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樹が去った土間で、ルイスは深く深呼吸をした。
「そんな顔しないで」
身を寄せるようにして体を強ばらせている二人の子どもたちを見て、ルイスは苦笑した。
上がり框に歩み寄ると、そこに腰を下ろす。なんだかひどく疲れていた。
静寂に身を浸して、今しがたの樹とのやり取りを反芻する。
大丈夫だ。樹はきっと藤花を手に入れる。藤花もきっと、迷わず樹の手を取るだろう。
どちらからともなく顔を見合わせた理人と奏が、おずおずとルイスに近づいてきた。
まるで気配に聡い猫みたいだ。
「僕はね、日本人になりたかったんだ」
この国の人たちとは違う、白すぎる両手を見つめながら独白する。
この体は、あとどれくらい保つのだろう。
喫茶店までの道のりを車の速度で計算して、あまりにも僅かな余命に今更ながら恐れを抱く。
死の恐怖に呑まれないよう、ルイスは言葉を紡ぎ続けた。
「国籍を取得して、和名まで手に入れて。それでもこの国の人たちにとって、僕はずっとガイコクジンだった。誰も僕を日本人だとは思わなかった。僕を、日本人の名前で呼ばなかった。だけど僕はこの国が──、」
好きだった。
その一言が言えなくて、喉が泡に塞がれる。
シャボン玉のような虹色の泡が無数に散らかる中、ルイスは更に言葉を繋いだ。
「こ、この国の……はっきりと刻まれる、四季も、山から吹き下ろす風も、人々の微笑みも、表に出さない気遣いも」
藤花も、樹も。
「みんな、ぜんぶ──」
愛している。
吐き出される泡に嘔吐くルイスの体を、理人の手が支えた。
涙が滲むのは、喉を潰す泡が苦しいからじゃない。こんなにも伝えたい言葉が声にならないからだ。
愛している。愛している。愛している。
取り上げられた言葉は、こんなにも大切なものだった。
理人の傍らで、奏が泣いてしまいそうな顔でこちらを覗き込んでいる。
他人の痛みを自分の痛みにしてしまう彼女に向かって、ルイスは微笑んだ。
「だからね、この病に選ばれた時、僕は嬉しかったんだ。まぼろし病は日本人にしか罹らない奇病だ。僕は病気によって、ようやく日本人だと認められたんだ」
後悔は無い。病に罹ったことも。対処法を拒んだことも。ただ。
ただ少し、怖いだけだ。
ぱち、と指先に小さな痛みを感じて、ルイスは視線を落とした。
「早いね」
沸き立つような熱とともに指先が泡立ち始める。奏が声にならない悲鳴を上げた。
「時間みたいだ」
立ち上がろうとして、途端にバランスを崩して倒れ込む。
足だ。靴で見えなかったが、爪先が失われつつあるのだ。
「ルイスさん!」
理人が叫んでルイスに飛びついた。奏はその後ろでがたがたと震えている。
「理人くん」
沸騰するような熱が全身を襲い始めたその中で、ルイスは必死に理人の後ろ首を掴むと自分に引き寄せた。
「理人くん。君が見るんだ。僕の最後を残さず見るんだ。そしてあのノートを完成させてくれ。これは希代の幸運だ。最後の時に九々重が同席しているなんて……」
驚いたように見開かれた理人の瞳が、きらりと光った。
力強く頷いて、若い九々重はルイスから距離を取る。全身を観察できる位置に移動したのだ。
自分の死が無駄にならないことを悟って、ルイスは安堵の息をついた。
理人に代わって、奏が恐る恐るルイスの傍らに膝をつく。
ひんやりと冷たい奏の手のひらが、熱を持ったルイスの手のひらを包み込んだ。
その手を反射的に握り返して、ルイスは自身も知らぬうちに「怖いな」と呟いた。
目を閉じると、瞼の裏に藤花の顔が映った。
出会った頃のまだあどけなさを残した藤花。
誰の話にもにこにこと耳を傾けていた藤花。
夏の日に見た浴衣姿の藤花。
優しく微笑んで、少し困ったように口を噤んで、ルイスの前で少し泣いた藤花。
そして、樹に熱のこもった眼差しを向けた、藤花。
鮮明に蘇る記憶を前に、ルイスは幸福感に包まれていた。
脳が死への恐怖を誤摩化そうとしたのかもしれない。この瞬間、確かにルイスは幸せだった。
──ああ、でも。
でも、と思う。
──最後にもう一度、藤花さんに名前を呼んでほしかった。日本人である僕の名前を。
記憶の中の藤花がルイスに問う。
──なんて名前なの。
あの日をなぞるように、ルイスは自身の和名を口にした。
星宮昴。
いつまでも、どこまでも、大好きなものたちを見守っていたいと願ってつけた名前だった。
「昴さん」
はっきりと発音された声を耳元で聞いて、ルイスは目を開けた。
覗き込むようにしてこちらを見下ろす奏の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
ぽろ、ぽろ、と落ちる涙は、ルイスの頬に触れるより早く、空中で花となった。
「──」
美しい奇跡を目の当たりにして、驚愕よりも先に見蕩れる。
マリーゴールド、キンセンカ、ミヤコワスレ、ジャスミン……。
いずれも茎や葉の無い花で、いつだったか理人の布団に残っていた花を思い出させた。
『悲嘆』、『別れの寂しさ』、『しばしの慰め』、そして『清らかな祈り』。
奏の心を映すような意味を持つ涙の花に目を奪われながら、ルイスは唇を動かした。
「そうか……君も、まぼろし病の患者だったのか」
確信とともに、ルイスは理人と奏を繋いでいるものの正体にも気がついた。
二人を繋ぎ止めているのは、まぼろし病だ。
同時に、それが無くなれば理人が離れていくと言った、奏の言葉の意味も理解する。
止めどなく溢れる涙を拭ってやろうと腕を持ち上げかけて──そこに腕が無いことに気づく。
自分の体は、一体今、どこまで失われてしまったのだろう。
「きれいだな」
立ち上る虹色の泡と、落ちる無数の花を眺めて、ルイスは笑った。
熱さに朦朧とする頭で、最後の言葉を絞り出す。
──大丈夫。泣かなくていいんだ。僕は幸せだったし、君の九々重は、きっと君の望まないことはしない。だって、彼は、きみを──、
最後の言葉は、虹のように美しい泡に埋もれて、消えた。




