第3話「聖女様は、もう来なくていい」
「今年、聖女様は来られないそうです」
レオンハルト・ノルデンは、書類から顔を上げた。
「……来られない?」
「はい」
執事が答えた。
「今年の聖女巡回は中止となりました」
「延期ではなく?」
「聖女制度が廃止されます」
レオンハルトは窓の外を見た。
冗談ではない。
ノルデン辺境伯領には、王国最大級の魔物の森がある。
問題は、そこから流れ出す瘴気だった。
森を抜けた瘴気が川へ混じり、放置すれば下流の農地や村に被害が出る。
そのため毎年一度、王都から聖女エレノアが派遣されていた。
そして今年は。
「昨日、第三村も取水を止めたばかりだぞ」
「はい」
「今年は例年より二週間も早い」
「はい」
「エレノア様が来られないなら、誰が浄化する?」
「代替要員が派遣されます」
「いつだ?」
「三日後です」
それならまだいい。
レオンハルトは少しだけ息を吐いた。
「何人だ?」
「六人です」
「六人」
「聖術技師二名、神官四名」
レオンハルトは黙った。
「……それで足りるのか?」
「王都は足りると判断したようです」
「エレノア様が一人でやっていた仕事だぞ」
「ですから六人なのでは?」
「そういう問題か?」
「私に聖術のことを聞かれましても」
それもそうだった。
◇
三日後。
王都から六人が到着した。
聖術技師二人。
神官四人。
馬車二台。
それだけだった。
「荷物は?」
「こちらです」
技師が馬車を示した。
「これだけ?」
「はい」
「他の神官は?」
「来ません」
「護衛は?」
「道中だけです。先ほど帰りました」
レオンハルトは不安になった。
国でただ一人の聖女が来るときとは、あまりにも違う。
エレノアなら、一人で川を浄化できる。
去年は南部で疫病が発生し、到着が二週間遅れた。
その二週間。
毎朝、瘴気濃度の報告を待った。
まだか。
まだ大丈夫か。
エレノア様は、いつ来る。
今年はすでに三つの村が取水を止めている。
「すぐ川へ案内する」
「お願いします」
六人を連れて、川へ向かった。
水辺は黒く濁っていた。
去年、エレノアが浄化した場所だ。
「ここだ」
技師二人が水を採取した。
器具を取り出して測定する。
「かなり濃いな」
レオンハルトが言った。
「そうですね」
「すぐ始められるか?」
「はい」
技師が立ち上がった。
「上流を見せてください」
「上流?」
「はい」
「いや」
レオンハルトは黒い川を指した。
「浄化するのはここだぞ」
「分かっています」
「なら、なぜ上流へ行く?」
「発生源を確認します」
「先にここを浄化した方がいいんじゃないのか?」
「また流れてきますよ」
「……」
それはそうだ。
「案内する」
◇
森へ入って一時間。
「ここです」
技師が立ち止まった。
岩の割れ目から、黒い霧が漏れている。
「一か所目」
「一か所目?」
「あと二か所ほどあるはずです」
「分かるのか?」
「川の測定値から、おおよその位置は」
さらに進む。
二か所目。
三か所目。
確かに瘴気が発生していた。
「ここに小型の増幅聖石を設置します」
技師が箱を開けた。
白い石と金属製の器具が入っている。
「ここで浄化するのか?」
「はい」
「川ではなく?」
「川まで流す必要がありますか?」
「……ないな」
「はい」
技師たちはすぐに作業を始めた。
器具を地面へ固定する。
増幅聖石を取り付ける。
神官が聖力を流す。
石が淡く光った。
岩の割れ目から漏れていた黒い霧が、途中で消えた。
レオンハルトは目を瞬いた。
「……止まった?」
「止まりました」
「これで?」
「この場所は終わりです」
「ずっと神官が必要なのか?」
「いいえ。聖石に聖力を補充すれば数日は動きます」
「壊れたら?」
「交換します」
「瘴気が増えたら?」
「聖石を追加します」
「それだけ?」
「それだけです」
レオンハルトは白い石を見た。
毎年。
瘴気が森から流れる。
川へ溜まる。
濃くなる。
危険になる。
そこへエレノアが来る。
一度に全部浄化する。
それが当たり前だった。
「……最初からここで消せばよかったのでは?」
「この聖石が実用化される前は無理でした」
「そうか」
「今はできます」
「そうか……」
◇
翌朝。
「川の濃度が下がっています!」
報告を持ってきた兵士が、執務室へ飛び込んできた。
レオンハルトは立ち上がった。
「どれくらいだ?」
「第二村は取水を再開できます。第三村も今日中には!」
「本当か?」
「はい!」
すぐ川へ向かった。
昨日まで黒く濁っていた水が、明らかに薄くなっている。
上流から新しい瘴気が流れてこない。
残っていた分だけが、川の流れと地元神官の浄化で消えていく。
午後には第二村が取水を再開した。
翌日には第三村も続いた。
三日後。
川から黒い濁りが消えた。
「……終わった?」
「終わりました」
技師が答えた。
「エレノア様なしで?」
「はい」
「来年はどうする?」
「地元神殿で維持してください」
「あなたたちは?」
「来ません」
「王都から誰も?」
「通常なら、誰も」
レオンハルトは川を見た。
去年まで。
瘴気が出る。
溜まる。
聖女を待つ。
今年から。
出たところで止める。
地元で点検する。
壊れたら交換する。
手に負えないときだけ王都へ頼る。
「……聖女様、もう来なくていいじゃないか」
「そのための新制度です」
技師は平然と答えた。
◇
五日後。
技師たちは王都へ帰った。
レオンハルトは執務室で、今年の聖女巡回用予算を見直した。
聖女巡回用の予算は、かなり余った。
「森までの道を直そう」
レオンハルトは地図を広げた。
「聖石の点検に使う。それと地元神殿の近くに詰所を作る」
「承知しました」
執事が記録する。
「簡単になったな」
「はい」
「エレノア様は、もう来なくていいんだな」
「そうなります」
少しだけ寂しかった。
エレノアは毎年来ていた。
初めて会ったのは六年前。
自分より年下なのに、一人で国中を巡っていた。
夕食を一緒に取ったことも何度かある。
穏やかで、よく笑う人だった。
いい人だと思っていた。
ただ。
国でただ一人の聖女だった。
だから、それ以上考えたことはなかった。
「そういえば、退任後のエレノア様は?」
「今後一年間は王家直属の聖術顧問です」
「婚約は?」
「されていません」
レオンハルトは止まった。
エレノア様。二十歳。未婚。
自分。二十三歳。未婚。
ヴァレンティア伯爵家。ノルデン辺境伯家。家格問題なし。
「父上は?」
「執務室です」
レオンハルトは立ち上がった。
◇
「父上。エレノア様のことですが」
「遅い」
「まだ何も言ってません」
「遅い」
「退任されたばかりでしょう」
「だから遅い」
父、ギルベルト辺境伯が一枚の書類を差し出した。
王家直属聖術顧問。
任期一年。
連絡窓口――第二王子アルフォンス殿下。
「……これが?」
「殿下は二十一歳。未婚だ」
「……」
「エレノア様とは十年来の知り合いです」
執事が付け加えた。
「……偶然では?」
父と執事が同時にレオンハルトを見た。
「なんですか」
「お前は辺境に向いているな」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
レオンハルトは書類を見た。
今年から、聖女を待つ必要はなくなった。
どうやら待っていてはいけないものも、あったらしい。




