2.私の家
「・・・・婚約者?私とあなたが?」
「はい」
その言葉が衝撃的で繰り返し尋ねてしまう。レイモンドと名乗った男性は微笑んで頷いた。
(本当に・・・?)
自問自答したところでわかるはずもない。
自分の名前が正しいのかという答えすらわからないのだから。
「・・・・あなたが私の婚約者だと言うなら、私の弟のことも知っていますよね。弟はどこにいるんでしょうか?」
夢で見た部屋の隅で膝を抱えて泣いていた小さな背中。
自分の名前もわからないのにも関わらず、なぜか弟のことだけは覚えていた。
それを思うと言いようのない焦りと不安が浮かんでくるのになぜかその顔が上手く思い出せない。
「安心してください。あなたと同じ事故に巻き込まれてしまいましたが、彼も無事です。
きちんと治療を受け、今は王都で暮らしています」
「王都に・・・そうですか。よかった・・」
レイモンドの言葉にほっと息をつく。
安心したからだろうか目覚めたばかりなのに再び瞼が重くなる。
「まだ目覚めたばかりです。無理をせず、今はゆっくり休んでください」
レイモンドはまるで幼い子供を寝かしつけるように私の頭を撫でる。婚約者だというけれど見知らぬ男性と寝室に2人きりという状況に警戒心がないわけじゃなかった。けれど少なくとも、レイモンドの言動には敵意はない。どちらにせよ今まで眠っていた場所だ。襲い来る睡魔に抗うことを諦めて再び目を閉じた。
*
コンコンっと控えめなノックに沈んでいた意識が浮上する。
「おはようございます。アリシア。
起きていますか?」
扉の向こうから聞こえる声に目を開けた。
同じく眠っていたらしい赤い小鳥がピィっと鳴いた。
「・・・おはよう」
寝起きの掠れた声で答えるとそれを察したのだろう、くすりと小さく笑う声が聞こえた。
「朝食が出来ました。今日はあなたの好きなスープを作りました。支度をして降りてきてくださいね」
言い終わると続けて階段を下りる音がする。
眠気に後ろ髪を引かれながらも、好物の朝食のためにと気合を入れてアリシアは身体を起こした。
(今日もいい天気ね)
カーテンを開けて窓の外を見ると気持ちがいいほどの晴れ間が広がっている。
婚約者だというレイモンドと暮らすこの家は見晴らしのいい丘にぽつんと立っている。
天気のいい日には2階の窓から海が見える。窓を開けると気持ちのいい風が通り抜けて潮風が鼻をくすぐる。
「・・・・あれから、ひと月も経ったのね」
景色を見ながら目覚めてすぐの記憶を思い返す。
「私のこと・・教えてほしいんです」
「あなたのこと、ですか?」
私の唐突な申し出にレイモンドは緑色の目を丸くした。
「はい。・・・目が覚めてからも何も思い出せていないので」
それまでにレイモンドから教えてもらったのは自分とレイモンドの名前、それと私たちの関係性だけだ。数日で少しずつ戻ってくることを期待していたけれど残念ながらその兆候さえない。目が覚めたときも教えてくれると言っていたからこそ、快く教えてくれるだろうと見越しての申し出だったのだけれどレイモンドは予想に反して少し悲しそうに微笑んで首を横に振った。
「アリシアが知りたいと思ってくれたことは嬉しいです。けれど今は話せません」
「・・・どうしてですか?」
「負担が大きいからです。あなたにとって印象的な思い出はあなたの身体に強い負荷をかける。だから、折りを見て話します。それまで待っていてください」
「・・・あなたはそれでいいんですか?」
私はレイモンドのことを少しも思い出すことができない。
自分の大切な人がが自分を覚えていない。それは言葉で言い表せないほどの悲しみなのではないか。
けれど予想に反してレイモンドは満足そうに微笑んだ。
「もちろん構いません。俺はあなたがこうして傍にいてくれるだけで十分です」
今のままでも幸せだとでもいうような表情。
とても上辺だけの言葉に思えない様子にそれ以上何も言えなくなってしまった。
「それから、話すときもため口でにしてください」
「あなたも私と同じ話し方なのに、ですか?」
「はい。俺と話すときあなたはいつもそうでしたから。その方が嬉しいです。もちろん、無理にとは言いませんが・・・」
「・・・わかったわ」
*
身支度を整えてから二階の自室を出るとふわりと良い香りがした。
焼いたパンの香ばしい小麦の香りとトマトスープの酸味のある香りに誘われるままに階段を下りる。
階段を下りて来た私の姿に気づいたレイモンドが嬉しそうに微笑んだ。
「おはようございます。さぁ、こちらへどうぞ」
丁寧な声と仕草に誘われるままに食事の席に着いた。
レイモンドが作ったスープから一口飲む。
ハーブの香りと程よい酸味、控えめに言ってもとてもおいしい。
朝食に舌鼓をうっていると、向かいの席に同じく朝食を食べ始めたレイモンドが話を切り出した。
「アリシア、急で申し訳ないのですが今日客が来る予定なんです」
「お客様?」
「はい。アリシアも関わりがありました。俺にとっては友人のような人です」
「友人・・・」
思わず食事の手が止まった。
記憶喪失で目覚めてからレイモンド以外で自分を知る人物に出会うのは初めてだ。
「昼までには着くと思います。初めて会うと少し驚くかもしれませんが・・悪い奴じゃありません」
「わかったわ」
レイモンドの言葉に笑顔で頷き返した。期待からくる高揚感で浮足立つのが自分でもわかる。
(友人・・・どんな人だろう。その人に会えば、私の記憶も少しは戻るかも)
記憶が戻る可能性とまだ見ぬ友人に想いを馳せていつもよりも早く食事を済ませた。
*
朝食を終えて庭に出るとレアが嬉しそうにアリシアの肩から飛び上がる。
「レア、あまり遠くに行かないで」
アリシアが声をかけるとわかっているのかいないのか、ピィっとレアが一鳴きした。
普通の鳥に見えるレアは精霊と呼ばれる存在だとレイモンドから教わった。
アリシアが目覚めたばかりの頃はほとんどの時間眠っていたレアも今では起きている時間が増えて空を飛ぶこともできるようになった。
気持ちよさそうに空を飛んでいるレアの姿を見上げていると少し離れた場所から馬のいななきが聞こえてきた。ここは近くの村からも離れているため人が通ることは滅多にない。
アリシアが音のした方角に目をやると遠くに馬に乗った人が駆けてくるのが見えた。
(もしかして、あの人が・・・)
少し離れた場所からでもその体格の良さがうかがえる。
短い茶髪に精悍な顔立ち。
少し堅実な印象を受けるその人は私の姿を見つけると驚いたように目を見開いた。
「・・・」
声は聞こえない。けれど、その口が私の名前を呟いたのがわかった。
「アリシアッ!」
今度ははっきりとした声で呼ばれた。
近くで止まるだろうと思っていた男性は馬を走らせてくるとその勢いのまま地面に降り立つと私の身体を苦しいくらいに抱きしめた。
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