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てっきり母も知っているものだと思い、昨日あったことを共有していなかった。
「え、聞いていないの? お父さんが来るから。大事な話があるんだって」
「はぁ?」
母は眉間に皺をよせ、露骨に嫌そうな顔をした。なぜもっと早く言わないんだと、母に咎められている間に、アパートのインターフォンが鳴った。
「どうするの! 来ちゃったじゃない」
「どうするって……」
「おーい。いるんだろ? 開けろよー」
ドア越しに父の声がした。「あぁもう!」と内鍵を外さず、「今更何の用? 娘は渡さないからね」と。
「邪険にするなよ。とりあえずここ開けて、中で話そうや」
「話は終わり。さっさと帰って」
「嗣乃はこっちで育てる。だから開けろって」
やっぱりそれが目的だったのか。父と一緒に暮らすとなれば、また引っ越して新しい学校に馴染まなければいけない。
離婚してから七年が経つ。なぜ今更引き取ると言い出したのだろう。ずっと私のことを心配していたなら、大切に思ってくれているのなら、どんな手段を使ってでも会いに来てほしかった。
「だから嗣乃は渡さないってば。いい加減諦めてよ!」
「百万用意してきた。これと嗣乃を引き換えにどうだ?」
心臓が早鐘を打つ。母はもちろん断ってくれる。責任を持って育てるって言ってくれる。私は母に愛されているのだからと、純粋に信じていたかった。
「……そこまで言うなら」
キーンと耳の奥で音がした。
気づけばドアが開かれていて、母は父が差しだした茶色い封筒を手に取っていた。
「お母……さん……?」
「悪く思わないでよね、嗣乃。私だって、限界なんだから」
転校の話は着々と進んでいたが、同級生たちには伝えていなかった。伝える必要はないし、特段相手もいなかったから。
週明けの放課後。私はグラウンドに錆びたハードルを並べていた。上級生たちが来る前に、下級生たちは必要な道具を準備しなければいけないという暗黙のルールがあった。この馬鹿らしいルールからも、もうじき解放される。なのに、これから住む新たな土地のことを考えるだけで気分が落ち込んだ。
ハードルを全て並べ終え、グラウンドを見渡す。まだ全ての器具は用意されていなかった。ため息をつき渋々用具室へ向かう。すると、途中で手ぶらの同級生が私の元へやってきた。
「ねぇ、なんで土曜日休んだの?」
「なんでって……体調が悪かったから」
「ふーん。そんなことよりさ、副部長が部室まで来いって。今すぐ」
「え、どうして……」
「知らないよ。部活休んだからじゃないの?」
副部長……。なぜか女子人気が高くて、気に入られた女子部員は彼のことを優しいだの好きだのと言う。私からすれば相手を見下したり、ナルシストな言動だったりでかなり苦手意識があったから、なるべく関わらないでいた。だけど、ふたつ上の先輩から呼び出されれば怖くて無視できない。
同級生は「ちゃんと伝えたからね」とだけ言って手伝いもせず去っていった。
部室は校舎の影に隠れており、部活終了時刻まで人影が無くなる。さらに、三年生のたまり場となっている時があるため益々行きたくなくなかった。足を引きずりどうにか辿り着く。「陸上部」の三文字を確認し、ステンレス製の扉をノックする。
「あの……先輩。来ました……」
何回か繰り返したが、返事がない。仕方なくドアノブを回して中を覗く。彼は埃と汗と制汗剤の臭いが充満する部屋の隅にいた。壁にもたれかかって動画を見ているようだった。私に気づいていないのか、無視をしているのか。念のため「あの……先輩」と声をかける。すると「おー」と、まるでやる気のない返事をしてきた。
蛍光灯が切れかかっている部屋は、靴を脱いで上がらないといけなかった。それがイヤだったから、入り口に立ったまま訊く。
「あの、用って……」
「あぁ。ちょっとこっち来て」
「ここじゃいけませんか?」
「いいから来い!」
先輩に逆らうのか。鋭い目線を向ける。
諦めて靴を脱いだ。軋む床をゆっくり歩く。そして、先輩の体の真横に着くと、彼は私の手首を掴み勢いよく引っ張った。
「痛!」




