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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
雫のみ
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 海出ると水平線すれすれに入道雲が流れていくのが見えた。


 颯太の父が運転するワゴンが浜辺に近い場所で停止するのを待って、一行は車を降り始めた。

 最初に外に出たのは運転席と助手席に座っていた颯太の両親で、次に席を立ったのは後部座席に座っていた理人の両親だ。

 先に降りた理人の父が座席の頭を倒してくれて、更に奥に座っていた奏、颯太、理人、それから颯太の抱えるハヤテが車を降りる。

 白いシーツにくるまれたハヤテは中型犬の雑種だが、颯太が抱えるとずいぶん大きく見えた。


「手伝おうか」


 理人の申し出に、颯太が大きく首を振る。


「いい。ぼくが抱っこしていたいって連れて来たんだし」


 そのままハヤテをずるずると引きずるようにして海に向かっていく。

 颯太がハヤテをだき締めていたい気持ちは、理人にはなんとなく分かるような気がした。

 これから行う対処法がうまくいかず、万が一ハヤテを忘れてしまったら。それでもその時自分がハヤテを抱きしめていたら。その犬の死骸が、自分にとって大切なものだったと分かるはずと考えたのだろう。


 両親達は波打ち際で立ち止まったが、理人は海へと進む颯太を追って水に入った。

 颯太の肩が海に浸かる位置まで来ると、理人は彼を呼び止めて体を支えた。


「もう一度言うけど、泣いていいのは海の中だけだよ」


 颯太の家でも説明した内容を繰り返し口にする。


 雫のみを完治させる方法は存在しない。少なくとも現在に至るまで、その方法を見つけられた識者はいなかった。しかし、その代わりに有効な対象法が発見されていることを、理人は幻書館の所蔵する文献データの中から知りえていた。


“涙で記憶を押し流してしまう雫のみは、海の中で泣く分には記憶を保持できる”


 頭の中に複写した一文を再度確認して、理人は颯太を支える手に力を込めた。


「大丈夫。君はハヤテを忘れない」


 理人を見上げた颯太が、うん、と一つ頷いた。

 波に攫われそうになるハヤテを懸命に抱きしめて、颯太が言う。


「お兄ちゃん、知ってる? 海にはねぇ、神さまがいて、漁に出るお父さん達を守ってくれたり、お魚をたくさん採らしてくれたり、津波から島を守ってくれたりするんだ。ぼくは見たことないけど、お父さんは嵐の中で一度、神さまを見たことがあるって言ってた」


 不安を紛らわせるように、颯太が早口で喋り続ける。


「大雨の降る夜で船は転覆しそうだったんだって。もう駄目だって思った時、海の向こうからすごい早さで眩しい光が飛んで来てお父さんの船をすり抜けて行ったんだ。気がついたら浜辺に漂着していて、船も無事だった。お父さんはそれを、神さまが助けてくれたって信じてる」


 ふ、と言葉を切って、颯太が水平線を見渡した。

 腕に抱えたハヤテをぎゅう、と抱き潰して呟く。


 ──かみさま。


 縋るような声を残したかと思うと、次の瞬間、颯太はハヤテごと、とぷんと海の中に潜った。


 かみさま。


 その言葉に、理人はまぼろし病が別名「神のさわり」と呼ばれていることを思い出した。

 さわりは「障り」ではなく「触り」。

 昔々神と人とが今より近しく暮らしていた時代、神が人を愛でて触れた証が、まぼろし病なのだという。

 それこそお伽話だと理人は思うが、それでも今、この時だけは、その「神さま」に祈りたい気持ちだった。


 海に慣れた島の子の肺活量はすごい。理人が心配になるほどいつまでも潜っていた颯太が、しばらく経ってようやく海面に顔を出した。


 途端に理人の嗅覚を馴染みのある甘い匂いが刺激する。まぼろし病の香りだ。

 海水に濡れた顔は、どれが涙でどれが海の水か見分けがつかない。

 首から先だけで理人を見上げた颯太が、ぽかんとした顔で目を見開いた。


「お兄ちゃん」


 その表情が何を意味するのか分からなくて、理人はたじろいだ。

 颯太の視線が手元のハヤテに落とされる。

 ぼく、と何か言いかけた声が掠れて、そのままざぶ、と海に潜ってしまう。


「颯太くん!」


 慌てて叫ぶが、海に逃れた颯太に理人の声は届かない。

 水面に揺れる颯太の影を見下ろしながら、理人は不安に駆られていた。

 まぼろし病の症状には個人差がある。対処法の効力にも個人差がある。まさか、という思いが理人の脳裏を過った。

 ややあって、再び颯太が海面に顔を出した。


「お兄ちゃん、ぼくハヤテを覚えてる!」


 真っ赤になった目で、颯太が笑う。目の縁に溜まるのは、涙か、海水か。


「海の中でいっぱい泣いたけど、ちゃんと覚えてる……!」


 言うなり、また海に潜る。昂る気持ちに涙がこぼれてしまいそうだったのだ。

 そうして何度も何度も、颯太は息継ぎと潜水を繰り返した。

 ハヤテと同じ色の入道雲を仰いで、理人は震える息を吐き出した。


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