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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
人魚姫症候群
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 卓上ランプを灯して文机の上に和綴じのノートを乗せる。もうすぐ日付が変わろうとするのを壁時計で確認してから、ルイスは畳の上にあぐらをかいて座った。


 自室にしている部屋と子ども達がいる奥の間は、襖一枚で仕切られているだけだ。異変があればすぐに気づく事ができる。


 そっと瞼を閉じて、ルイスはしばし、夜の静けさに身を浸した。


 あの後、ぐっすりと眠った二人の子どもは一度も目を覚まさなかった。食事もとらず、薬も飲まず、ひたすら昏々と眠り続けている。

 何度か起こすべきかと悩んだのだが、やがて穏やかになっていく呼吸を見て無理に起こすのをやめたのだ。


 風邪自体は大したものではないから、おそらく寝不足が状態を悪化させていたのだろう。

 お互いを思うあまりに無理を溜めた構図を思って、ルイスは苦笑しながら目を開いた。


 筆立てからペンを抜いて、指先でくるりと回転させる。


 虫も鳴かない冬の夜は、しんしんと冷え込むばかりで少し物寂しい。

 卓上ランプの灯りが、ほんのり暖かく感じられた。


 貿易商の父とオリエンタル趣味のあった母の間に産まれたルイスは、物心ついた時から極東の国、日本に強い興味と憧れを抱いていた。


 特に古い文化の残る地方に興味があって、だから念願かなってこの地の大学に入れる事になった時は飛び上がるほど喜んだ。


 自国を離れて実際に暮らしてみると、日本の風土はルイスの肌によくあった。

 湿度を含む空気も、山から吹き下ろす風も、はっきりと季節を刻む四季の変化も好ましかったし、人々の微笑みや、やや大人しい声の出し方など、表に出さない気遣いも愛おしかった。


 もともとこちらに住み着くつもりでいたので、小さくても地元の医院に勤められたことは僥倖だった。


 就職と同時に国籍も取得した。

 これにはさすがの両親も驚いた様子で、ルイスは一時、帰国を迫られたほどだ。


 ペンを弄びながらその時のことを思い出して、ルイスはくすりと口の端で笑った。

 驚き、慌てた両親が、それでも最後には自分を許す事をルイスは知っていた。今までだって息子が本当に望んだ道については阻む事をしなかった人たちだ。これからだってそうだろう。


 日本人になるのに弊害があるとしたら、それは両親ではありえなかった。

 壁となるのは、むしろこの国の側にある。

 先入観。と、いうよりは本能に似た反応か。


 目だ。彼らの眼差しこそが、日本人と外国人を明確に分けているのだ。

 実際、帰化した後もルイスを取り巻く環境はそれまでとなんら変わりはなかった。


 どんなにこの国に詳しくなっても、どんなにこの国の言葉を流暢に話せるようになっても、「外国人なのにすごい」と思われるばかりで日本人とは見なされなかった。

 日本人だと主張しても笑って流される程度で、次に会う時には相手はそのことを忘れていた。


 見た目があまりにも違いすぎるのだ。 

 この国の人たちにとって「日本人」とは、国籍を有した人を指すのではなく、日本人の容姿を持つ人のことを指していた。

 帰化に際して和名も取得ていたが、何度名乗っても人々はその名前を覚えてはくれなかった。


 藤花は、とルイスは回想する。


 彼女ははそんな人々の中で、唯一、ルイスの和名を覚えてくれた人だった。

 医者の少ない片田舎では、かかる病院も限られる。学生の頃から何かと世話になるうち、医院を手伝う愛娘と知り合うのは自然の成り行きだった。


 引っ込み思案の藤花は聞き手に回る事が多く、よく年寄りに摑まってはにこにこと話し相手になっていた。ルイスの言葉にも興味深く聞き入ってくれて、帰化したいと打ち明けたのも、実は彼女が最初であった。


 帰化後の名前も一度で覚えてくれた。それを口にしないのは、ルイスがそう望んだからだ。

 注目されることを苦痛とする藤花が、ルイスの和名を口にする度、奇異の目に晒される。

 それが気の毒で、たまらなかったのだ。


 ──名前を覚えてくれてありがとう。その優しさを誰にも内緒にして僕にだけにちょうだい。


 ルイスがそう言うと、藤花はほっとした様子で少し泣いた。

 それ以来、問われない限り和名を口にする事はなくなった。


 一人でも名前を覚えていてくれる人がいるならそれでいい。藤花が覚えていてくれるなら他に望むことはない。そう思うようになったのだ。


 その頃からゆっくりと、しかし確実に、ルイスの藤花に向かう気持ちは色を持ち始めたように思う。そして同時に、彼女が何に縛られているのかも知るようになった。


 知っていながら踏み込めず、何年もそのままにしているうちに、やがて樹が現れたのだ。


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