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「今日、ハヤテが死んじゃったんだ」
ぽつん、と颯太が打ち明ける。
「ハヤテってもしかして君が飼っているっていう犬?」
「うん」
声が震えて、颯太が慌てて空を見上げた。涙をこらえているのだ。
深呼吸を繰り返してから、颯太がぽつぽつと語り始めた。
「ぼくが生まれる前から飼ってた犬で、ずっとそばにいた、お兄ちゃんみたいな存在。賢くて、優しくて、みんなが思うよりずっと、色んなことを分かってた。言葉だって、喋らないだけできっとぼくの言うことはなんでも理解していたと思う。甘えたのも、八つ当たりしたのも、可愛がった言葉も、酷いこと言った言葉も、ハヤテはみんな、分かっていたんじゃないかなぁ」
薄明るい空に颯太の声が吸い込まれていく。
ぼくが、と言いかけて、颯太が一度声を詰まらせた。
「ぼ、ぼくが……色んなことを忘れちゃっても、ハヤテは何も変わらなかった。みんなが『どうして?』って聞くことも、『変だよ』って言うこともハヤテには関係なくて、変わらずいつも傍にいてくれた」
朝日の気配を含んだ空から、瞬く星が消えていく。
みるみる空いていく空を睨みつけるようにしながら、颯太が続ける。
「何かを忘れるたび、お父さんは怒って、お母さんは泣くんだ。きっと、どっちも悲しいからだってぼくは思う。何かを忘れることは酷いことなんだ。誰かを傷つけることなんだ。……だけどハヤテはぼくが泣くと顔をなめてくれる。どんなに大事な思い出を失くしても、いつもと同じようにきらきらした目でぼくを見上げて、しっぽを振ってじゃれて来る。ハヤテの前では、」
ほとんど泣き声の颯太が空に向かって吐き出した。
「ぼくはただ、ぼくでいればよかった」
うぐ、と息を詰まらせて、颯太が唇を引き締めた。
最初と同じように怒った顔で、どん、と強く胸に拳を打ち付ける。
「ぼくは泣かない。泣いたらだめだ。泣いたらハヤテを忘れちゃう。それは嫌だ。絶対に嫌だ」
その場で大きく足踏みをして、颯太がどん、どんと胸を叩き続ける。
刺激がなければ、悲しみに捕われてしまうのだ。
「なめてくれた思い出も、呼んだら嬉しそうに駆け寄って来た思い出も、一緒にボール遊びした思い出も、落ち込んだ時いつまでも寄り添ってくれた思い出も、忘れたくない」
うわずる声に更に強く胸を打って、颯太が続ける。
「噛み付いてもちっとも痛くない口も、白くてふわふわの毛も、抱きつくとぼくよりあったかかった体も、それが段々、冷たくなっていったことも……! 全部全部、忘れたくない!」
悲痛な叫びが海風を切り裂く。
体を揺すって、地面を踏みつけて。涙を流さない代わりに、颯太は全身で慟哭していた。
小さな拳がなおも強く胸を打ち付けようとする。その手を掴んで、理人は言った。
「颯太くん」
この子どもために、できることをしたい。
うまくやろうとしている場合ではないのだと、理人は決心を固めた。
「きっと君の力になる。だから今はまだ、泣いちゃだめだ」
丸くなった颯太の瞳の中で、ついに夜が明けた。




