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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
雫のみ
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「何してるの」


 ためらいもなく近づいて来る奏に、ちょっと驚く。

 こんな風に親しく言葉を交すほど距離が縮まったとは思っていなかったからだ。


「──考えごとしてた。この時間は、ここが一番静かだから」


「ふうん」


 興味があるのかないのか、理人の隣にやって来た奏が気のない相づちを打つ。


「蒼衣さんはどうしたの」


「私は委員会の当番が終わったところ」


 何でもない会話を交しながら、理人は思ってもみなかった機会が目の前に転がり込んで来たことを感じていた。

 颯太の矛盾した行動にも慣れた様子を見せた奏は、きっと何らかの事情を知っている。

 何か聞き出せるかもしれなかった。


「あのね」


 先に口を開いたのは奏の方だ。

 夕陽に染まる頬をこちらに向けて、真っ黒な瞳が伺うように理人を捉える。


「私、草音くんに頼んでみたいことがあるんだけど」


「なに?」


 頼み、と聞いて興味を惹かれる。

 先を促すと、奏が僅かに視線を逸らして呟くような声で言った。


「草音くんの背中の火傷痕、見せてほしい」


 予想外の言葉に、一瞬意味を掴み損ねる。

 息を呑んで固まった理人を確認すると、奏が慌てた様子で前言を撤回した。


「ごめん。嫌だったらいい。酷いこと言ったかもしれないから、忘れて」


 早口で捲し立てて奏が身を翻す。その腕を掴んだのは、最早反射だった。

 振り返った奏の顔が怯えたようにこちらを見上げる。はっとして、理人は奏から手を離した。


「待って。別に酷いこと言われたなんて思ってないから、逃げないで」


 両手をホールドアップして一歩下がると、奏が強ばらせていた肩を少し緩めた。

 その仕草が妙に頼りなく見えて、理人は無意識に口角を上げた。

 異質な存在に思えた奏も、こうして近くで見ると普通の女の子だ。言ってしまった言葉を取り戻せないことに狼狽えて、不安に逃げ出したくなるような、普通の。

 そう思うとなんだか無性に優しくしたくなって、理人は奏に向かって微笑んでみせた。

「いいよ」

 自分でも驚くほど穏やかな声が口をつく。

 奏の瞳が大きく見開かれる前で、理人は制服のワイシャツに両手をかけると、がば、と頭からそれを脱ぎ捨てた。


 唐突な行動に面食らった様子の奏に背を向けて、傍らの机に腰掛ける。

 こんな風に誰かに背中を晒すのは初めてだ。醜く引き攣れた傷痕を見たがる人なんかいなかったし、見た人の方が傷ついたような顔をするから、理人も極力人目に触れないよう気をつけていた。しかし、だからといってこの痕を恥ずかしいと思ったことは一度もない。


 これは母が自分を強く愛したからできた痕だ。半端な愛では自分の息子の背中を焼くなど、恐ろしくてとてもできなかっただろう。

 母は今でもそのことに話が及ぶと、申し訳なさそうに眉を下げるが、父はその度理人の背中を撫でて、「お前は勇敢な母さんに助けてもらって良かったな」と笑いかけてくれる。


 理人にとってこの背中は、傷があるからこそ誇らしいものだった。


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