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「人形姫、症候群?」
聞いたことのない病の名称に、ルイスは眉をひそめた。
不安そうな瞳の奏も、理人を見つめている。
ノートを閉じて、理人がルイスに問いかけた。
「ルイスさんは、まぼろし病の情報をどの階級まで頭に入れていますか」
その言葉に、ルイスはとっさに彼が何を言おうとしているのかを理解した。
まぼろし病の情報は、その質に応じて階級分けをされている。
情報量が比較的多く、信憑性も高い『確かなるもの』。
情報量が乏しく、まぼろし病であるかもしれないが、確証は得られないという『疑わしきもの』。
そして、曖昧な伝聞としてしか記録のない『伝わるもの』の三つだ。
識者達が出会うほとんどの病は、『確かなるもの』の範疇で、外野が症例について暗記を義務づけられているのもここまでである。
九々重は更に『疑わしきもの』の症例を頭に叩き込むというが、『伝わるもの』に関しては、データ上とりあえず残しておいてあるだけ、というのが現状だった。
「僕は、『疑わしきもの』までを……」
ルイスの答えに、理人が笑う。
「それはすごい。本業を持っている外野の人がそこまで知識を深めているのは珍しいです。だけどこの病は、『伝わるもの』の範疇だ」
「まさか」
唾を吞み込んで、ルイスは理人を凝視した。
「君は……『伝わるもの』までの、全ての症例を頭に入れているというのか」
まぼろし病は稀少なだけでなく種類が多い。同じ病でも異なる症状が現れるし、新しい情報は随時更新されていく。
『確かなるもの』だけでも膨大となるその症例を、伝説や噂話といっても過言ではない『伝わるもの』まで覚えているとは、俄には信じられなかった。
「覚えるだけなら誰にでもできますよ」
肩をすくめて、理人は謙遜した。
「人魚姫症候群は、その名から想像できるように近年になって発見されたまぼろし病です。アンデルセンは千八百年代にこの童話を発表したようですが、日本に伝わったのはもっと後だ。一般に浸透するようになったのは更に時を待たなければならなりませんでした。事実、このまぼろし病が囁かれたのも昭和に入ってからのことです」
どんな症例があるかだけではない。その情報がいつ語られたものであるかも記憶している。
圧倒的な知識量の差に、ルイスは言葉もなかった。
理人が頭の中の記録を淀みなく諳んじる。
「愛する人に想いを打ち明けようとすると泡になる。文をしたためようとすると筆の先から泡に蝕まれ、やがて指先に至る」
紡がれた言葉は、自分の症状とぴったり一致していた。
「愛した人のために人間になった人魚姫が、愛を語るための声を取り上げられた人魚姫の物語と重ねたのでしょう。『伝わるもの』の中では比較的具体性のあるものでしたが、その症状があまりにも童話に似ていたことから、信憑性の面で降格されたようです」
「そうか……すでに既存の病だったか」
別の人間の手によって記録されたことのある病だったと知って、ルイスは体中からどっと力が抜けるのを感じた。
意識していたつもりはなかったが、新種の病を発見したかもしれないという自負は思いのほか強かったらしい。
放心するルイスに向かって、理人が力強く言う。
「既存といいますが、存在こそ疑われていた病です。これほど緻密に記された記録があれば、この病は必ず『確かなるもの』となる。しかも識者が書いた記録だ。信憑性は高い。あなたは時代に残る偉業を成した」
知識の化け物みたいな九々重から過ぎる評価をもらって、ルイスは思わず目を細めた。




