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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
雫のみ
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 白み始めた夜空に向かって伸びをすると、理人は凝り固まった肩を回してほぐした。


 休日だからと夜を徹して幻書館のデータを復習っていたらこんな時間になってしまった。


 少し体を動かそうと外に出てしばらく、徐々に輪郭をあらわにする海を遠目に臨みながら、あてもなく歩き続けていた。


 ここ数日、理人は学校から帰ると自室のノートパソコンに齧りついて情報を集めていた。

 雫のみの情報はすでに頭に入っている。知りたいのは、歴代の識者達がまぼろし病の患者とどう向き合って来たかということであった。


 識者の本分は、研究し、それを残すことだ。

 過ぎる重責を背負わぬよう、患者に直接手を出すことを戒める不文律さえある。


 実際、識者の中には徹底して患者との接触を避ける者や、対処法を伝えずにただ観察するだけの者もいる。理人の両親のように、出会った患者に対して一々、より生きやすい道を助言する識者ばかりではなかった。

 どちらの生き方も間違いではない。それでも今、理人が知りたいのは颯太を救う方法だった。


 ──やり方を間違えたら傷つけるだけだ。


 雫のみの対処法と颯太の幼さを考慮すれば、周りの理解と協力は不可欠だ。

 しかしまぼろし病を患っている本人ならともかく、その周囲に病の存在を信じさせ、更に協力を促すのは困難なように思えた。


「蒼衣さんはよく信じたな……」


 理人自身の話を引き換えにはしたが、それでも普通、俄には受入れられない話だ。

 一時とはいえ、それだけ信頼を寄せられたのかと思うと、裏切った罪の大きさを実感するようで、理人は改めて胸を痛めた。


「あれ」


 大きくカーブした道を進んでいると、眼下の田んぼに見知った影が動くのを見つけた。

 薄暗い田んぼのあぜ道を怒ったようにずんずんと歩いているのは、件の患者、颯太であった。


「颯太くん」


 呼びかけはしかし、颯太の耳には届かなかったようだ。

 何事か思い詰めた様子で田んぼの一角を曲がり、次の一角をまた曲がる。そうして真四角の円をなぞって延々と同じ所を歩き続ける颯太を見て、理人はあぜ道に足を踏み入れた。


 その場に立ち止まってしばらく待つ。やがて戻って来る颯太の行く手を塞ぐためだ。

 青々と茂る稲が海風に揺れる。夜明けに敏感な蝉が徐々に鳴き声を上げ始めていた。

 案の定間もなくして近づいて来た颯太は、ぶつかりそうになってようやく理人の存在に気がついた。「うわ」


 びっくりしたような声を上げて、颯太の幼い瞳が理人を見上げる。

 面識があることに気がついたのか、颯太の唇が「あ」の形を作った。


「おはよう。早起きだね」


 笑いかけると、戸惑いつつも颯太が頷く。


「こんな所で何してるの。家の人が心配するよ」


 朝とはいえ早朝過ぎる。小さな子どもが家を抜け出すには相応しい時間ではなかった。

 理人の苦言に、ぷい、と颯太がそっぽを向く。


「だって家にいたくない」


 吐き出された言葉が穏やかではなくて、理人は眉をひそめた。


「どうして?」


「だって、家にいたらきっとぼく、泣いちゃうから」


 ぎゅう、と両手を握りしめて颯太が言う。

 泣いてしまうから。その言葉に颯太の痛みを感じ取って、理人は思わず問いかけた。


「君が泣きたくないのは、泣いてしまうと大切なことを忘れてしまうからだね?」


 颯太がこぼれんばかりに目を見開いてこちらを見上げる。


「どうして……奏ねえちゃんに聞いたの?」


 信じられない、と言った様子の颯太に向かって、理人は首を振った。


「僕が先に気がついたことだ。『奏ねえちゃん』にはお願いして教えてもらった。だから彼女を怒らないで」


「怒らないよ」


 そんなことはこの島じゃ誰でも知っている、と颯太が言う。


「奏ねえちゃんが自分に関わる人のことを誰かに話したっていうのが、意外だっただけ」


 伺うように理人の全身を眺めてから、颯太が首を傾げて呟いた。


「本当に友だちだったんだ……」


 その感嘆に胸が痛んで、理人は曖昧に微笑んだ。

 今ではもう視線すら合わない奏の軽蔑を思うと、そうだよとは答えられなかった。


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