか、自然と涙がこぼれた。


「そう、上手です」


「わ、私・・」


「何も心配いりません。辛かったら俺に身体を預けてください」


安心させるような穏やかな声が耳元でする。深呼吸をすると強張った身体から徐々に力が抜けた。それと同時に激しい頭痛がして立っていられず、もたれかかった身体をレイモンドにぎゅっと抱きしめられた。


「一体ここへ何しに来た。シュヴェリエ」


同じ人物とは思えない怒りを含んだ低い声。視界を塞がれていても彼がどんな視線を向けているのかがわかった。


「・・・・クレール様」


「よく顔を見せることができたな。恥知らずの裏切り者のくせに」


「・・・」


裏切り者、その言葉がやけに耳に残る。


「どうして・・・彼女が、ここに・・。彼女はたしかにあの日――」


「黙れ」


戸惑ったような男性の言葉を威圧するような声が制止した。


「お前がわざわざこんなところまで足を運んだ理由はわかっている。大方聖女に探りを入れるように言いつけられたんだろ」


「・・・」


「今回は見逃してやる。だが二度目はない。彼女のことは忘れてここから去れ」


「・・・それは、できません。彼女は・・・アリシアは、私の大事な人なんです」


「ふっはははっ・・・つまらない冗談はやめてくれ。大事な人、だと?彼女を捨て聖女と結婚したお前がそれを言うのか?」


「っ!・・・私は・・・」


レイモンドの問いかけに男性は戸惑ったまま言葉を失った。どうしてか、レイモンドの言葉でまた頭痛がひどくなる。立っていることもままならなくなり、レイモンドの服を引っ張ぱると私の様子に気づいたレイモンドは慎重に私の身体を横抱きにした。


「アリシアのことを聖女に伝えようものなら、お前の首を跳ね飛ばす。覚悟しておけ。・・・それからお前の大事な聖女に伝えておけ。俺の婚約者に手出しをすれば骨の髄まで後悔させてやると」


レイモンドは吐き捨てるように言うとと振り返らずに歩き出した。


**********


「アリシア。具合はどうですか?」


控えめなノックと共にレイモンドが顔を出した。その表情は心配と不安を混ぜたようだ。かなり心配させてしまったらしい。意識が歪むような頭痛と息苦しさも一晩寝て起きたら何事もなかったかのようにすっかり良くなった。


「もう大丈夫。なんともない」


安心させるように微笑むとレイモンドはほっとした顔をして私が眠るベットの傍に歩み寄った。


「顔色も良さそうですね・・・・あなたが無事で本当に良かった」


ベッドのそばにある椅子に腰かけると体調をたしかめるように頬に触れた。心の底から心配してくれているレイモンドには申し訳なく思いながら気になっていたことを口にする。


「・・・・ねぇ、あの人のこと・・・聞いてもいい?」


「ダメです。あなたも身をもってわかったでしょう?印象に残る記憶が甦ろうとするとあなたに大きな負担がかかります。それに、あいつのことは尚更思い出さなくていい」


躊躇いがちに尋ねるときっぱりと断られた。断られるとは思っていたけれど想像以上だ。尋ねた人のことも問題だったかもしれない。けれどこれで諦められるわけじゃない。


「けど・・・気になるの」


「・・・俺たちの会話を聞いていたでしょう?あいつの記憶は決していい思い出じゃない。忘れた方がいい記憶です」


忌々しそうな険しい表情だ。少し怒りの滲んだその口調は私のために怒ってくれているようにも思える。


「それに少しでも知っていた方が、思い出したときの負担も少ないかもしれないでしょう?」


「・・・・・・わかりました。詳細は俺も知らないので、簡単に説明だけ」


「ありがとう」


説得することを諦めたように小さくため息をついたレイモンドは、渋々といった様子で口を開いた。


「・・・と言ってもあいつと話していたことが全てです。もう気づいていると思いますが、あいつはあなたの元恋人です」


「・・・恋人・・」


「元、ですよ。あいつは・・・あろうことかあなたを裏切って聖女を選んだんです」


「裏切った?」


「はい。あなたと恋人同士だったとき、あいつはよく聖女に呼び出されていたんです。けれどそれも仕事のうちだからと、あなたはあいつのことを信じていた。・・・・結果あいつはあなたの信頼を裏切った」


シーツをぎゅっと握りしめる。過去にあったというその出来事は私をひどく苦しめたのだろう。かすかな記憶が戻ったとき、濁流のような感情がそれを物語っていた。


「・・・恋しいですか?」


「え・・?」


レイモンドの声に顔を上げると切なそうな表情を浮かべている彼と目が合った。


「あなたはあいつのことを思っていましたから・・・」


「・・・・・恋しいとは思わない」


正直な気持ちで首を横に振った。この言葉は本物だ。たとえ全ての記憶が戻ったとしても、聖女と結婚したという彼を恋しく思うことはないだろう。私はレイモンドと婚約し、全ては過去の話だ。


「俺はあなたを裏切ったりしません」


レイモンドは立ち上がると私の手を取って跪いた。先ほどまでの切なそうな表情はなく、まっすぐな思いを持った目が私を見つめている。


「俺はこの命が止まるときまであなただけを愛すると誓います」


まるで騎士のような誠実な誓いの言葉。けれどその言葉を心から喜べなかった。もしかしたら、元恋人であった彼のように裏切られてしまうかもしれないという少しの疑いの気持ちがあった。


「・・・・本当に?」


確かめるようなことを言っても仕方のないことだとわかっていたけれど、それを口に出さずにいられなかった。レイモンドはそんな私の不安を吹き飛ばすように綺麗に微笑んだ。


「もちろんです。あなたは俺の全てだから。たとえあなたが俺を愛さないとしても、俺はずっとあなただけを思い続けます」


真摯な言葉がじんわりと胸に温もりを与えてくれる。たとえこの先、その言葉が裏切られてしまったとしても今だけは与えられる愛情を信じて浸っていたい。自分を愛する婚約者の笑顔を見てそう思った。

読んでいただきありがとうございます。次回は月曜日更新予定です。

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