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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
どんぐり病
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「翌日、有は突然私達の前からいなくなってしまったわ。先に移転先で生活を始めていたお父さんが体を壊して倒れてしまったそうで、急遽駆けつけて、そのまま転校してしまったの」


 引っ越しの作業はこちらにいた親戚の者に任せたようで、母娘は街に戻らなかった。


「やり直せない人生を、私は十五年分だけ持っている。きっと神さまが、一握りだけ私に許した尊厳なのね」


 それは何よりも尊くて、何よりも残酷な一握りだった。


「やり直せないの」


 苦しそうな奏の声に、累は笑った。


「無理よ。私が戻るのはいつも、クッキーを捨てた日の翌日なのよ」


「翌日だって謝れる!」


 食い下がる奏の瞳に涙が浮かぶ。慌てた様子で奏が、引き上げた両膝の中に顔を隠した。

 人の痛みに感情移入しすぎるのだ。


 難儀な子ね、と苦笑しながら、それでも累は、両肩をきつく抱いて涙を耐える奏の姿を見て不思議と優しい気持ちが心に染み渡るのを感じていた。


 ベンチの上に体育座りをする形で膝に顔を突っ伏している奏に、理人がそっと顔を寄せる。


「奏。泣くのを堪えたらだめだ。それは花にしないと治らない」


 諭すように囁くと、理人が奏の肩を掴んだ。

 促されるまま顔を上げた奏の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。

 水滴が頬を滑る、その一瞬。小さな涙の粒がふわりと花の形に広がって奏の膝の上に落ちた。


「え……」


 目の前で起こったことが信じられなくて、累は思わず体を退いた。


 何だ。何が起こった。


 脳が状況を理解する間もなく、目の前では次々と奏の涙が花に変わっていく。


 ムスカリ、オダマギ、月桂樹……。

 花の部分だけで顕現する様々な花に見入っていると、理人が背中のままで説明した。


「奏は、『花患い』というまぼろし病を患っています。この病は発症するまでに溜め込んでしまった感情の分と同じだけの涙を花に変えないと治らないと伝えられている」


 静かに告げた理人の肩に、奏が額を押しつける。

 反射で上がった理人の腕は、しかし躊躇うように空を掴むと、そのまま下ろされた。

 抱きしめるでもなく、支えるでもなく、されるがまま肩を貸す理人は、奏との距離感を計り兼ねているようにも見えた。


「話の腰を折ってすみません」


 振り返った理人が、累を見て言う。


「この人が泣いているのは悪いことではないので、どうか気にせず続けてください」


「気にせずと言われても……」


 気になる。

 まるで美しい魔法を目の当たりにするような奇跡に奏を凝視していると、理人が更に促した。


「来更有さんが引っ越しをしてしまっても、その気になれば転居先は分かったでしょう。最初の人生ではともかく、それほど後悔を残しているなら、後の人生で探すなり、謝るなりできたのではないですか」


 理人の言葉に、累はようやく奏から視線を外した。


「謝るなんて……そんなエゴ、押し付けられるわけないわよ」


 理人の黒い瞳が累をじっと見つめる。奏も声を押し殺して耳を傾けているようだった。


「私はね、恨まれているの」


 言葉にすると、あの日の胸の痛みが蘇った。


 有のクッキーをゴミ箱に捨てた、翌日。

 生け贄にされる恐怖と、有を裏切ってしまったことへの罪悪感で一晩中眠れなかった累は、両親が心配するほど憔悴した状態で学校へ向かった。


 一体どんな顔で有に会えばいいのだろう。正直言うと休んでしまいたいくらい心は怖じ気づいていたが、ここで逃げたら裏切りを重ねるようで、それもできなかった。


 重く沈んだ気持ちで学校に着くと、蓋付きの下駄箱を開ける。上履きを取り出そうとして、累はそこにあるものに気がついた。


 狭い下駄箱に短く切り詰められた白い花が一本、差し込まれている。

 白くて丸い花びらに、紫色のイチゴのような雄しべ。特徴的なその花の名は、累もよく知っていた。


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