背後から撃たれた女スパイと村人
私の名前はエヴァ。ある国の諜報機関に十年仕えた、女スパイだった。
その十年は、漫画の中で、後ろ姿の一コマだけで終わった。
バトルロワイヤルが始まって五日目の朝、霧の中で、私は同じ男を三度見失っていた。
港湾エリア。コンテナの山と、錆びたクレーン。朝霧が地面を這って、五メートル先も白い。その白の中を、男はまっすぐこちらへ歩いてくる。
継ぎ接ぎだらけの麻の服。手には、港の倉庫で拾ったらしい、大きなスコップ。どこにでもいる農夫の顔だ。
私はコンテナの陰から、ナイフを逆手に構えた。港の用品店で見つけた、ダイビング用だ。武器は現地調達。そう言われた以上、スパイらしく、音の出ないものを選んだ。大小二本あったので、両方いただいた。大きい方は腰に、小さい方は右の袖に。
スパイは、一つだけの武器を信用しすぎない。
瞬きをした。男が、消えていた。
また、だ。霧のせいじゃない。見ていたはずの視線を、すっと外された感触が残っている。まさか、あんな農民風情に、エリート諜報員だった私が苦戦するなんて。
「右だ、エヴァ。……ニャ」
肩の上で、黒猫が低く囁いた。トレンチコートを着た、二十センチの猫。スパイ漫画『影のカナリア』の公式マスコット、シャドにゃん。全十二巻、アニメ化済み。ダンディな声のくせに、語尾の「ニャ」だけは作中の決まりで外せないらしい。
「その『ニャ』、必要?」
「ファンが怒る。……ニャ」
右。身を沈めた頭上を、スコップの刃先がかすめた。コンテナに食い込み、金属が悲鳴を上げる。刃の向こうに、男の顔があった。目が合うと、男は「げっ」と顔をしかめた。
「今のを避けるのかよ」
動きは大したことない。所詮は一般人の動きだった。
私はナイフで斬り返す。だが、柄の長いスコップの間合いには届かない。男は一歩下がって、また霧に溶けた。
「リーチが違いすぎる。……ニャ」
「分かってるわ」
この消失のあと、私はようやく規則に気づいた。見失うのは、決まって私がこう思った直後だ。
――ただの村人、一般人。
観察する者は、無意識に相手を格付けする。脅威、標的、背景。そして背景と判断した者を、目は勝手に視界から外す。
確かめるため、一度だけ、わざと思ってみた。大したことのない相手だ、と。霧の向こうで、男の輪郭がすっと薄れた。すぐに思い直す。これは、私を殺しうる相手だ、と。輪郭が戻った。
「シャドにゃん。あいつの能力は、たぶん『存在感を消す』こと。私が侮った瞬間にだけ消える」
「ずいぶん危ない実験をする……ニャ」
「確認しない方が危ないわ」
スコップが、地面を打った。霧の中に、男が立っている。今度ははっきり見えていた。
「……気づくの、早ぇな。頭もキレるし、動きも鋭い。こんな人でも、物語の中じゃ瞬殺されることがあるんだな。あんた、名前はなんて言うんだ?」
「私はエヴァ。あなたは……?」
「作中じゃ村人D。……って書かれてたらしいがな。本当はオットーってんだ。オットー・ベック。小麦畑と、嫁と、娘が二人いた。物語には一切出てこなかったから、誰も知らないけどな」
男は、スコップの先で頭を掻いた。
「鍬が欲しかったんだがな。この街の倉庫には、これしかなかった」
「あなた、セリフはあったの?」
「『ま、魔物だー!』って一コマ目で言って、二コマ目で食われた」
「典型的なモブのセリフね」
「言うな」
「落ち着いてオットー、かぶ」
男の肩の上で、蕪を模した緑の生き物が、頬をペチペチと叩く。
「僕は農業漫画『カブ農家のヒロシ』公式マスコット、かぶりんかぶ。全二巻、人気がなくて、打ち切りになった作品かぶ」
「自分で言うなよ、それ」
オットーがツッコミを入れる。
「オットー、接近戦は不利かぶ。一回離れるかぶ」
「わかってる」
男は小声で応え、じりじりと後退りした。
実際の戦いは、私の劣勢だった。
大きい方のナイフでスコップを受けるたび、腕が痺れる。柄が脇腹に入り、光の粒子が煙のように漏れ出した。アニマ。この世界での血のようなものらしい。
私が使える武器は、ナイフだけではない。
与えられた特殊能力は【囁きの偽り(ライズ・アンド・トゥルース)】。
相手の耳から十五センチ以内で囁いた言葉を、どんな嘘でも、五秒間、本気で真実だと信じ込ませる。
強力だ。ただし、条件が重い。
十五センチ。握手より近く、口づけより遠い距離。
スパイは、基本的に人に近づかない。近づかれたら、嘘は呼吸でバレるからだ。何より、姿が知られたスパイは、もはや活動ができなくなる。
十年、私は誰にも十五センチ以内へ踏み込まなかったし、誰も踏み込ませなかった。
たった一人を除いて。
「エヴァ。距離を詰める気はあるのか……ニャ」
「私から詰める気はないわ。この男は、間合いに入れさせてくれない。だから能力は使わないで、元々の戦闘能力の差で勝つ。もしくは、相手から私の能力の間合いに入らせる」
様々な訓練を受けてきた。実際に戦闘になることは少なかったが、格闘訓練では男性を含めても常に上位だった。
これぐらいの農夫なら、能力なんかなくても簡単に……。
そう思った瞬間に、オットーの姿が薄れていく。
まずい、まずい。侮ったら負ける。こいつには、常に警戒を怠ってはならない。
そう思うと、オットーの姿が再び浮かび上がってきた。
オットーは私のナイフの間合いの外からスコップで突き、私が一歩進めば一歩下がった。
オットーにもう一歩踏み込ませて、能力の間合いに引き込もうと、自然と隙を作る。
しかし、オットーは逆に一歩下がり、スコップを肩に担いで言った。
「さっきから、俺に距離を詰めさせようとしてるな。こんなに訓練されてる人を相手に、俺がここまで攻め込めるはずがない。なんかありそうだなぁ」
背筋が冷えた。
「俺は見てるだけの人生だった。村が魔物に襲われたときも、誰が先に逃げて、誰が先に食われるかを一番後ろで見てた。だから分かる。あんた、人を騙す側の人間だ」
「外れよ」
「そうかい。でも、何か近寄らせたい理由があるんだろ。なら、逆に離れてやる」
読まれている。彼にとって私は、最悪の天敵だった。
ただの農夫にこんな読みができるものなのか?
武器のリーチの差は、モロに戦闘に影響を及ぼした。
オットーの攻撃はなんてことないスピード。振りもそんなに鋭くないし、戦闘の素人丸出し。
だけど、その攻撃が無意識に、私にオットーを侮らせる。その度に、オットーの身体は一瞬透けてゆき、次の攻撃を避け切れずに受けてしまう。
肩口、脇腹、太もも。傷が増え、アニマが漏れ出してゆく。膝が折れ、私はコンテナの壁にもたれ込んだ。
「エヴァ。もうやめておけ……ニャ」
シャドにゃんが、肩の上で低く言った。
「あの男は、相性が悪すぎる。一度引け。エヴァはエリートだったからこそ、どう意識しても、心の底で侮ってしまう……ニャ」
「……いえ。ここで終わらせるわ。スパイはね、自分の姿を見た相手は、消さなきゃいけないの」
私は、ゆっくりと大きいナイフを床に置いた。鞘ごと、彼の方へ蹴り出す。
「何の真似だ」
「最後に、話を聞いて。命乞いじゃない」
声を、落とした。
「私は前世、国のスパイだった。ある日、情報漏洩を疑われた。私じゃない。でも、一番秘密を知っていたのは私だった。それだけの理由で、私は殺された」
オットーは黙っている。スコップの柄を握る親指が、なぞって止まった。聞いている。
「私を殺したのは、十年一緒に動いた仲間だった。ヴィクトルという男よ。いや、仲間以上の仲だった。前の晩、彼は私の耳元で言ったの。『後ろは任せろ』って」
語りながら、あの夜が、瞼の裏に浮かんだ。
一コマ目。安宿の窓辺。
雨に濡れた窓を背に、ヴィクトルが私の耳へ唇を寄せる。「後ろは任せろ。お前は前だけ見ていろ」。吐息が、耳に触れた。
二コマ目。翌朝、廃倉庫へ続く鉄階段。
先を歩く私。一段後ろに、彼。「今日で全部終わるわね」と言うと、彼は「ああ」とだけ答えた。
三コマ目。階段の踊り場。
私が振り返ろうとした瞬間、背中の真ん中に、氷の針を刺されたような冷たさが走った。遅れて、乾いた銃声。
四コマ目。倒れた私の視界の端で、ヴィクトルが銃を懐へしまう。腕時計に目を落として、一言だけ呟いた。「予定通りだ」。
彼は、一度も、私の顔を見なかった。
「私は彼の言葉を信じた。耳元の声は、一番信じてしまうのよ。次の日、私は後ろから撃たれて、四コマで終わった」
嘘は、ひとつもなかった。だから、言葉は彼の胸に届いたのだと思う。
「……そうか」
オットーが、低い声で言った。
「俺も、誰にも見られねぇまま終わった」
スコップの先が、ゆっくりと下がる。彼はこちらへ歩いてきた。一歩、二歩。倒れ込んだ私の前で、足を止める。
「辛かったろう」
「でも、ここに集められた全員が、同じような悲しみを背負ってる」
「あぁ。そうだな」
「せめて、最後に私の人生を、誰かに知って欲しかった」
「うんうん。わかるぞ、その気持ち」
「私の負けだわ。早くトドメを刺してちょうだい」
「もう、立てねぇか……」
「ええ。……ごめんなさい、オットー。声が出なくなってきて……私ね……」
初めて、彼の名前を呼んだ。
オットーの目が、わずかに見開かれた。名前を呼ばれたのは、いつぶりだったのだろう。警戒が、ふっとほどけた。
「聞こえねぇ。……もう一回、言ってくれ」
彼が、膝をついた。私の顔の高さに、彼の頭がある。十五センチ。耳の位置。
十年ぶりに、私を殺した彼以外の人間が、私の間合いにいた。
胸が、ひどく痛んだ。それでも、私は唇を寄せた。
「私は、今から、あなたの右脇を刺すわ」
囁いた。彼の肩が、びくりと跳ねた。
「おめぇ、やっぱり演技かっ」
オットーの目が、右脇腹へ流れる。腰を引き、スコップを右に構え直す。彼は、私が右脇を刺すと、信じていた。
私は、右の袖から、小さなナイフを抜いた。大きい方を捨てて見せたのは、このためだ。
刃は、彼の左脇腹に、吸い込まれた。
アニマが、大量に噴き出した。オットーの目が、ゆっくりと見開かれる。
「な……右脇、って……」
「ええ、言ったわ」
彼は、私を見て、笑った。
「ああ。……疑ってたはず、だったんだがな」
膝が崩れる。私は思わず、その肩を支えていた。
「耳元で言われたら、信じちまうもんだな。あんた、嘘、うめぇよ」
「ごめんなさい」
「いいよ。……あんた、最初から最後まで、俺を『見て』くれてた」
オットーの全身の輪郭が、光の粒に変わっていく。
「それだけで、悪くなかった。……あんた、俺の名前、呼んでくれたな」
「ええ」
「それだけで、十分だ」
最後の言葉は、風に溶け、彼は光となって消えた。
霧が晴れていく。彼がいた場所には、スコップと、小さな蕪が転がっていた。かぶりんもまた、光になって消えていた。
どこからか、感情のない声が降ってきた。
『一名脱落。村人D』
「……違うわ」
思わず、声が出た。
「彼は、オットー・ベックよ」
「エヴァ…」
シャドにゃんが、静かに言った。
「参加者を倒したエヴァに大事なお知らせがあるニャ」
「あとにしてちょうだい。今はそんな事務的な話をする気分じゃないの」
「泣いているのか。……ニャ」
「霧よ……」
少しの沈黙のあと、彼は言った。
「あの男は、記憶を失って、また別のモブになるのかニャ?」
「ええ、そうなんでしょ。それがここのルールだから」
「あの人に名前があったことを知っているのは、今はエヴァだけニャ」
「……えぇ、忘れないわ」
根拠のない言葉だった。それでも、口にせずにはいられなかった。
十五センチ。十年ぶりに、誰かに近づいた。その相手を、私は殺した。
前世、私を撃ったヴィクトルを思い出す。耳元で囁いて、背中を撃った。私も、彼も、やったことは同じだ。
ただ、あの人は私を撃った後、私の方を見向きもせずに、何事もなかったように腕時計を見た。私は、まだ胸が痛い。それだけが、違う。
それでも。
私は顔を上げた。勝ち残る。主役になる。そのために、私はここにいる。
「行きましょう、シャドにゃん」
「ああ……ニャ」
霧の晴れた港に、朝日が差し込んでいた。




