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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
花患いと竜の禊病
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 バスも車通りもない道を海に向かって小走りに駆ける。

 奏の家から海までは徒歩で三十分ほどだ。

 普通は自転車で向かう所だが、興奮していたせいか、奏は家を飛び出した勢いのまま自分の足で海へと向かっていた。


 浜辺に辿り着いた所で、奏は息を切らせて足を止めた。

 ひりつく喉に無理矢理空気を流し込む。滲む涙を耐えようと夜空を見上げると、いつの間にか雲が晴れて、歪な形の小望月が中途半端に空を照らして星を遠ざけているのが見えた。


 息を整えながら、ポケットから写真を取り出す。

 写真を胸に押し抱くと、奏は夜になって少し冷えた海水に足を踏み入れた。


 対岸に灯りのない海はどこまでも真っ黒で、どこから空なのか見分けることができない。

 膝へ、腿へ、そして腹へ。進むに連れて体にまとわりつく圧迫感が鼓動を早めた。


 胸まで海に浸かって立ち止まると、奏はそっと手の中にある写真に目を落とした。

 月明かりに照らされた写真の中の家族は、どこまでも幸せそうな顔でこちらを見ている。


「お母さん」


 祈るような声とともに、ぽとん、と海面にキンセンカが落ちた。


「おかあさん」


 ぽとぽと、続けて花屑が海に舞う。

 マリーゴールド、エリカ、ムスカリ。ゼラニウム、アネモネ、キンセンカ。後は知らない。


「気持ち悪い」


 泣きながら笑って奏は呟いた。


 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。この涙も、この世界も、自分自身も、全部。


 息を止めて、奏はざぶ、と海に潜った。

 どのくらい潜っていればいいのか分からないので、息が続く限りとにかく潜る。

 息継ぎのために海面に顔を出すと、頬の上を転がって花がまた一つ、海に落ちた。


 だめなのか。やっぱり自分は治らないのか。海の色をした絶望が奏を吞み込もうとする。


 いや、そんなはずない。きっと深度が足りないのだ。長さが足りないのだ。

 焦燥感に突き動かされるようにして、奏は足も届かない深さまで進むと再び海に沈んだ。


 もっと深く。もっと長く。もっともっと。


 海面の月明かりから逃れるように、暗い方、暗い方へと潜っていく。

 息を止めて、水圧に肺の空気が漏れても奏は浮上しなかった。


 ──苦しい。


 頭に血が上るような膨張感を感じる。息苦しさに涙を流して、奏は海面を見上げた。

 そうして奏は見たのだ。海の中、月明かりに照らされてきらきら輝く水面に向かって、いくつもの花が浮かんでいくのを。


 それで分かった。この方法では治らない。自分はこの呪いから、逃れることはできないのだ。


 失望して、奏は海の中で嗚咽した。

 微かに残っていた空気が肺から全て吐き出される。

 とっさに海中で呼吸してしまって、喉に侵入した水に奏は咳き込んだ。

 器官という器官に水が入って、体中が痛い。

 苦しい。苦しい。上がらなければ、と思う一方、どこかで思った。


 ──ああ、もう、いい。


 家族を奪い、颯太を奪い、自分は治らない。こんな世界、大嫌いだ。

 懸命に握っていた写真を手放す。ひらひらと水の流れに攫われて幸福な時間が波間に消えた。


 望むことに疲れて、耐えることに疲れて、奏は苦しさの中で目を閉じた。その瞬間。

 信じられないほど強い力で腕を引かれて、奏は海面に引き上げられた。


「蒼衣さん!」


 咳き込む自分の嗚咽に混じって、耳元で誰かの声がする。

 飲んでしまった水を吐き出しながらも体の重さに耐えられず前のめりに海に突っ伏すと、すかさず背後から腕が伸びてこれを阻止した。


「蒼衣さん!」


「離して……っ!」


 聞き覚えのある声を拒絶して、自分を掴む手を振り払う。

 振り解かれたことに慌てた様子で、声の主が後ろから奏を抱き留めた。


「駄目だ! 駄目なんだ、君のその病気は」


 病気、と言われてようやく、奏は自分を阻む相手が誰かを知った。

 理人だ。

 荒げる声を聞くのは初めてですぐに分からなかったが、確かに昼間聞いた声だった。


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