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時計の針が日付を超えた。
布団にも入らず、ぼう、とその様子を見つめていた奏は、一人ため息をついた。
理人が口にした日数は過ぎたが、だからといって何かが変わった様子もなく、それどころか理人は登校できないほどきっと体調を崩している。
「疲れたなあ……」
ほんの一週間ほどの間に、色々なことが起こった。颯太は家族を取り戻し、奏は理人に秘密を知られ、その理人は懸命に奏を救おうとして体を壊した。
「──許して」
誰にともなく、呟く。
もう、許して。私はこの世に、存在していることがもう、苦しい。
理人が島を出たら、と奏は思った。
彼が私を確認できなくなったら、島の人に見つからない場所で、どこか遠くで。
──死のう。
それは決意だった。
網戸張りの窓の向こうからさざ波の音が聞こえている。海風が窓から入って、蒸した空気を吹き飛ばす。ふと、夏虫の声がしないことに気づいて、奏は不思議に思った。
背中にしていた窓を見上げたその時、夏虫の替わりに別の声が奏を呼んだ。
「蒼衣さん」
聞き慣れた声にはっとして立ち上がる。
網戸を開けて身を乗り出すと、家の基礎の分だけ見下ろした位置に理人が立っていた。
「遅くなってごめん」
はにかむ理人は顔色が良かった。
ブルーのさっぱりとしたシャツにコットンのズボン合わせて、デイパックを背負った姿はこれから夜釣りにでも行きそうな身軽さだ。
驚きに言葉を失くした奏に向かって、理人が口を開いた。
「諸々手続きを間に合わせるのに手間取って。三日三晩、根詰めて作業していたら夕方頃、ついうっかり眠ってしまったんだ。気がついたら日付が変わる頃で、すごい焦った」
照れたように笑う理人の言葉が理解できずに戸惑う。
夜空を映したような理人の瞳が奏を見上げて、眩しそうにそれを細めた。
「蒼衣さん。僕は今日、十五になった」
唐突に告げられた誕生日に、奏は更に困惑を深めた。理人が続ける。
「古い歴史を持つ九々重は、日本の法律とは別に一族の成人年齢を設けていてね。それが、十五歳なんだ。その歳に届くと一人前の識者として独立することができて、具体的には九々重の姓に戸籍を移し、九々重の後ろ盾を得て、個人に予算がつくようになる。つまり、一人の識者として旅立ちが許されるようになるんだ」
「旅立ち……?」
理人の言葉を懸命に追って、奏は繰り返した。そう、と肯定して理人が説明する。
「九々重は識者の中でも常に移動しながらまぼろし病を追う存在だ。手がかりを探しながら街から街へ流浪する。その生活を支えるために、予算がつくと言うわけ。常に出張を続ける仕事のようなものかな」
ちょっと違うかな、と働いたことのない理人が眉をひそめて考えるように首を傾げた。
「そうは言ってもこの時代、実際に十五で旅立ちを迎える者なんていなかったから、申請を通すのに色々と面倒が多くて。君に三日と言ったのに、間に合わなかったらどうしようと思ったよ」
にっこりと笑う理人に、奏はまだ理解がついていかない。
理人が一人の識者として九々重に名を連ねたらしいことは分かったが、それが何をもたらすのか想像できなかった。
「どこかに行くの……?」
恐る恐る尋ねる。
この人が島を出たら、と考えていたはずなのに、実際にいなくなると思うと、なんだか無性に心細い。不安げな奏の声に、理人が優しい眼差しを寄越して、頷いた。
「君を連れて行く」
「──え?」
あまりにも思いがけない言葉に、奏はとっさに反応ができなかった。
「僕は、君の対処法のためにはこの島を離れるのがいいと思う。君は自分のために生きて、選択して、ちゃんと泣くべきだ。それが僕の、識者として最初の判断だ」
理人の手が窓枠を掴む。
「君が望むなら、僕には君を帯同させる用意がある」
そうして包むような声で尋ねた。
「君は、どうしたい?」
息を呑んで、奏は理人を見下ろした。
何てことだ。それじゃあこの人は、私のために人生を急いだのか。
助ける、と言った約束を守るために。自分をここから連れ出すために。生き急いで、迎えに来たというのか。
あまりのことに胸がいっぱいになる。突き上げる思いは、後悔にも、申しわけなさにも似ていたが、それでも差し伸べられた手が死ぬほど嬉しかった。
呼吸が震えて声が出ない。言葉の替わりに、涙がこぼれて落ちた。
カンパニュラ、かすみ草、クチナシ、鈴蘭、矢車草。
降るように落ちる奏の涙の花を見上げて、理人が「きれいだなあ」と呟く。
たまらなくなって、奏は窓から身を乗り出すと理人の右腕にしがみついた。
びっくりした様子で、理人が奏の肩を支える。見えない片翼の翼に縋って、奏はようやく声を出した。
「連れて行って」
涙に掠れた声を、それでも理人はしっかりと聞き取ったようだ。
一つ、頷いて、それから囁くような声で奏に言った。
「こんな形でしか、助けられなくてごめん」
家族を修復できたら、とか、もっと真っ当な手段で、とか。きっと様々な意味が込められていたのだろうが、奏は首を振って理人の謝罪を退けた。
助ける、と誓ったその約束を果たしに来た理人に、これ以上望むことは何もなかった。
潮が香る。星が瞬く。
波の音の狭間で、理人が「僕に君の生きる意味をちょうだい」と乞う声が聞こえた。




