【最終話】僕と魔法使い④
そんなある日。朝起きてみると、いつもは僕より早く起きているはずのオルシアの姿が無かった。僕は急に心細くなって、彼の寝室のドアを叩いた。
胸騒ぎがする。
「オルシア?」
のぞいてみて、一先ず安心した。彼女の長い黒髪が、深く被った毛布の端から覗いていたから。
「オルシア、朝だよ。今日は僕、お寝坊さんって言われなくてすんだね」
「あぁ……いい子だな。すぐに行くから、少し待っていてくれ」
彼は布団をかぶったまま言った。その声が何処か苦しげなのに気が付いて、僕はもう一度、オルシア?と名前を呼んでみた。
「どうかしたの?」
「何でもない」
そっけない返事。僕は余計に不安になった。
「気分が悪いの?オルシア」
「何でもないって言ってるだろ!」
初めて彼女が怒鳴ったのを聞いた。普段から口の悪い人だったけれど、こんなふうに怒ったことはなかった。それだけ気が焦っいたのかもしれない。僕は少し驚いたけれど、相当気分が悪いのに違いないと思うと、ひどく心配になって、何も言い返すことができなかった。
「俺に構わないでくれ」
と、オルシアは言った。
「もういいだろう?もともと、俺は一人で過ごしたいからここにいるんだ。魔族のお前を今まで育ててやったんだし、有り難く思って、いい加減もうここからでていったらどうだ」
本心からの言葉でないことは、すぐにわかった。何か大事なことを話すとき、オルシアは真っすぐ僕の目を見つめる。たとえそれが僕にとってつらい話でも、彼女はいつも堂々としていた。
でも、今日は違った。頭から布団を被ったまま、顔を見せようともしない。
何も言わず、僕はそこに立っていた。
重い沈黙のあと、オルシアは再び口を開いた。
「すまない」
「……ううん」
「行かないでくれ」
「……わかってるよ。気にしないで、オルシア」
僕はオルシアの被った布団をそっとめくった。彼女は何もしなかった。ただ、あの紫の瞳が、僕以上に不安げに、哀しく伏せられていた。
「心配はいらない。もう、大丈夫だから」
その日、僕は一人で狩りにでた。
オルシアは起きようとしたが、無理矢理ベッドに寝かせておいた。
案の定、たいした食材をそろえることはできなかったけれど……。僕の作った料理を食べながら、オルシアはいつものよう微笑んで、
「いつのまにかお前の方が俺よりうまくなってたんだな、料理」
と言った。
「ゆっくり休んでいられないな。これ以上何かお前に抜かされたら、俺のプライドに傷がつく」
この皮肉っぽい、少し意地悪な笑みが好きだった。
彼女と出会って、もう十年近い年月が過ぎていた。かつては見上げなければならなかったオルシアの美貌も、今では少し目線を上げるだけで見ることができる。
確実に時が流れていた。
変わらないのは、オルシアのその美貌だけ……。
次の日には、オルシアは言葉通りすっかり回復したようだった。
「ねぇオルシア」
「ん?」
「オルシアは綺麗だね」
「何だいまさら。そんなこと他人に言われなくたってわかってるよ」
「初めて逢った時と少しも変わってない」
「魔力を得た代償なのだろうな。ある時から急に、歳を取らなくなったんだ」
「……」
「魔物に助けられたことで、色々イヤなこともあったかもしれない。塔に閉じ込められたり、魔女扱いされたり、大切な人たちに先立たれたり……でも、今はその魔物にとても感謝している。あの時母が……魔物が助けてくれなかったら、俺は人を愛することもお前に出合うこともなく、子供の頃に死んでいた。辛いことも、悲しかったことも、全て帳消しにしてもいいくらい幸せだった時が確かに俺にはあったし、それはあの時死んでしまっていたら手に入れられないものだった。だから俺は幸せだ。今まで生きて来られたことを、心から感謝している」
オルシアはそう言って、僕に微笑みかけた。
限りなく穏やかで優しかったその微笑の意味を、僕はその時まだ、理解することができなかった。
「人生なんて、いつも後悔ばかりだった。でもよくよく考えると、ああ、やっぱりこれで良かったんだなって思えることも多かった。だからその時その時を、精一杯生きればそれでいいんだ。少々選択を間違えたとしても、それはそれでいい思い出になることもあるのさ」
何気なく呟いたような言葉の中に、いつも教訓のある人だった。
彼女のことを思い出すたび、僕は思う。
あの人ほど、他人を、自分を、世界を……愛した人は、いないだろう。と。




