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Rabbit-foot  作者: 広井新
5. Rabbit-foot
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4

 そいつは、ひたすら壁にボールを当てそれを素手で取っていた。校内で野球ボールを使うことは禁止されていた。だから、この学校の生徒じゃないと思い、何をしているのかと躊躇なく声をかけた。不審者だったら先生に知らせないといけないから。だけど、そいつは無視してそれを投げ続けた。

 訊いているのか。ついムカついてそいつに近寄った。当時、俺は学級委員長をやっていた。クラスのみんなは俺の言うことに大体従う。静かにしろと言えば口を閉じたし、話しかけて無視されたことなんて一度もなかった。

 手を伸ばせば腕に手が届く。それぐらい距離を詰めた。するとそいつは体を正面に向け、持っていたボールを思いっきりぶつけてきた。

 とっさに右腕で防御をした。球は軟式だったし、思ったほどスピードが出ていなかったから大事には至らなかった。

 急に危ないだろ。そう注意すると、地面に目線を落として呟いた。

「何だ、平気なのか。やっぱこれじゃダメだな」

 平坦で冷たい声色だった。謝りもせず、弁明もしなかった。ただ呆然とする俺の横を通り過ぎ、転がったボールを取りに行った。俺はどういう意味だと問いかけた。「別に」と、短く答えて立ち去ろうとしたから、今度は背後から近づき咄嗟にフードを掴んで引っ張った。

「触んな!」

 やつは俺の手首を掴み返してきた。そこで、俺は日光に晒された素顔を見ることができた。

 目が、変だ。

 それがやつの……巴海沙の印象だった。薄く緑がかった、光のない虚ろな瞳。顔立ちが日本人離れしていた。同年代の風貌をしているのに、生きている世界が丸っきり違うかのような空気を放っている。実際、俺の勘は正しかったんだろう。フードを引っ張った時、うなじ部分の皮膚が赤くただれていたのを目にした。親による虐待か、あるいはいじめによるものか。最悪の環境にいるということは、小学生の自分でも理解できた。だからといって、彼を助けたいとかそういった感情はなかった。あいつ自身が助けを拒んでいた。

 やつはひと言、「俺がここにいたこと、誰にも言うんじゃねぇぞ」と吐き捨て、走り去った。

 校庭に戻ってさっきあったことを伝えると、ある友人が色々と教えてくれた。名前は巴海沙。同じ学年で、だけど不登校中の生徒であること。イジメが原因でグレてしまったこと。不良グループとつるんで良からぬことをしているという噂話まで。巴という名前には聞き覚えがあった。ただ、顔は知らなかった。早い段階で学校へ来なくなっていたから、名前しか知らないという生徒も多くいたらしい。

 何にせよ俺には関係のないことだ。忘れるのに時間はかからないだろう。

 だけど、現実は正反対だった。一生忘れられないものとなって刻まれたんだ。

 何のことか分かるだろ? P駅無差別殺傷事件だ。

 ここからは叔母から聞いた話になる。少年はナイフを振り回し、見境なしに人を襲っていた。そして、運悪く近くにいた叔母を標的にし、ナイフを振り下ろした。だけど、近くにいた男性がやつに体当たりをしてふっとばしたんだ。その隙に叔母は逃げ、なんとか危機を脱することができた。

 よっぽど正義感が強かったのだろう。その男性は、ナイフを取り上げようともみ合いになった。だけど、周りの誰も男性に加担しようとしなかった。大人が子どもに負けるわけがないと思っていたのではないか。後に彼女は語った。その通り、力比べでは圧倒的に不利だった。やつが態勢を崩し、手からナイフがこぼれ落ちた。

 決着がついた。

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