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Rabbit-foot  作者: 広井新
3. No man is born wise. ——大鼻勝矢——
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2

 女性社員の呂律は回っていなかった。飲み干したビールの横にロックグラスが置かれている。底に琥珀色の液体が薄っすらと溜まっていた。

「え? えぇ、まぁ。一、二回は……」

「ふーん。興味あるならひき逃げ関連の動画、見返しておいた方がいいかもねぇ。なんだか面白いことになりそうなんだ。なんでも、犯人らしき人を特定したんだってぇ。さっき予告動画上がってたよー」

「犯人を特定……?」

 今の僕は焦りの表情をしていないだろうか。声のトーンは一定だったか。みんなはこのことを知っているか。特に彼女には悟られないようにしないといけない。小さなことを曲解して大袈裟に話す癖があるからだ。些細な変化を悟られ、勝手に解釈したことを広められては困ってしまう。

「まさか、眉唾ものでしょ。ただの素人がどうやって犯人を特定したんだ?」

「そんなこと知りませんよ。とにかくー、気になるなら明後日の配信を観るしかないですねぇ」

 黒髪の短髪に痩せた頬。自身の正しさを理解しようとしない人々へ恨みを示すかのように正面を睨みつけていた。

 熊猫氏の経歴を調べてみたところ、過去に盗撮や付きまといを繰り返し迷惑防止条例違反で逮捕されていた。本人曰く、「容疑を確かめるためにやったことだ」と。悪質だったのは、モザイク加工をせず、証拠も無しに痴漢容疑をふっかけたことだった。当時、動画はリアルタイム放送されており、今その動画は削除されている。

 もし、熊猫氏が本当にひき逃げ犯たちを特定できたのなら、僕たちは楽になれる。一方で、無実の人の人生を荒らしておきながら、彼を正義のヒーローとして崇めるファンが出てくるだろう。懸念点は他にもある。特定されたのが僕たちだったら?

 同じようにモザイクなしで顔を晒され、人生を終わらされるのか。

 周囲の笑い声が遠く聞こえる。幸い、隣の女性社員はトイレに立ったようだ。

 そういえばと思い出す。伊吹が財布を落としていたということを。熊猫氏がひき逃げ現場でそれを拾ったのなら、どんな妄言を吐くか分からない。今のところ「怪しい男が接触してきた」などという連絡はきていないが、帰ったら真っ先に確認を取らなければ。

「えー、では八時を回りましたので忘年会はこれにて終了しますか。今年も残り少ないですが、頑張りましょう!」

 リーダーが立ち上がり、全員に呼びかけた。テーブルを埋め尽くしていた料理は、どれも半分以上残されていた。

「ちなみに二次会行く人いるー?」

「はいはーい! 行きまぁす!」

 顔を真っ赤にした女性社員が真っ先に手を挙げた。

 僕は氷で薄まったウーロン茶を飲み干し、テーブルについた水滴をおしぼりで拭う。未来のことを心配しても答えは出ない。

「僕はこれで帰ります。お疲れ様でした」

 早く帰宅して、熊猫氏の件をみんなに伝えないといけない。

「えー、大鼻くん帰っちゃうのー」

「はい。では先を急ぐので」

「冷たいなー」と背後に聞こえた声を無視し、居酒屋を後にした。

 店から自宅マンションまでは徒歩で行ける距離にある。普段食べない量を食べたせいか、歩くたびに胃の中のものが混ざる。

 飲食店街を抜け、高層マンションが立ち並ぶ住宅エリアに入れば、街の喧騒はたちまち聞こえなくなる。リュックから鍵を取り出した。暖かみのあるオレンジのポーチライトの前を通り過ぎて、安っぽく光る白い照明の下に入った。ダイヤルを回し郵便受けの中を確認する。数枚のチラシ全てに軽く目を通し、管理会社が設置したゴミ箱へ捨てた。そこには、僕が捨てたチラシと同じものが丸められたり、半分に折られた状態で他のゴミと混じっていた。心臓が大きく膨らみ、息は鼻からゆっくり漏れる。同時に肩の力が抜けた。周りと一緒の状況にあることは、僕は依然としてモブでいられているということだ。

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