10.不安と疑惑の色
―——アリシア。あなたに兄弟はいないでしょう?
別れ際、当たり前のように言われた言葉が何度も蘇る。
(そんなはずない。・・私には確かに弟の記憶があるんだから。きっとあの人が何か勘違いをしていただけ・・・)
その言葉が浮かぶたびに否定する。アルフレドの言葉は何かの間違いだと頭ではわかってるけれど一度聞いてしまったその言葉はなかなか頭から離れてくれない。
「アリシア、どうしました?随分とぼんやりしているみたいですけど」
「え・・?」
声をかけられてハッと我に返った。食事の手が止まってしまっていたらしい。皿の上に綺麗に盛り付けられている鶏肉のソテーは出されたときのままだった。レイモンドは心配そうな表情をしている。
朝仕事に向かった時の言葉通り、日が暮れる頃に帰ってきたレイモンドと共に夕食を囲んでいるところだった。
「もしかして体調が悪いんですか?」
「大丈夫!もうなんともないわ」
慌てて首を振って否定した。ここできっぱりと否定しておかなければまた病人扱いされてしまう。問題ないと言う私の様子に何かを感じたのだろうか、レイモンドは少し訝しんだような表情をした。
「・・・それとも、俺のいない間に何かありましたか?」
少し声音が低くなったのがわかった。温度が下がったようなその場の雰囲気に少しだけ手に汗が滲んだ。
「・・何もないわ。少し、あの丘の家が恋しくなっただけ」
探るような視線から逃れるように目の前に出された食事に視線を落とした。目の前のテーブルに所狭しと並んでいるのは枢機卿とその婚約者のために作られた贅を尽くした料理だ。美味しいはずのそれらは全て味気ない気がしている。あの家でレイモンドが作ってくれていた食事はここまで贅沢なものではなかったけれどほっとするような美味しさがあった。それを恋しいと思っていたのは確かだ。とっさに口をついて出た言葉だったけれど、私の様子がおかしいことに納得したらしいレイモンドが申し訳なさそうな顔をした。
「窮屈な思いをさせてしまってすみません。・・・全てが片付いたら、またあの家で暮らしましょう」
「全て・・・」
「はい。俺のするべきことを片付けて、あなたを記憶を取り戻すことです」
真摯なその表情と言葉は私を想ってくれていることがわかる。けれど、どうしてだろう。言いようのない胸のざわつきがある。
「・・・ねぇ、レイモンド。聞きたいことがあるの」
「何ですか?」
「弟はどこに暮らしているのかな・・王都にいるんだよね?」
「ええ。生活のことを心配しているのなら問題ありません。彼は俺の庇護下にありますから」
そっとレイモンドの様子を観察した。弟のことを尋ねてもその返答に一瞬のためらいや表情、視線の変化はなかった。その様子に少しだけ安堵した。嘘をつくときに何の変化もなく答えられるなんて、きっと余程嘘をつきなれている人でなければできないだろう。
「遠くから見るだけでいいの。・・・あの子の様子を見に行けないかな?」
許されるとは思っていなかったけれど、ダメもとでお願いしてみる。レイモンドの反応は予想通りだった。
「アリシア・・・それは叶えられない願いです。彼の記憶を持っているということは、それだけあなたにとって思い入れが深いということです。今度はどんな影響が出るかわからない」
「でもっ・・あなたにもカイルさんにも会ったときも私の記憶は戻らなかったでしょう?」
食い下がっても彼が首を縦に振ることはなかった。
「命に関わる可能性もあるんです。大事なあなたを無事かもしれない、なんて可能性にかけるような真似はできません」
「・・・・・無理を言ってごめんなさい。少し心配になってしまって・・・」
膝に置いた手をぎゅっと握りしめた。自分でもよくわかっている。レイモンドの言葉は正しい、全ては私を想ってのことだから。
「アリシア」
いつの間にか隣にやって来たレイモンドはそっと私の身体を抱きしめた。ゆっくりと背を撫でられるその様は、まるでわがままを言っている子供を慰めているみたいだ。とたんに自分の感情的な行動が情けなく思えてくる。
「あなたの弟の記憶だけじゃない、あなたの記憶は俺が必ず取り戻します。・・・だから、もう少しだけ俺を信じて待っていてくれませんか?」
まるで懇願するようなその言葉に胸が痛くなった。
「・・・・信じる。信じているわ」
これほど私を想ってくれている彼の言葉を信じないわけがない。レイモンドは目が覚めてからずっとその行動で私に信頼を示してくれていたのだから。それに弟以外の記憶を持たなかった私に私のことを教えてくれたのはレイモンドだ。もしそれを疑ってしまったら――
彼の婚約者であるアリシア・ヴァレットという存在すらあやふやなものになってしまう。
(・・・そうよ。きっとあの人の勘違い)
渦巻く不安から目を背けるようにゆっくりと目を閉じてレイモンドの身体を抱きしめかえす。
忘れようと心に決めたアルフレドの言葉はまるで水に溶かした絵具をポタリと紙の上に垂らしたように薄く、けれど確かに不安と疑惑の色を心に残した。
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