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「どうして」
掠れた奏の呟きをしっかり聞き取って、理人が答える。
「匂いがしたんだ。夕方に一度。颯太くんとは違うまぼろし病の匂で、気になって発生源を探してた」
しかしほんの一時漂ったその香りは、やがてすぐにかき消されてしまい、理人は途方に暮れたという。
「一度は諦めて家に戻ったんだけど、どうにも嫌な感じがして、また探しに出て」
再びその匂いを嗅ぎ取った時、海に近い場所にいたのはまったくの偶然だったらしい。
「蒼衣さん」
波の音に負けない声で理人が奏に告げた。
「君の病は海に入っても治らない。これじゃ駄目なんだ」
「じゃあ、どうしたら治るの」
もはや涙を隠しもせずに理人を振り返る。
奏の泣き顔を見て、理人が息を呑んだ。言い淀む様子に事を悟って、奏は理人を問いつめた。
「治らないのね? 私はずっとこのままのね?」
理人は答えなかった。否、答えなんか聞かなくても分かる気がした。
まるであの図書室の時のように、理人の戸惑う心が手に取るように分かる。
理人の腕を振り解こうともがくと、背後から必死になってなだめる声が聞こえた。
「暴れないで! 溺れる」
「いいから離して!」
「どうして! 海になんか入っても君は治らない! こんなこと意味が無いんだ!」
「だったら死なせて!」
奏の悲痛な叫びに、理人の腕がびくりと震えた。
「死なせて……! もう嫌だ。こんなに苦しいのも。寂しいのも。辛いのも。もう嫌だ」
何より、
「この目が」
両手の指で瞼を掻いて、奏は呻いた。
「こんな気持ち悪い涙を流す、この目が一番嫌だ……!」
家族を壊したのは、私。
罪にまみれた瞳を顔から毟り取ってたりたくて爪を立てる。力を込めるその手を引き剥がして、理人が両腕を捉えたまま奏を抱きしめた。
「君を助ける」
ぎゅう、と腕に力を込めて理人が誓った。
「約束する。僕が必ず、君を助ける」
だから、と続けて理人が言った。
「死ぬなんて言うな」
最後は懇願に近かった。まるで泣いているような声に、泣いているのは自分だと思い知る。
痛む心は理人のものか。自分のものか。
身動き一つ取れない理人の腕の中で、奏は父が居なくなってから初めて声を上げて泣いた。




