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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
花患いと竜の禊病
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 簡単な身支度と着替えを済ませて、奏は玄関で靴を履いた。


 必要なものは後から買い足せばいいからとにかく身軽な用意で済ませるように、という理人の言葉に従って、肩からかけた鞄にはほとんど何も入れていない。


 心残りは何もなかった。颯太のドッグタグでさえ、机の中に入れたままだ。

 音を立てずに玄関のノブに手をかけた所で、思いがけず声をかけられて奏は飛び上がった。


「どこに行くの」


 寝間着のまま、廊下に立った母が奏を見ている。

 こんな風に向き合ってしみじみと母の顔を見るのはずいぶんと久しぶりだ。

 海に流してしまった写真の母に比べて、皺が増えて、白髪も混じるようになった母。

 儚い期待を寄せ続けたその相手を目に焼き付けながら奏は答えた。


「ちょっとそこまで」


 明らかに誤摩化した奏の言葉に、さして興味もなさそうに鼻で息をつくと、母はぷい、と自室に戻ってしまった。


 ──これが、最後か。


 あっけないものだなという思いと、やっぱり少し痛む胸を抱えて奏は玄関の扉を押し開いた。

 ざあ、と強い海風が吹き付ける。少し行った所で、理人が奏を待っていた。


 一歩一歩、踏みしめる大地に信じられないほど強い実感を感じる。

 辺りを見回すと、見通しの良いなだらかな段々畑と、木々の合間に覗く海が見えた。


 こんなに、世界は広かったのか。


 自分がどんな場所に生きているのかも感じ取れないほど、今まで心に余裕がなかったようだ。

 不安と、罪の意識と、秘匿と、我慢と。そして寂しさが心を占めて、自分で自分を小さな世界に閉じ込めていた。


 理人に向かって歩いていると、ふいに彼の目が意外そうに見開かれた。

 奏を通り越してその後ろを見ている。つられて振り返るとそこには奏の母が姿を現していた。

 呆気にとられて立ち尽くす奏に向かって、母がつかつかと歩み寄る。そうして追いついた奏の胸に向かって母が何かを乱暴に押し付けた。反射で受け止めると、それは銀行の通帳だった。


「もう帰って来ないでね」


 奏が何か言うよりも早くそう告げると、さっさと踵を返して家に戻ってしまう。

 扉がしまると同時にがちゃん、と鍵のかかる音がして、奏はようやく母が自分の思惑に気がついていたことを理解した。


「蒼衣さん」


 いつの間に隣に来ていたのか、理人が気遣うような視線で奏を見ている。

 全てを振り切って、奏は理人を促した。


「行こう」


 先に立って歩き始めた奏の背後で、理人が見ているはずもない母に向かって、深く頭を下げる気配がした。


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