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「夏を前に、有が私に打ち明けたの」
青い空をツバメが横切る姿を眺めながら、累は続けた。
──夏休みに入ったら、引っ越すことになると思う。
それは父親の仕事の都合で決まったことで、覆せないことだと有は言った。
先方は一刻も早い父の移居を望んでいて、準備ができ次第の引っ越しになるという。ただ、そうは言っても学期の途中では何かと都合が悪いので、夏休みに入ってからというのが現実的な目算だった。
有がいなくなると知って、累は目の前が真っ暗になった。
たった一人心の支えだった友人を失うのかと思うと、あまりのことに縋る余裕すらなかった。
言葉もなく呆然と立ち尽くす累を、有は困ったような微笑みでいつまでも見つめていた。
しばらくして、有の転校の話は担任教師の口からクラスメイト達に伝えられた。
別れを惜しむ者や聞き流す者、様々な反応の中で俊敏に反応したのは女王だった。すぐさま有を次の生け贄に仕立て上げたのだ。
どうせいなくなるなら、何をしても構わない。
有に対するグループの仕打ちは、それまでのものに比べて陰湿だった。
無視し、嘲笑し、そのうち物を隠すようになった。聞こえるように悪口を言い、心ない噂を流す。上履きが下水に突っ込まれていたこともあった。
累はそのどれもに吐き気がするほどの嫌悪感を抱きながら、そのくせ何もできなかった。
累ちゃんがいじめられたら私も一緒にいじめられる。そう言ってくれた有のために、累は何もできなかった。ただ、耳を塞ぐように、目を逸らすように、見て見ぬ振りを通す。
進んで迎合しないことだけが、累にできる精一杯の抵抗だった。
そんなことが続いた、ある日。女王が突然言ったのだ。
もうすぐ有が転校しちゃうから、思い出作りにみんなでお菓子の交換をしよう、と。
有は許されたのだ。そう悟って、累は心底安堵した。
街に出て有の好きそうなお菓子を見繕う間、累は久しぶりに心穏やかだった。
色んなお菓子を少しずつ小分けにして、透明のセロファンでラッピングする。みんなに渡す分とは別に、有に渡す分にはちょっとだけ余計にお菓子を詰めた。
有の好きな水色のリボンをあしらうと、小さなプレゼント達はとても素敵なものに見えた。
約束の日。学校に着くと、すでに他のみんなは揃っていた。
有も当然のように輪の中にいて、そのことにほっとする。
どきどきしながら、累はグループの輪に近づいた。理不尽に追いやられている間、何もできなかった累を、有はどんな風に思っているだろう。嫌われていたらどうしよう、失望されていたらどうしようと気になって、一歩一歩進むごとに変な汗が出る。緊張感に圧死しそうになっていると、有が累に向かって笑いかけた。
──おはよう、累ちゃん。
微笑む有はあの温かい表情を浮かべていて、累は泣きたくなるほど嬉しくなった。
累が輪の中に入るなり、有がいそいそと自分の鞄の中から約束のお菓子を取り出す。
有が一人一人に手渡したのは手作りのクッキーで、透明セロファンの袋の中に、動物型のクッキーが確認できた。土台に砂糖で絵を描くアイシングクッキーで、凝ったつくりに心が込められていた。
パンダが好きな累の袋にはパンダばかりがたくさん詰まっていて、その愛らしい表情に、累はまた泣きたくなった。ところが。
──やだぁ。あの話、本気にしたの?
冷笑する女王の声が、その場に水を差した。
彼女曰く、あれはあの場限りの言葉遊びで、誰も本気にはしなかったと言うのだ。
──ごめんね。有が持って来るって知っていたら、ちゃんと用意したのに。
ねぇ、みんな。と呼びかけた女王の目が、はっきりと累を捉える。
刺すような視線を受け止めて、累は真っ青になった。
この仕打ちは、一見有に向けたものに見えて、その実自分を苛むためのものだ。そうでなければ累の耳に、実際にはお菓子の受け渡しはしないという情報が入って来ないはずがない。
そのことに気がついて、累は震えた。
女王は知っていたのだ。累が有を弾く行為に賛同的ではなかったことに。
キリストの踏み絵と一緒だ、と累は思った。大切なものを踏みつけなければ、この場で切り捨てられる。迫られた過酷な選択を前に、累は窒息しそうなほどの息苦しさを感じていた。
──そっかぁ、勘違いかぁ。
パニック寸前になった累を救ったのは、のんびりとした有の声だった。
でもせっかくだからもらってね、と笑う有にしらけた様子で、女王はそれ以上何も言わなかった。寸でのところで、累はどちらも裏切らずにすんだのだ。
その日の帰り際。せめて大切に持って帰ろうと、鞄の中に注意深く有のクッキーをしまっていた累に、女王が近づいて来た。
──ねぇ、それ持って帰るの?
何を言われているのか分からなくて、首を傾げる。
気がつくと有以外の他の仲間が累を取り囲んでいた。
──有の手作りなんて気持ち悪くない? 私たちみんな、食べずに捨てちゃったわよ。
何を要求されているのか理解して、累は悲鳴を上げかけた。
なんてことを。この人達は自分に有のクッキーを捨ててみせろと迫っているのだ。
にやにやと笑うそれぞれの視線が累を追いつめる。
震えるほど嫌悪感が全身を襲うのに、排除されるのが怖かった。
これを乗り越えられなくては、次はきっと自分が生け贄になる。
怖くて、恐ろしくて、累はついにクッキーを掴むと教卓の横にあったゴミ箱に駆けて行った。
恐怖に追い立てられるまま、ゴミ箱にクッキーを投げ捨てる。ゴミ捨てをされたばかりのゴミ箱は空っぽで、かわいいパンダのクッキーがかしゃんと音を立てて無惨に割れるのが見えた。
小さな失笑が背中に刺さる。
肩で息をしていると、累ちゃん、と呼ばれた気がして、累は顔を上げた。ゴミ箱のよく見える位置、教室のドアの前で、いつからいたのか有がこちらを見て固まっている。
謀られた。理解した頭はそれ以上に裏切りの現場を目撃された衝撃で真っ白になっていて、累は弁解も謝罪もできずに有を見つめ返すことしかできなかった。
立ち尽くす累の目の前で、有の瞳にみるみる涙が盛り上がる。それがこぼれてしまう前に、有はさっと身を翻すと、その場から走り去ってしまった。
その後、どうやってみんなと別れたのか、どうやって家まで帰ったのか、累には記憶がない。
覚えているのは、辿り着いた自分の部屋で、泣きながら用意していたお菓子をゴミ箱に捨てたことだけだ。
きれいにラッピングした袋を握りつぶして、ゴミ箱に捨てる。
信頼も、友情も、絆も。有からもらった素敵なものは全部、教室のあのゴミ箱に捨ててしまた。心を尽くして選んだお菓子を捨てながら、累は声を上げて泣いた。




