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「手伝います」
台所で自分の分の膳を用意していると、奏が追いかけてきた。
一人分なので手は足りているが、せっかくなので後でお茶が淹れられるよう、ポットと湯のみを持ってもらうことにする。
冷たい廊下を二人で並んで歩きながら、ルイスは思いついて奏に尋ねた。
「奏ちゃん。本当は九々重の名前、全部覚えているでしょう」
奏の足が止まって、ルイスを見上げる。黒めがちの瞳はどこまでも澄んで、偽りがなかった。
返事がないのを肯定とみなして、ルイスは根拠を述べた。
「君は、外野を頼る作法を知っていたよね。今更九々重の名前なんか教えようとするくらいだから、あれは理人くんが意図して教えたものではないのだろう。見たのか、聞いたのか、それとも調べたのか。いずれにしても君は、九々重と彼らを取り巻く事柄にずいぶんと詳しい。直系の家の名前くらい、覚えていないはずがないよ」
それに、とルイスは思う。
オチルトリカワは、落星、瑠上、波鳥、路河の名を半分ずつ並べた読み方だ。
落瑠、鳥河。はっきりと覚えていなければ、とっさにこんな組み替えができるはずがない。
小さく息を吐いてから、奏が口を開いた。
「作法は、一度理人がやるのを見たことがあって知っていました。九々重の名前もそう。理人が一度でも口にしたことは、全部覚えている」
白状した奏が、困ったように眉を下げてルイスに乞う。
「理人には言わないで」
「どうして?」
奏の頼みに首を傾げる。
奥の間に続く廊下の先をちらりと眺めると、奏が答えた。
「私の覚えが良いと知ったら、きっと理人は悲しむ」
ルイスを見上げて、奏がちょっと笑う。
「私、外野になりたいんです」
「え?」
唐突な告白に驚いて、ルイスは目を見張った。
「何でまた……」
ルイスの疑問に、奏が再び廊下の向こうに視線を向ける。
「理人がいつか、私から離れていくつもりでいるから」
「まさか」
寂しい思いをさせないために側にいると言った、彼が奏を手放すとは思えなかった。
それでも奏は、定められた未来を信じるような瞳で続けた。
「理人はね、ルイスさん。この特殊な生活を続けることが、私にとって決して良いことではないと信じているんです。今は必要があって側にいるけど、いつか私たちを繋ぐ理由が無くなったら、私を普通の生活に戻したいと望んでいる」
そういえば、とルイスは思い出す。
奏の姓は蒼衣だ。あまりにも理人に近いのでいつのまにか錯覚していたが、奏は九々重に連なる者ではないのだ。家の名を教えられるくらいだから縁者ではなく、なりたいというからには外野でもない。だとしたら、彼女は一体……。
穏やかにさえ聞こえる奏の声が、ルイスの思考を柔らかく遮った。
「理人の側から手を離されたら、私は彼を見失ってしまう。移動し続ける九々重を探して追いかけることは難しいし、彼が本気で関係を断とうと思ったら、あの厄介な一族が簡単に足取りを隠してしまうでしょう。関わったことすらなかったように途切れるんです。そんなのは嫌だ」
冷え込む廊下に立つ奏が、まっすぐにルイスを見据える。
「だから外野になりたいんです。いつの日か理人が困った時に頼ることのできる外野に。もしそんな日が来なかったとしても、外野でいれば知識や研究で間接的に彼を支えることができる」
もう二度と、と奏が一瞬痛みに耐えるような顔をしてから、言った。
「死ぬまで、会えなくても。どこかで繋がっていると信じられる」
それは祈りだ。あまりにも澄んだ思いを打ち明けられて、ルイスは心を打たれた。
「だけど私が外野になりたがっていると知ったら、理人は絶対反対する。そうでなくても、私が余計なことまで一々良く覚えていると分かったら、きっと嫌がる。だから内緒」
ルイスに向けられた奏の瞳が、いたずらっぽく細められる。
そうして再び歩き出した奏の背中を、ルイスは黙って追いかけた。




