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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
雫のみ
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「颯太が色んなことを忘れてしまうようになったのは、小学校に上がる前からのことだと思う」


 最初がいつだったのか、今では誰も分からない、と奏は言った。


「始めの頃は、泣いている時の気持ちだけ忘れてしまうみたいで、喧嘩して泣かされても、叱られて泣いても、その後嘘みたいにケロッとしているから、響かない子どもだと思われてた。その頃はまさか、颯太が記憶を無くしてるなんて誰も気づかなかったから」


 空の端が夜色に染まり始める。それでもなお、明るい海を眺めて奏が続けた。


「そのうち、泣くきっかけとなった出来事を忘れてしまうようになったの。例えば友だちと喧嘩をして、ぶたれて泣いたとするでしょう。そうすると、ぶたれたこと自体を忘れてしまうの。この頃から彼に近しい人間は違和感を感じ始めたと思う。それでも本人は、何が起こっていたのか分からなかったみたい」


 記憶の消失は、フィルムカットする昔の映像編集と同じようなものだと理人は考えていた。

 記憶が飛んでもその前後の脈絡が繋がっていれば、脳は地続きの記憶と疑わない。

 雫のみの場合、その症状に気づくのは患者自身が一番遅いというが、颯太の場合も例外ではなかったようだ。


「時間が経つにつれ、颯太の失う記憶の幅は広がっていった。最近では、泣いてしまったことに関するエピソードを根こそぎ忘れてしまうようになったの。大好きなアニメ映画で感動して泣いたらそのアニメ自体を忘れてしまったし、私があげたタグについても、そもそも貰った記憶を無くしてしまったと思う。こうなると周りの反応も変わって来るから、今ではもう、颯太は自分に何が起こっているのか理解してる」


 自分のことのように辛そうに話す奏を前に、理人は高ぶる気持ちを抑えきれずに尋ねた。


「ちょっと待って。感動して流した涙でも、記憶を無くしてしまうの?」


「う、うん」


 理人の瞳の輝きに気づいた様子で、奏がやや不安そうに頷く。


「そうか……涙って悲しい時だけに流れるわけじゃないんだ」


 悔し涙、嬉し涙。苦しくて流す涙も、安心して流す涙もある。


「だとしたらこれは新しい指摘だ」


 理人が知る限り、現存する雫のみの文献に涙の種類について言及した叙述はなかった。

 残された記録の中で失われる記憶はどれも悲しい記憶ばかりだったし、泣くという事象に引っ張られて、失うのは悪い記憶ばかりだと思い込んでいた。


 “それはまるで救いの手のように──”


 そんな風に表現した論文さえある。おそらく、他の識者も理人と同じ思い込みを持っているのだろう。今までこのことに示唆を加える者はいなかった。


「全て平等に失くすということ……? それとも記憶の種類によっては失う幅が変わったりするのかな」


 呟きながら、面白い、と理人は思った。

 誰もが通り過ぎた注目すべき事実に、自分だけが着眼したという自負に血が滾る。

 興奮のまま、理人は奏を問いつめた。


「もっと他に何かない? 颯太くんが忘れてしまったことで……ええと、そうだな、嬉しくて泣いた時はどうだったか、とか」


 分からない、と答えた奏の瞳に不審の光が宿ったことに理人は気がつかなかった。

 訊きたいことは山ほどあるのに、うまく質問に整理できないことがもどかしい。焦れる気持ちで、理人は思考のまま言葉を繰り出した。


「楽しくて泣いたりは……しないか。いや、おかしくて笑いすぎると泣くな。あれはどうなんだろう。目の前で泣いてもらえたら分かるかな。ねえ蒼衣さん、今度颯太くんに頼んで、試しに泣いてもらうことって」


 ばしん、と耳元で大きな破裂音がして、理人は唐突に自分を襲った衝撃に言葉を失くした。

 叩かれたのだ、と理解してようやく、頬に痛みが走る。

 呆然としたまま叩いた本人に目をやると、目元をまっ赤にした奏がこちらを睨みつけていた。


「いい加減にして……!」


 怒りに震える唇で、奏が理人を突き放す。


「あなたにとっては興味深い病原菌かもしれないけど、病気に罹っているのは人間なの!」


 その言葉にはっとして、理人はその場に固まった。

 自分が何を間違えたのか、とっさに理解したのだ。


「記憶を失くしてしまうことで、颯太はずっと苦しんでる。いつの間にか自分だけ知らないことが増えていって、何で忘れたんだって責められたり、嘆かれたりもして。それでも思い出すことのできない自分に傷ついてる。試しに(、、、)忘れてもいい思い出なんて、一つもないの! シャーレの中でいじくり回す菌と一緒にしないで!」


 言葉で再度理人を叩いて、奏は学生鞄を手にするなり踵を返した。


 教室を出て行く彼女を引き止めることもできずに、理人はただ、後悔に打ち拉がれていた。

 患者に向き合う覚悟がないどころか、患者すら見えていない。

 病に対する好奇心に取り憑かれて、そこに人の気持ちがあることを忘れるなんて。

 それは酷く恐ろしいことのように思えて、理人は両手で顔を覆うと深くため息をついた。


 鈍く痛む頬に泣きたくなる。奏の軽蔑するような眼差しが理人の心に深く突き刺さっていた。

 奏が殴らなかったら、自分はどこまで間違い続けただろう。

 押しつぶされそうな胸の痛みに耐えながら、理人はしばらくその場を動けなかった。


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