黒衣の天使④
とっさに声の主に向かって剣を構えたルーシェは流石かもしれない。もっとも、ただならぬ気配は感じ取ったのだろう。その手足も、小刻みに震えていた。
「……このようなモノを斬っても、君の手が穢れるだけだ」
そういって進み出た、黒衣の姿。それは今宵の夜の闇よりもなお濃く、すべての光を吸収する深遠のような色をしていた。しかし対照的に、振り返る美貌の肌の白さは、月のごとく冷たく発光しているようにも見える。どこか悲しみの覗く紫の瞳。その妖しくも優しい眼差しに出会い、オレは放心するように脱力した。
ルーシェは、その圧倒的な瘴気を持つ黒衣の救世主に、かなり困惑している様子だった。しばらく男の美貌から目を離せない様子で、構えた剣を下ろすこともできずに硬直していたが、オレと同じようにあの視線に出会い、手にした剣を落としてしまった。
「あなた……は?」
ルーシェの問いに、黒衣の魔物は魔物とは思えないほど穏やかに微笑して答えた。
「君の父上の信奉者の一人だよ」
その肩に、先ほど案内役をしてくれたカラスが舞い降りた。その喉元をくすぐりながら、黒衣の魔物はまだ立ち上がれずにいる初老の男を見下ろした。
「お前には、人界の法の捌きなど必要なかろう。行くがよい」
予想外の言葉に、その場の者たちの視線が一斉に魔物に集中した。初老の男も、きょとんとしている。最も、単に美貌に惚けているだけかもしれないが。
黒衣の魔物は、その先の細い美しい指で初老の男を指して、言った。
その表情は、先刻までとは打って変わって、さながら地獄の魔王のように冷酷で残酷だった。
「ただし、お前にはこの先、生きながらカラスに食われるよりも過酷な運命が待ち受けているだろう。お前はもう逃れられない。生きながら地獄に落ち、死してなお悪霊どもがお前の魂を苛むだろう。永遠に後悔しても、永遠に苦しみが続く……さあ、我が呪いを受けるがよい」
けたたましい鴉の泣き声が響いた。
恐ろしい魔物の言葉に、初老の男のみならず、オレもルーシェも震え上がった。この男は、本当に異界の存在なのだ。しかも、かなり強力な力を持っている。もしかしたら……神に近い存在ですらあるのかもしれない。
男は、恐怖のあまり失禁していた。だが、気を失うことはできなかった。魔物の美貌は、こんなときでも人を魅了してやまないのだ。
「行け」
低い声に、男は気が触れたように喚きながら、一目散に逃走した。いや、本当に気が狂うことができれば、あの男も幸せだろう。彼はこれから先、常人には想像もできないような生を、正気のまま生きていくに違いない。
魔物は言った。
「残りの墓荒らしもそろそろ捕獲されたことだろう。罪人とはいえ奴らは使役される立場にあったもの。その罪は許されるべきものではないが、法の裁きを受ける権利くらいは残してやってもいいだろう」
「あの……ありがとうございました」
ルーシェが恐る恐る礼をした。魔物は、一瞬天使かとも思えるような優しい微笑を浮かべ、言った。
「君は立派な少年だな」
「……」
「君はやがて、この国の歴史に名を残すだろう。頑張りたまえ」
予言のような魔物の言葉に、ルーシェは少し怪訝そうな顔をした。
「……あの、それもまじないかなにかですか?」
「ん?……フフフ、そうではない。君の父上は剣の達人、勇者として名を残した。だが、彼の人生は誰かに祝福を受けてそうなったのではない。彼の持って生まれた星は、私などから見ればむしろ不運といってもよいものだった。だが彼はそこから抜け出そうと死に物狂いでもがいた。その結果無意識のうちに鋭い勘と類まれな剣の腕を身につけることができたのだ。他人には……もしかしたら本人にも、それは天賦の才のように見えていたかもしれない。それほど必死に、この世で与えられた生を生きぬいたのだよ、君の父上は。君は、そんな男を父に持った。彼の最も近くで成長することができたということが、君の人生において最大の幸運だ。私は、君がその幸運を生かすことを信じている。つまり……応援しているということだよ」
ルーシェの顔に、笑みが浮かんだ。希望に満ちた、輝くような笑みだった。




