55
『雫のみ』。
その名の通り、患者が涙を呑むことから名付けられたこのまぼろし病は、涙を流すことによってその前後の記憶を失ってしまうという病であった。
「なるほど」
理人の報告を聞き届けた父が、一つ頷いて理人を見据える。
平屋造の借家の和室にはエアコンがないが、大きな窓を開け放しておけば海から吹き抜ける風が心地よい。八畳ほどの居間で、理人と両親は互いに向き合って座っていた。
まぼろし病の発病者を見つけた理人は、速やかにその情報を識者である両親に伝えた。
病に関わる情報の採取、研究の進め方、論文の書き方、各種助成の仕組み。九々重の識者に必要なことは折りに触れ両親から教わってはいたが、九々重として正式に名を連ねてもいない自分の立場は弁えているつもりだった。
識者が背負う知識はただの情報ではない。人の人生を左右する知識で、それをどう活かすかという判断力が同時に問われる。一つ間違えばそのまま命に関わることもあるのだ。その重責は自分の手に余ると理人は考えていた。
しかし、父の口から放たれた言葉は、理人の考えを覆すものだった。
「それなら理人。今回のまぼろし病、お前が自分で捌いてみせろ」
「え」
思いがけない言葉に顔を上げると、父の凪いだ瞳が理人を見つめていた。
いつも通りにこやかな表情で息子を見下ろすくせに、否やを言わせぬ意思が見える。
「お前に足りないのは、患者に向き合う覚悟だね。いつまでも俺たちがお前を庇護して、お前の代わりにその責任を背負ってやる訳にはいかないのだから、いい機会だ」
普段甘やかすようなことしか言わない父は、その分先達者として理人の前に立つ時は容赦なく厳しい。そして母は、ことこの分野に関しては父に全幅の信頼を寄せている様子で、決して口を挟まなかった。
「お前ももう、十五になるしな」
呟いた父の言葉に、理人は自分が近々九々重の認める成人の歳に達することを自覚した。
とはいえ荷が重い。
翌日。夕陽に染まる教室で一人盛大にため息をつくと、理人は開け放たれた窓の桟に寄りかかって遠くに見える海を眺めた。
校庭では野球部の声が飛び交っている。合間にへたくそなブラスバンド部のとぎれとぎれの演奏が聞こえて、未熟なまま放り出された自分を彷彿とさせるようなその音に、理人はちょっと苦笑した。
九々重が成人を認めようとも、十五という歳は世間で言えばまだ子どもだ。今の時代、そんな幼い年齢で独立する識者なんていない。理人の両親も、まさか自分の息子が本当に十五歳で家を離れるとは思っていないだろう。要するに、父は理人に自覚を求めているのだ。
「まったく。何でも知ってて嫌になる」
覚悟がない、と言った父の言葉は理人の図星を突いていた。
子どもだからとか、弁えるだとかいう言葉を言い訳にして、人の人生を左右するかもしれない識者の立場から逃げている。自覚があるだけに、見透かされた気まずさが自嘲を誘った。
「さて、どうしよう」
西に傾く太陽を眺めながら、何から手をつけるべきか考えていると、ふいに教室の戸が開く音がした。
「草音くん」
投げ込まれた声に振り返ると、そこには学生鞄を手にした奏が立っていた。




