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「うん。考えておく」
彼は私の太ももの上に手を置き、体格に合わない細い指でゆっくりと撫でた。彼は行為の対価とは別に生活費まで面倒を見てくれると言ってくれた。向こうからすれば従順な若い女性を傍に置いておきたいだけなのだろう。若いと言ってもアラサーなのだが。
「そうだ、ワインでも飲む?」
思いついたように立ち上がる。
「いや、いいよ」
「遠慮しなくていいよ。飲みなって。飲めば気分も晴れるしさ」
「……うん。じゃあそうする」
満足そうに、用意されていたワイングラスにそれを注いだ。ここは無理してでも飲まないと機嫌を損ねてしまう。
グラスを受り取り、香りを嗅ぐ。彼曰く、「重厚で成熟した香り」をしているらしいが、どれも大して変わらない。液体を口に含むと果実の渋みが滑らかに広がった。
「SNSの噂に興味ない」と言っていたが、どこまで調べたのだろうか。ネット上では私の素性を大げさに肉付けし、肥大化したもうひとりの私の話題で持ちきりだ。
——被害者が亡くなっているのに、自分たちはのうのうと生きていることに憤りを感じる。犯人もそうだけど、時効まで黙っていた目撃者たちにも制裁が必要。
この投稿が目についた時、少しだけ自分の行動を後悔した。まさか時効寸前まで犯人たちが逃亡できるとは思いもしなかった。ただ、謝罪するかどうかは別問題だ。謝罪すれば多くの人たちは満たされるかもしれないが、過去に戻ることはできない。だからしたい人だけすればいい。何より、私たちはひき逃げ犯ではない。
「マリアちゃん。俺さ、マリアちゃんが好きだよ。本気かも」
アルコールが入ると退屈な長話の末に必ず肉体関係を迫ってくる。いつもより声を高くして甘えるように寄りかかってきた。首筋や鎖骨に唇を充て熱のこもった息を耳に吹きかけている。
「マリアちゃん……。場所、移動しよっか……」
「うん……」
本名で呼ばない辺り本気じゃないに決まっている。
こんな状況で抱こうとする彼もそれに応える私も、SNSで誹謗する人たちと同じ穴のムジナだ。自分がロクな人間ではないことが、決定的に分かったのは……父と住むようになってからだったかな。それとも、もう少し前だったかな。
▽▲
「今日の晩ご飯は自分で何とかしなさいよ。朝まで帰ってこないからね」
ドレッサーの前に座り、母はファンデーションの粉を大量に顔に押し付けながら言った。私は返事のつもりでドサッとランドセルを置く。地味で控えめだった母が髪を明るく染め始めたのは、夜の仕事に就き始めたからだ。
小学生低学年の頃、両親が離婚した。主な原因は父の浮気。父は定職には就いていたが女癖がひどかった。入籍の前日まで別の女性と遊んでいたらしく、にも関わらず、なぜか母は結婚を受け入れた。
父との楽しい思い出はない。そもそも月の半分は家にいなかった。家族三人で出かけることも、父が学校行事に参加することもなく、私より優先する人がいるという事実にうっすら気づいていた。
母に引き取られ、引っ越した先は築三十年の木造アパート。狭くて学校から遠い最悪の場所。外壁のクリーム色のペンキは所々剥がれ落ち、駐車場に停められた一台のスポーツカーだけが異様に浮いていた。身寄りのいないこの場所を選んだのは、以前住んでいた県より最低賃金が高かったから。




