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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
花患いと竜の禊病
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 夏虫が、ひるる、ひるると鳴いている。

 とっぷりと暮れた夜に小望月が昇っても、母は家に戻っては来なかった。


 こんな風に感情を爆発させた日は、母はその勢いをもてあまして夜の街を彷徨うのだ。

 仕事に疲れたふりをして。良き母に疲れたふりをして。優しくしてくれる馴染みの店で朝まで酔いつぶれる。


 攻撃的に見える母はその実酷く臆病だ。自分を守ることに精一杯で、誰かに寄りかかって生きたがる。そんな彼女にとって、最初の夫との間に生まれた奏は邪魔な存在でしかなかっただろう。コブ付きは男にモテないと、母は奏に愛着を持てない様子だった。


 だからこそ、これ以上母の負担を増やさないようにと奏は長いこと徹底して自分の特異な体質を隠し通して来た。人前では絶対に泣かなかったし、何がきっかけになるか分からない私生活については他愛無ないおしゃべりの中でも言を濁した。


 よく似た境遇の颯太にさえ、打ち明けなかったくらいだ。


 漏らした言葉は島中に知れ渡る。秘密にしたいことは誰にもしゃべらないこと。

 それは島に生きる者なら当然身につけている処世術だった。


 万が一自分の体質が周囲にバレてしまったら、颯太の一家がそうであったように、きっと自分たちは奇異の目に晒される。あの母が、そんな疎外感に耐えられるとは思えなかった。


 しん、と静まり返った家の中に夏虫の声がこだましている。

 ひるる。ひるる。

 切なさを誘うようなその音色を聞きながら、奏は布団に寄りかかったまま暗い部屋でぼんやりと島にやって来たばかりの少年のことを思い出していた。


 外からやって来た理人は、始めから、どこか異質な存在だった。


 誰とでもすぐに親しくなるのに、誰にも執着しない。別れることに慣れているような達観した瞳に気がついたのは、きっと奏が理人を遠巻きに眺めていたせいだ。


 懐に入られていたら気づかなかっただろう。

 理人と仲の良い平島も、彼が作る微妙な距離には気づいていないようだった。


 興味を持ったきっかけは、あまりにも些細なことすぎて、きっと理人の方は覚えていない。


 ある日、社会科の授業で図書室を使うことがあった時。生徒達が各々適当に書籍の出し入れを繰り返す中、奏はふと窓辺の席で一人資料をめくっている理人が気になった。

 彼が一冊の本に没頭しているのではなく、いくつもの本を並列に並べて同時に読み込んでいることに気がついたからだ。


 理人の視線が、複数の本の上を流れるように滑っては、時々止まる。

 考えられないほど素早く文章を読み込み、雑多な情報を頭で処理して繋げているようだ。


 興味本意で近づいて、奏はそっと理人の正面に座ってみた。

 何か反応があるかと思ったが、読書に夢中の理人はこちらに気づきもしない。

 ちょっぴり落胆したものの、特に親しく声をかけるような仲でもなかったので、奏は手にした大判の資料をめくり始めた。


 傍にいるのにちっとも構われない。厭われもせず、探られもしない。やがてその不思議な居心地が気に入って、奏は努めて物音を立てないようにしながら理人の正面に座り続けた。


 一体どのくらいの時間そうしていたのだろう。


 ふいに強い海風が窓から入って、薄手のカーテンを大きく膨らませた。

 カーテンの端が奏の額に落ちた前髪に触れて、誘われるように視線を上げる。

 その瞬間、一匹のてんとう虫が風にあおられて室内に飛び込んで来たのだ。


 真っ赤な羽に黒い星を散らした七星てんとうで、懸命に羽をはばたかせるのにちっとも前に進まない。

 ついに机の上で足を滑らせて転んだので、そのコミカルさに奏は思わずちょっと笑った。


 同じタイミングで吹き出す声が聞こえてびっくりする。

 理人が笑ったのだ。

 見ると奏と同じく驚いた顔をした理人と目が合って、また少し笑い合った。


 まるで手触りすら感じられそうなほど、お互いの心の動きを近くに感じる。

 偶然チャンネルが揃っただけだ。分かってはいたが、それでも胸に広がる穏やかな気持ちに幸福感を味わう。

 やがててんとう虫が飛び去っても、奏はしばしその余韻に浸っていた。


 その後、理人の背中に大きな火傷があると知って、奏は増々理人への興味を募らせた。


 あの大きな火傷は、彼にどんな影を落としただろう。

 あの人も自分のことで、負い目を感じたり、孤独を感じたりするのだろうか。


 後ろ向きの共感を得たいと思ったのは、きっと一度心が触れたと思ったせいだ。

 だけど奏の要求に応えて背中を晒した理人は、その傷にちっとも負債を抱えていなかった。


 確かに皮膚は大きく爛れて、覚悟もなく目にしたら息を呑むほどだ。

 それでも理人はまっすぐに背中を伸ばして、恥じるような仕草は見せなかった。

 しかも、彼はそれを母の愛が生んだ傷だと言うのだ。


 理人を助けるために背中を焼いた彼の母も、その背中を誇りにしてしまう理人自身も。目が眩むほど羨ましくて、妬ましくて──そして美しかった。


 翼みたいできれいだと言ったら、理人は嬉しそうに、ありがとう、と返した。

 どこまでも飛んでいけそう、と羨んだ奏に向かって、片翼じゃ飛べないよ、なんて言っていたのに。


 片翼の理人は片翼のまま、颯太と颯太の家族を日の当たる場所へ連れ去ってしまった。




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