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「私にはもう、何もない」
父も、母も、颯太も。大事なものはみんな奏のもとから離れていく。
海に残した死への未練をぶり返して、奏はさざ波に耳をそばだてた。
相づちも打たずに奏の話に耳を傾けていた理人が口を開く。
「蒼衣さんが罹っているのは、『花患い』というまぼろし病だ」
奏を見下ろす理人の背中は、奏に傷痕を晒した日と同じようにきれいに伸びていた。
「花患いは知っての通り、涙が花に変わる病なんだ。小さな子どもが罹ることが多くて、子どもの場合、何年かすると勝手に治る」
「え」
治る、と聞いて奏は体を起こした。
「小さな子どもの場合は、だよ」
奏が希望を見出す前に、理人が先回りして牽制する。
「稀に大人が罹ることもあって、その場合、完治したという例は報告されていない。これは花患いが何によって現れる症状なのかということに理由があって」
大丈夫? と理人が奏を気遣った。
注意を促されてようやく、奏は自分が打ちのめされていることを知った。
ほんの束の間、痛ましそうに奏を見つめたものの、理人が先を続ける。
「花患いは、それまでに吞み込んで来た涙の分だけ、涙の花を流してしまえば治ると言われている。小さな子どもが治りやすいのは、きっと堪えた涙の数が少ないからだ」
大人は、どれだけ泣いても取り返しのつかないほど涙を呑んで生きてきたということか。
言葉にされなかった理屈に思いをめぐらせて、奏は気がついた。
「待って。私は大人じゃない」
子どもでもないけど、大人と呼ばれるほど長じてもいない。だとしたらこれからの人生の中で涙の挽回ができるのではないか。
縋るような奏の視線をまっすぐに受け止めて、理人が応える。
「確かに君は大人じゃない。だけど小さな子どもでもない。こういう微妙な年頃の発病は例がなくて、僕にもはっきりしたことは言えないけど」
一度奏から視線を外して深呼吸をすると、理人が意を決したように顔を上げた。
「蒼衣さんの病は、かなり進んだ状態だと思う」
不吉な言葉に、奏は思わず身を引いた。その動きで、奏の服に引っかかっていたらしい花がころりと砂浜に落ちる。鮮やかなオレンジ色の、マリーゴールドだ。
丁寧な仕草でそれを拾い上げると、手の中の花を見つめながら理人が続けた。
「僕が目を通したことのある花患いの事例の中で、これほどはっきりと花の形を顕現させる例はなかった。君が最初に見たような、雪のような花のような形のものが涙に混じるケースがほとんどで、はっきりと花を象る場合でも色や種類まで判別できるような例は報告がないんだ。君の未来は長いから、もしかしたらいつか吞み込んだだけの涙を流し終える時が来るのかもしれないけど……これだけ進行した病を治すために、一体どれだけの涙を花に変えればいいのか、それは僕にも見当がつかない」
それはほとんど不治を宣告する診断だった。
君は、と呟いた理人が、痛がるような表情を浮かべて手にした花をそっと撫でた。
「君はきっと、あまりにも多くの涙を吞み込みすぎたんだ。あまりに多くの、苦痛を吞み込みすぎてしまった」
「そんな」
うわずった声に動揺して、とっさに両手で口元を覆う。嗚咽を噛み殺すのはもはや反射だ。
言葉と同時に涙を呑み込んだ奏をじっと見つめると、理人が奏の手首に触れた。
「蒼衣さん。我慢しては駄目だ。それは花にしないと治らない」
慎重に手首を掴んで、理人がそっと奏の手を取り去った。
「……だって」
解放された唇から震える声がこぼれ落ちる。
「だって、我慢しなきゃ生きていけなかった」
花を見て顔を歪めた母。目の色を変えた父。向けられたカメラのレンズ。狭い、島の社会。
「泣いたって誰も助けに来ない。涙なんか見せた方が怖いものがやって来る。だから私怖くて」
涸れたと思った涙が溢れて落ちる。
拭おうとして、奏はいつの間にか両手を理人に握り込まれていることに気がついた。
「うう」
決して強い力で押さえ込まれているわけではないのにちっとも振り解けない。
そのまま花にしろということだろうが、人目に触れるにはやっぱり抵抗があって、奏は理人の肩口に額を押し付けると肩を震わせた。
「私はただ」
嗚咽に混じって心情が漏れる。
「ただ。お母さんと、お父さんと、普通に暮らしたかっただけ」
後はもう、言葉にならなかった。
奏の手のひらを握りしめていた理人が、何も言わずにその手に力を込めた。




