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「あ」
指先がペンを弾いて、机の上を転がった。
こつん、と当たったのは木製の菓子皿で、中には樹がわけてくれたみかんが積んである。
顔見知りの商店のおかみさんにもらったとかで、わざわざ袋に詰め直してルイスのもとへ持ってきたのだ。
わけてくれる動機が「美味かったから」というのだから、そういうところが可愛いというか良い奴だな、と思う。
言葉は乱暴だし、女性であろうと男性であろうと扱い方にバリエーションがないので少々荒い印象を受けるが、樹の内面はひどく優しい。ただ、分かりづらい。
最初の頃は、何かと一歩下がって人の影に入ろうとする藤花と、そのことを容赦なく言及する樹は全く最悪の相性だと思ったものだ。
隠れるな。口を噤むな。腹に抱えて消化もでないくせに、何も言わないのは美徳じゃなくて怠慢だ。
言葉が鋭過ぎてルイスが仲裁に入る事もしばしばで、藤花はよく泣いていた。だが。
──あの人を見ていると、心配でおかしくなりそうなんだ。
いつだったか、樹がそう、ルイスに打ち明けた事がある。
──あの人は優しすぎる。周りに配慮ばかりして、そうして自分一人我慢すればことが済むと信じている。でもじゃああの人の気持ちはどうなるんだ。あの人が傷ついたり、こうしたいと望むことは、何一つ拾われないままのか。一体いつまで? これから、ずっと?
悲痛な面持ちで訴えた樹の言葉に、ルイスは頭を殴られたような衝撃を受けた。
自分が今まで当たり前の景色として見ていた藤花の我慢に、樹は疑問をぶつけたのだ。
何が藤花のためになるのか。誰よりも彼女のことを考えていたのは、樹だった。
それからルイスは、あまり樹を止めなくなった。
そうこうするうちに藤花もまた、樹に引っぱられるようにして少しずつ変わっていったのだ。
樹の言葉はきつくて厳しい。だけど絶対に相手を見捨てない。そのことに気がついたのだろう。藤花は樹から目を逸らさなくなった。自分の気持ちも、時間はかかるもののぽつぽつと口に出すようになった。樹はそんな藤花の言葉に、いつも実に根気良く耳を傾けている。
歳が離れていることを引け目に感じているようで、二人が距離を縮めることはなかったが、そでも樹が彼女にどんな想いを抱いているのか、藤花が彼にどんな風に惹かれているのか、そんなことは側で二人を見てきたルイスには手に取るように理解できた。
「いっそ……」
口に出して、苦笑する。
いっそ藤花にこの想いを打ち明けてしまえれば。そうしてはっきりと断られてしまったら。どんなに楽だろうかと夢想する。
自分の想いが報われる事はない。だけどせめて言えたら。口にすることができたら。
「──」
すき、だと。
言葉にしたかった想いは声にならなかった。代わりに口から吐き出されたのは、しゃぼん玉に似た大量の泡。ふわふわと漂って、ぱちぱちと消えていく。
負けじと息を吸って、ルイスは声を絞り出そうとした。
愛している。愛おしい。大切に想っている。誰よりも。
紡がれるはずの言葉は、しかしことごとく虹色の泡となって喉から溢れ、消えてしまった。
吐き出される泡と、吐き出す事のできない想いに苦しくなって、ルイスは目尻に涙を溜めた。
これは、愛を語ることの許されない呪いだ。
まぼろし病。この国の人にのみ現れる奇病で、神さまのさわり。
ルイスはまぎれもなく、その病の患者であった。




