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二年前の決断は間違っていなかったという意見は変わらない。嗣乃の発言は気になるけれど、このまま黙っていることが最善の選択なんだ。
帰宅するため地下鉄の入り口へ向かう。長い階段を降りると、人の波と熱気が押し寄せてきた。勝手が分からない観光客とぶつかりながら改札をくぐる。さらに深いところにあるホームへ降りると、ちょうど電車が到着したところだった。これを逃せば、次の急行を待つのに十分はかかる。
「駆け込み乗車はお止めください」という駅員のアナウンスを無視して、ドアの隙間へ滑り込んだ。人とスーツケースの間を通って、優先席前の空いているスペースへ移動した。
揺れがひどく、つり革に掴まる。だけど、カーブに差しかかったところで足がもつれ、隣の人へ肘がぶつかってしまった。
「すみません」と、軽く謝る。するとその女性は「あれ? 耳塚くん?」と。黒髪のロングヘアに黒いマスクをした低身長の女性がこちらを見上げている。
「えっと……」
「やっぱり、耳塚くんでしょ」
マスクを顎まで下げ、はっきりと俺の名字を呼んだ。だけど、こっちは彼女が誰なのか分かっていない。
「ほら、私だよ。演劇サークルで一緒だった灰島だよ」
「灰島さん」と何度か呟くと、薄っすら記憶が蘇ってきた。サークル内の劇で何度か主演を務めていた子だ。
「え、あの灰島さん? 随分とオシャレしているから分からなかったよ」
正直なところ、名前しか覚えていなかったが、ここは相手に合わせた。
「そうでしょ? 役作りの最中だから、黒染めしてストレートパーマもかけてるの。あ、この目の色はカラコンも入れてるからなんだ」
そう言ってカーキ色の瞳を指差した。同じサークルに属していたものの、嗣乃ほど親しくなっていなかった。それに、良くも悪くも演技が無難だったから印象に残らなかったのかもしれない。
「役作りって、もしかしてドラマに出るの?」
「まさか。劇団には入ってるけど、せいぜい端役しかやらせてもらえてないんだ」
「そっか。ところで、よく俺だって分かったね」
「黒のパンツにTシャツとくれば耳塚くんかなって。横顔もすごく似てたから」
「そうだったんだ。サークルの打ち上げ出てないから、卒業以来だね」
「本当だよ。耳塚くんも来ればよかったのに」
行けるはずがなかった。あの事で頭がいっぱいだったから。
電車はひとつ目の停車駅に停車した。乗車してくる人に奥まで追いやられる。電車内はさらに蒸し暑くなった。アンダーシャツにジワリと汗が滲む。
灰島さんは両手の親指を素早く動かし、スマートフォンを操作していた。体幹を鍛えているのか、ちょっとの揺れでは微動だにしない。
ガタン、ともう一度大きな揺れが起きた。
「あの時、古味山さんと一緒にいたの?」
古味山……嗣乃のことか。
「えっと、何の事?」
突然嗣乃のことを訊かれ、動揺してしまった。あの時っていつだ。もしかして……。いいや、考えすぎだ。
「一瞬ね、噂になったの」
悟られないように、俺はスマホに目を向けたまま次の言葉を待った。
「古味山と耳塚くんが、付き合ってるんじゃないかって」
「え?」
予想外のセリフに、思わず顔を上げた。灰島さんはいたずらっぽく微笑んでいる。
「ねぇ、耳塚くんのSNSアカウント教えてくれない? フォローしたいんだ。せっかく会えたんだからさ」
「い、いいけど、ほとんど更新しないよ」
「大丈夫だよ。あ、けど、もし私が舞台に出演するってなったら観にきてよ」
彼女が何を考え、何を掴んでいるのか分からない。ここで断ると怪しまれてしまうだろうか。
「分かった。楽しみにしてるよ」
俺と灰島さんは互いにアカウントを教えあった。
次の停車駅のアナウンスが流れると、座っていた乗客がぞろぞろと立ち始めた。灰島さんも出口の方へ体を向ける。
「私、ここで降りるんだ。耳塚くんは?」
「まだまだ先」
「そう。じゃ、また! ありがとね」
「うん、また」
軽く手を振って窓に向き直る。




