33
「樹くん」
ここから先は自分自身を死に導く助言だ。しっかりと認識しながらルイスは樹に目を戻した。
「店に戻れ。別れてすぐにここに来たなら、藤花さんはまだ店にいるかもしれない」
ぴくり、と樹の肩が動いた。
「藤花さんの性格を考えれば、君より先に席を立ったとは思えない。君の方が置いてきたんだろう」
だとすれば彼女はきっと、今もあの店で悲しみに耐えている。
「店に戻れ、樹くん。戻って藤花さんに君の気持ちを伝えるんだ」
強い口調で言ったルイスを、樹がきっ、と睨み上げた。
「それじゃ彼女を不幸にする」
「今のままの方がずっと不幸だ」
真っ向から否定して、ルイスは樹をまっすぐに見下ろした。
「いいか樹くん。よく考えるんだ。君が気持ちを我慢して、藤花さんが気持ちを押し殺して、そうして結婚したところで誰が幸せになる。富士島医院長は藤花さんの幸せを願っている。だからこそ見合い相手を気に入ったのだろうが、それにしたって自分のために藤花さんが本意ではない結婚をするのだと知ったら悲しむに決まってるよ」
誰も幸せにならない。
藤花を選ぼうとしている見合い相手も、その先できるかもしれない家族も、誰も。
「だけど」
樹の瞳が戸惑いに揺れる。
「結婚すると決めたのは、あの人だ」
「そうじゃない」
そうじゃないんだ、とルイスは繰り返した。
「藤花さんは断れなかったんだ。そんなことは君だって分かっているだろう。今回のことで藤花さんが自分で選んだことがあったとしたら、それは樹くん、君と会うことだけだったはずだ」
「──なに?」
戸惑うように眉をひそめて、樹が口の中で問う。
ルイスは慎重に言葉を選びながら彼に告げた。
「富士島医院長に過ぎる恩義を感じている藤花さんが、それでもこの流れに一石を投じるような動き方をしたのは、僕にはとても不自然に思える。彼女が本当にこれからの未来を受入れたのなら、自分の気持ちを忘れるために、きっと君とは顔を合わせないようにするよ」
ルイスの言葉に、樹が目を見開いて声を無くす。
「藤花さんは、樹くんに止めてほしかったんだ。君の気持ちを知りたかったんだよ」
藤花の側に樹の想いを推し量る技量があったかどうかは分からない。もしかしたら藤花にとっては一世一代の博打だったのかもしれなかった。
奥ゆかしい、と言ったらそれまでだが、ルイスにとってこのアプローチは、あまりにももどかしいものに思えた。
「ところで君は、一つ勘違いをしているようだから訂正しておくけど」
恋敵に塩ばかりを送る自分に半ば苦笑しながら、ルイスは言葉を紡いだ。
「君は藤花さんが君に気持ちを打ち明けないのは、富士島医院長が君の仕事を嫌っているからだと言っていたけど、そうじゃないよ」
確かにそれも一理あるだろうが、藤花が気に病むとしたらもっと別のことだとルイスは思っていた。
「藤花さんはね、君と歳がだいぶ離れていることを気にしているんだよ。女性の方が七つも歳上のカップルなんて、この国ではまだ珍しいだろう」
事実、藤花はルイスに「私の方が七つ歳下だったら」と呟いたことがある。はっきり誰とは言わなかったが、その年の差を考えれば樹のことを言っているのかは明らかだった。
「樹くんは、君と歳の離れている藤花さんが、例えば君の将来を思って気持ちを口にしないのだとしたらどうする」
「それは! 歳は関係ない!」
強く否定してから、樹は自分が口にしたことが彼の拘っていたことと矛盾することに気づいたような顔をした。
大切な人が自分のために我慢することが一番堪え難い。そのことを実感したのだ。
心臓が絞られるような切なさを胸に抱きながら、ルイスは樹に笑ってみせた。
「藤花さんには言葉にしろと散々迫ったくせに、君自身は何も彼女に語っていないんだ。藤花さんは行動したよ。君が引いてどうする」
樹の黒い瞳に、決心の色が集まりつつある。
無意識に来た道を眺めた樹の姿に、ルイスは自分の命の終末が近いことを予感した。
「……あんたはどうなんだ」
樹の背中がぽつんと尋ねる。
「俺は、あんたもあの人が好きなんだと思っていた」
好き、という言葉があまりにもすんなり樹の口からこぼれるのを聞いて、ルイスはおもむろに泣きたくなった。憧れと羨望に喉を潰されて、返事に詰まる。
問うような眼差しで樹がルイスを振り返った。
そうだ。愛している。藤花を愛している。これまでも。これからも。ずっと。
言えない言葉を嚥下して、ルイスは樹に向かってはっきりと頷いてみせた。
「僕は、君たち二人の幸せを願っている」
そこに、嘘は無かった。




