滔々
「着いたぞ」
「ん...... 」
車内が静かになった後、私は眠ってしまっていたらしい。
体を揺さぶられる感覚を覚え、重いまぶたを開こうとする。
ガチャっと車の扉が開く音が聞こえた。あずまさんが外に出たようだ。
徐々に目も慣れ、寝ぼけまなこでシートベルトを外し、私も車の扉をあける。
瞬間、ひんやりとした風が頬を撫でた。
「さむ...... 」
夏が始まったばかりとはいえ、朝方近い山は一枚羽織っていないと、やっぱり肌寒い。
空を見上げると、ちょうど日の出が始まった頃のようだった。
おそらく今は午前五時くらいだろう。
「行くか」そう言ってあずまさんが歩みを進める。
私も慌てて彼の後についていく。
山道の空気はほんのり湿っていて、葉っぱの匂いがする。
道中は自分の呼吸音と虫の声、じゃりじゃりとした土と靴がこすれる音しか聞こえ
ない。
山頂に近づきつつあるのか、酸素が薄くなってきたように感じた。
「はあ、はあ...... 」
「少し休むか?」あずまさんが振り向いて声を掛けてくれた。
「大丈夫です」
実際しんどい。
「分かった」
あずまさんは言葉は少ないけど、彼なりに気遣ってくれているということは知って
いる。
だから、迷惑をかけたくないという思いから強がった。
そしてそれ以上に、今私は楽しいと感じていた。
今まで病院生活で味わえなかったこの今が。
まさか誘拐されて、山に登ることになるなんて。
こんな経験、誰もできないだろうな。
そう思い、高揚していた私はひたすら足を前に進める。
「はあ、はあ...... 」
「お疲れ」
必死に歩みを進め、なんとか山頂にたどり着くと、彼は目を細め、労うように声を
掛けてくれた。
「っ...... はあ、はあ...... 」
膝に手を置いて肩で呼吸をしながら顔を上げる。
山々を見渡してみると、暗くてちゃんと見えないけど、ぎゅうぎゅう詰めの木々が望できた。
そして、相変わらず空には満天の星が瞬いている。
空と大地は満席だった。
「今の気分はどうだ」
「しんどいです」
「だな、俺もだ」
あずまさんはそう言うと、水平線のほうに顔を向ける。
「だけどな、俺はどうしてもこれをお前と見たかった」
彼の言葉が合図ともいわんばかりに、水平線から太陽が昇り始めた。
その瞬間、星のカーテンが開いていき、空が少しずつ橙色に染め上げられていっ
た。
それはまるで、自然による情熱的な演劇の幕が上がったみたいだった。
「うわっ...... 」
その光景に瞬きができない。
呼吸も忘れていた。
「確かにこりゃヤバいな...... 」
あずまさんが、私にもかすかに聞こえるくらいの声でボソッと呟く。
「親父が言ってたんだ、ヤバいって」
「たしかに、ヤバい......ですね」
気づくと頬に一筋の何かが伝っていく感触があったので、私は人差し指でその部分を触る。
決して形容できない、今までにない感覚。
しばらく私たちは、その演劇を静かに観賞した。
「なあ」
あずまさんが突然、口を開く。
「さっき一緒に死なねーかって言ったけど、やっぱやめとくわ。俺から言っといて悪いけど」
一瞬、沈黙が私たちを横切る。
「アカリ、お前はどうだ」
真剣な表情で私の顔を見ながら彼はそう聞いてきた。
「私は...... 」
言葉がまとまっていないせいで、うまく吐き出せない。
だけど、確かに心の中で、私が叫びたがっているのを感じていた。
その瞬間、せき止められていた思いや涙が洪水のようにあふれ出た。
「私は...... 死にたくない...... !っぐ...... 死にたぐないにきまってるじゃないですか...... !わがってるくせに...... ! そんなの、当たり前でしょ.....ううっ...... もっと...... もっとおいしいもの食べて、いっぱいキレイな景色を見て、っ、オシャレだってしたい...... ! なんで私なんですか...... っ...... ううっ、あずまさんに誘拐されて、もっといろんなところに行きたい...... ! もっと長生きして、いろんなことを経験したい...... ! もっと...... !」
私はネックレスを手が赤くなるほどの力で握りしめ、すべてをぶちまける。
あずまさんは朝焼けのほうを見ながら、そうだよなとだけ小さく言った。
「じゃあ死んでる場合じゃねーな。親父もここにはいなかったしよ」
あずまさんはそう言うと、片手で前髪をかきあげ、私に向き直る。
「実はな、冗談だと思うけどそのネックレス、俺が初めて作ったものなんだよ」
「え...... 」
突然のことでうまく言葉を返せず、ネックレスに入れていた手の力が抜ける。
「それ、俺の子供みたいなもんだから嬉しかったよ。大事にしてくれるやつに会えて」
目の前の景色が、ゆらゆらと揺れる。
あふれでる涙を抑えるために、両手で顔を覆った。
「めちゃくちゃ似合ってるよ」
「っ...... ああっ...... うぐっ...... 」
「俺は帰ったら罪を償う、お前はその間に病気を治せ」
「ううっ...... ふっ...... ううっ...... 」
今は何も考える余裕はなかった。私は顔をぐちゃぐちゃにして、彼に返事をする。
「ヤバいぞ、その顔」
彼は大笑いしながら私の顔を指さす。
「...... ほんどデリカシーない!」あずまさんの言葉にムカついた私は、彼の胸に飛び
込む。
「うわっ、きたねえ!離れろ!」
「いやっ!」
私は振りほどかれまいと、必死に彼にしがみつく。彼は諦めたのか、私を掴んでい
た腕を放してダランと下げた。
「ムショから出たら必ず迎えに行く、だから負けんなよ、アカリ」
顔を上げ、精一杯の笑顔をつくって私は大きく頷いた。
そしてしばらく朝焼けを眺めた後、私たちは山を下りた。上るときは長かったの
に、降りる時は一瞬に感じた。
帰りの車で、私は疑問に思っていたことをあずまさんに聞く。
「さっき言ってた罪って、私を誘拐したことですか? それだったら私、合意だった
って言いますよ」
その言葉に彼は少しバツの悪そうな顔をする。
「いや、実はアカリに会う前に、人を殴ってんだ」
「もう、なんで...... 」
私は呆れたように言う。
「親父が金を借りたとこの人間が最悪な奴でよ、しかも、俺がつくったもんじゃ借金
返済は無理だと抜かしやがったんだよ。親父はほんと見る目ねーわ」
「あずまさんを雇うくらいですもんね」
「...... お前なんか図々しくなってないか」
「そんなことないですよ」
あずまさんは私の言葉にふんと鼻を鳴らした。
「まあなんにしろ、お前を誘拐したことも含めて、何もなかったですで済ますわけに
はいかねーよ」
一瞬間が空き、車の走行音が私たちの会話に割り込む。
「次、お前に合わせる顔がないから」
照れた様子でそういうあずまさんがおかしくて、次にって約束してくれたその言葉がうれしくて、自然と笑みがこぼれてしまう。
「そうですか」
「笑うなよ」
下山してから数時間後、あずまさんは私の家の近くまで送ってくれた。
「着いたな」
「はい...... 」
沈黙が訪れる。
名残惜しい、そんな気持ちが私の心を支配する。
「じゃあまあ、がんばれよ」
しびれを切らしたのか、あずまさんが先に口を開く。
「人のこと心配してる場合ですか」
「まあそうだな...... 」
再び静かになり、車のアイドリング音が、私をせかすように耳の中に入ってくる。
言いたいことがあるなら早く言えと。
「あの、最後に...... 」
言葉が詰まってしまった。
「最後に、なんだ」そのことに気づいたのか、あずまさんは優しく続きを促してくれる。
私は意を決して、その言葉を口にする。
「き、握手してもらえませんか」
「なんだよ、それ」
肩透かしをくらったようにあずまさんはフッと笑う。
「いいから」
あずまさんは小さくため息をつくと、ズボンで手のひらをこする仕草を見せた。
「へー、そういう紳士みたいなこと、できるんですね」
「うるせー」
そう言って彼は右手を差し出した。
私もあずまさんの真似をして、手をズボンで拭いてから、彼の手を握る。
「ありがとうございました」
「ああ、こっちこそな。あと悪かった、誘拐して」
「ほんとですよ」
私は笑顔でからかうように言う。
しばらくそのままでいた後、彼から握っていた手を放した。
私は一瞬泣きそうになったがなんとかこらえ、バレないよう、それ以上何も言わず
に車から降りる。
それを確認したあずまさんは私に向かって小さく手を挙げると、余韻すら残さず車
を走らせていった。
「もう...... 」
私にロマンチックじゃないって言ったくせに自分もじゃん。
そんな彼が乗った車の背中を、見えなくなった後も視線をそらすことなくずっと見続けた。




