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確かにここ数日、医院は忙しかった。
違う。医師の自分は忙しかった。
だけど藤花は? 彼女は医師じゃない。看護師でもない。いつも通り交代で休みを取って、誰かと会うことくらいできたはずだ。
それに、とルイスは思い返す。
あの慌ただしい一日の中で、他の医師が何をしていたのかなんて気にする余裕はなかった。
例えば院長が藤花とともに一時病院を離れたとしても、自分には分からなかっただろう。
それも開院している診療時間ではなく、閉院後のことであればなおさらだ。
同じ職場で働いているから、同じように時を過ごしていると思い込んでいたが、それはとんだ先入観だ。
これだけ忙しいのだから事態が容易に進むはずはないと高をくくってしまった、自分の考えの甘さをルイスは呪った。
ぐるぐると思考を巡らすルイスをじっと見つめていた樹がぽつりと言った。
「そうか。あんたはあの人が見合いをすることを知っていたんだな」
はっとして目を上げる。
視界に捕らえた樹はルイスから目を逸らして、自嘲するように頬を引き攣らせていた。
「俺は知らなかった」
錆びた笑いが声に滲む。ルイスの胸を、後悔に似た痛みが走った。
「あの日。あの人を追って問い質したけど、俺は結局何も打ち明けてはもらえなかった。何があったのか聞いたのは、全てが終わった後のことだ。見合いも終わって、相手に気に入られて、結婚を前提にと申し込みをされた、その後だ」
「君は……藤花さんからそれを聞いたのか」
「そうだ」
樹は今日、藤花に呼び出されたのだと言う。場所はルイスと奏が出会った、あの喫茶店だ。
間接照明が薄暗く店内を照らすその中で、藤花は樹に見合いの件を打ち明けた。
「あの人は、見合い相手の申し込みを受けたと言ったよ。養父も喜んでいると、笑って」
「樹くん」
咎めるような声が出たのは、樹が藤花の本心に気づかなかったはずがないからだ。
藤花が見合い相手を受入れた? だとしたらそれは養父に配慮してのことに違いない。
彼女の気持ちはずっとただ一人、樹に対して向けられてきたのだ。樹だって、そのことは薄々分かっていたはずだ。
「それで君は、藤花さんに何て応えたんだ」
ルイスの問いに、再び樹が昏く嗤う。
「何って。『そうか』と頷く以外何がある」
「どうして!」
憤りのまま樹の肩を掴む。
一瞬、顔を歪めてから、樹がルイスの手を乱暴に振り払った。
「どうして? じゃあ他にどうすればよかった! あの人が選んだことだ! 俺が口を挟む余地もなく、もう全部決めた後で! この期に及んで何を言えばよかったって言うんだ!」
「そうじゃない」
そうじゃない。樹は何も分かっていない。どう言えば泡に言葉を奪われず、うまく説明できるのか。ルイスが逡巡する間にも、樹は苦しい想いを吐露し続けた。
「あんたに何が分かる。あの人は何よりも、父親を喜ばせることを大事に思っているんだぞ。あの父親は俺の仕事を良く思っていない。そりゃ感謝もしてくれるし、大事な仕事だとも言ってくれる。だけど命を繋ごうとするあの父親にとって、兄夫婦を亡くしたあの父親にとって、常に死の危険と背中合わせの仕事に就く俺は、娘をやるには最悪の相手だ」
それが分かっているから、あの人も俺を選ばないのだ、と樹は呻いた。
「見合い相手と同じ医者で医院も継げるあんたには分からない。あの人は養父の望まないことは絶対にしない。もしそんなことをしたら彼女は一生後悔するだろう。そんな不幸を望めるか」
堪えるように俯いた樹の拳が震えていた。
藤花を思う富士島医院長。養父を思う藤花。藤花を思う樹。ああこの人達は、なんて優しくて、なんて美しくて……なんて悲しいのだろう。
ふと見ると、土間の隅で怯えるようにこちらを見ている奏と目が合った。
その隣には、いつのまに駆けつけていたのか理人の姿も見える。
不安そうに息を詰める奏をかばうように背中に回す理人を見て、ルイスはそっと微笑んだ。




