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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
雫のみ
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 濡れそぼった状態では、服も犬も重すぎて、浜辺に上がるには大人達の助けが必要だった。

 颯太の父がハヤテを抱き上げ、理人の父が颯太と理人を支えて浜辺に引き上げる。

 母親達は各々バスタオルで息子を包み、理人も久々に母の手を体に感じた。


「お母さん、ぼく、ハヤテを忘れてないよ!」


 意気込んだ颯太の声が、体を拭いてやろうとしていた彼の母親の手を止める。

 頭からバスタオルを剥ぎ取って、颯太が傍で立ち尽くす父親を見上げて訴えた。


「お兄ちゃんの言う通りだった! ぼくは病気だったんだ!」


 嬉しそうに笑う息子が解せない様子で、颯太の父は怪訝そうな顔をした。

 物分かりの悪い大人達に焦れる様子で、颯太が続けざまに言う。


「病気だったんだよ、ぼく。だから色んなことを忘れちゃったのは、お父さんがぶったせいじゃないんだ」


 はっとして、颯太の父が息を呑む。理人も胸を突かれて颯太を凝視した。

 全員の視線が集中する中、颯太は実に幸せそうににっこり微笑んだ。


「お母さんがぼくを生み間違えたせいでもない。ぼくは病気だったんだ」


 誰のせいでもないのだ、と証明できて、だから颯太は笑っているのだ。

 颯太の父の瞳から、大きな涙がぽとりと落ちる。

 続いて、わあっ、と声を上げて颯太の母が泣き崩れた。

 二人を見比べた颯太はちょっとだけ困ったように眉を下げると、はにかむように肩を竦めた。


「泣かないでよ。ぼくの病気は治らないけど、ちゃんと忘れない方法も覚えたんだから」


 ほらね、と颯太がずぶ濡れになったハヤテを愛おしそうに撫でる。

 それを見た颯太の父が、膝をついて息子を抱き寄せた。太い腕に力いっぱい抱きしめられて、颯太が「痛い、痛い」とはしゃいで身を捩る。

 無邪気な笑い声を聞いて、理人は全身から力が抜けるような安堵感を覚えた。


「よくやったな」


 理人の父が、大きな体を屈めて息子の背中を叩く。


「対処療法でしかないが、記憶を保持する方法を彼らが受入れられたのは大きい。今までよりずっと生きやすくなるだろう」


 父の評価に、ひとまず最善の落としどころに着地できたらしいことを知って、理人は改めて胸を撫で下ろした。


「僕がしたのは父さんに頭を下げたことだけだ」


「そんなことはない」


 理人の自己評価に軽く笑って、父が颯太の家族に目をやった。


「お前はちゃんと判断したよ。識者としての在り方にも辿り着いた。正直なところ、俺はお前が患者に接触しないタイプの識者になると思っていた」 


 ゆっくりと視線をこちらに戻した父が理人を見つめる。


「より、険しい方の道を選んだな」


 褒めているんだか嘆いているんだか分からない父の言葉を聞きながら、理人はふと、データを復習ううちに考えていたことを思い出した。


「そういえば、後から聞こうと思ってたんだけど、雫のみの対処法で患者の浸る液体の塩分濃度について研究されたことはないの」


「え?」


 意表をつかれた顔で、父が理人を覗き込む。

 突拍子もないことを口にしてしまった気がして、理人は視線を逃がしながら説明した。


「いや、人間の涙も海の水も塩辛いなってとこから思いついたんだけど、涙や血液の塩分濃度ってある程度決まっているでしょ。場所によって開きはあるけど、海もまあ大体濃度が決まってる。それで、もしかして雫のみの記憶の保持に必要なのは『海水』ではなくて『塩分』なんじゃないかと思って……」


 自信がなくなって先細りする声を励ますように、父が「続けて」と理人を促す。


「……例えば人間の体内の塩分濃度より高い濃度の塩水に浸かればいい、とか。そういうことが分れば、自宅の風呂でも代用が効くようになる。塩分についても天然の塩でなくていいなら入用剤で代用できるかもしれない。対処法をより身近にすることができるんじゃないかと思うんだけど」


「なるほど」


 大きく頷いた父が、理人の思いつきを肯定した。


「いいアイディアだね。それはこれから十分に研究する余地があるだろう。もし協力を臨めるようなら、あの家族に手伝ってもらってもいい」


 手放しで褒めた父が、それにしても、と理人を見下ろして微笑んだ。


「やっぱりお前は根っからの研究者だね。識者向きだよ」


 感心するような父の声に、母が優しく笑った。


 穏やかな海風が浜辺を撫でる。残り香のような甘い香りが鼻孔をくすぐる。ほっとするような空気の中で、理人はいつの間にか奏が姿を消していることに気がつかなかった。

                              <橘颯太/雫ノミ 適応ス>


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