7.
千咲は、乾いた紙を一枚一枚、板から剥がす。それを見守っているのが蒼井家で働く漉姫たちで、室内には緊張の糸がピンと張り詰めていた。さらに、千咲の様子を間近で見ているのが菫である。
「どうでしょうか……」
千咲が蒼井家に嫁いで初めて漉いた紙。一年以上も使われていなかった漉場に、やっと紙守たちが戻ってきた。
「見事なものね……あなたのような漉姫を手放して、紅梅家も後悔なさっているのでは?」
冗談とも本気ともとれる口調でそう言った菫に「恐縮です」と千咲は頭を下げる。
「こうして蒼井家に新しい漉姫を迎えることができて、誇らしいわ。この腕前であれば、蒼井家の者としてふさわしいでしょう?」
杖をつきながらも、菫はその場にいる紙守たちの顔を一人一人見回しながら訴えた。もちろん反論する者はおらず、パチパチと拍手が湧き起こる。
「そろそろ楮の収穫の時期を迎えますからね。それまでには、冷暗庫を空けておかないといけないわね」
冷暗庫の中にはまだ昨年の楮が残っているから、これを使って紙を漉きましょうという、菫なりの決意のようだった。
「これから忙しくなりますよ」
「今までゆっくりさせていただきましたから」
使用人頭の言葉に、他の者もうんうんと頷く。
「でも、よかったですよ」
漉守の一人が安堵の声を漏らす。
「そろそろ結界に使う楮紙もなくなりそうだったので」
漉守は『邪』の侵入を防ぐため結界を張っているが、稀にその結界をすり抜ける『邪』もいるし、結界内で生まれる『邪』もあった。結界とはいえ万能ではないため、形代によって『邪』を封じるのだ。
しかし蒼井家では、菫が体調を崩してからは、一年前に漉いた紙を用いて結界を張り直していたのだ。どこの家も、万が一、例えば楮の生育不良などに備えて、一年分の紙の在庫を持つようにしており、それでまかなっていた。
「お義母様、お部屋に戻りますか?」
微笑んではいるものの、菫の顔色はあまりよくない。千咲が声をかけると「お願いできるかしら?」と返ってきた。こうやって頼りにされるのは嬉しいもの。
漉姫たちには指示を出し、千咲は菫の身体を支えるようにして漉場を離れる。
「何かあったのか?」
漉場を出ですぐに、どこから姿を現したのか蓮司が声をかけてきた。
「旦那様、どうして、こちらに? 本家の集まりだったのでは?」
「あぁ、終わったから戻ってきた。今日は紙の乾燥が終わると言っていただろう? その出来栄えを確認に来た」
「そうなのですね。乾燥した紙は、お義母様にも確認していただいております。ただ、お義母様がお疲れになられたようなので、お部屋へ送ろうとしていたところです」
「大和」
蓮司が静かに従者の名を呼べば、彼は「はいはい」と呆れたような声を出す。
「奥様。私が大奥様をお部屋までお送りしますので、今は旦那様の相手をしてあげてください」
はい、と返事をしはいいが、千咲はどうしたものかと困惑の表情を浮かべて蓮司を見やる。
「君が漉いた紙が見たい」
「ご案内いたします」
菫を連れて出ていったはずの千咲が蓮司と共に戻ってくれば、漉場内もざわっと緊張が走り、楮を叩いていた音もパタリと止まる。
「手を止める必要はない。様子を見に来ただけだ」
蓮司の声が響き、一瞬、シンと静まった後、トントン、カツカツと楮を叩く音が再び聞こえ始めた。
「できあがった紙はこちらに置いてあります。作業が終わった後、屋敷に運ぶ予定でした」
結界や形代となる紙であるため、蒼井家では屋敷内で厳重に管理されるらしいが、それは一年間、紙を漉けずにいたからだとも言う。貴重な紙を無駄遣いしないようにという理由があるのだとか。
「君が漉いた紙は、これだな?」
いくつか重なっている紙の中から、彼は一番上の紙を手にしたが、確かにそれは千咲が漉いたものである。
しかし紙漉きは、他の漉姫たちも行っていたのだ。乾燥を終えた紙は、何も千咲が漉いたものばかりではない。他の五人の漉姫の紙も混じっているというのに、蓮司は躊躇いもなく千咲が漉いたものを選んだ。
「おわかりになるのですか?」
「あぁ……君が漉いた紙からは特別な力を感じるからな。すぐにわかった」
特別な力と言われても、千咲にはピンとこない。
「琴葉はいるのか?」
「はい。屋敷のほうで、朔也くんと遊んでいるはずです。お義母様も戻られたので、もしかしたらお義母様のお部屋にいるかもしれませんが」
「君が言っていた琴葉の言葉の件だ。『邪』によるものか『呪い』か……そちらの線で疑っている。だが、どちらを封じるにしても君が漉いた紙が必要だと考えていた」
菫が『邪』に侵されていたときも、千咲が漉いた落水紙を形代とし、それで封じたと聞いている。
「わかりました。では、私もそれに立ち合わせてください。旦那様は、琴葉ちゃんの言葉を取り戻そうとしているんですよね?」
千咲は、ゆるぎない決意をまなざしに宿し、蓮司を見上げた。
「私はあの子の母になりました。琴葉ちゃんがもし不安になるようなら、私は少しでもその不安を取り除いてあげたいのです」
蓮司は千咲を見下ろすものの、何も言わない。二人の視線がぶつかり合った後、ふっと軽く息を吐いたのは蓮司だった。
「そうだな。君も一緒にいたほうが、琴葉も安心するだろう。悔しいことに、子どもたちは実父よりも継母にべったりだからな。どうやって子どもたちの心を掴んだのか、教えてほしいくらいだ」
「一緒に紙漉きをしただけですよ。でも朔也くんは漉守だからって、琴葉ちゃんがやっているところを見ていただけですけど」
千咲を見つめる蓮司の目尻が、わずかにやわらいだ感じがした。
それから漉場にいる紙守たちに声をかけ、千咲は蓮司と一緒に屋敷へと戻る。
屋敷にいた使用人に、子どもたちがどこにいるか確認すると、やはり菫の部屋という答えが返ってきた。
「蓮司です、子どもたちはこちらにおりますか?」
部屋に入る前に、障子戸越しに蓮司が声をかけると「父さまだ」と朔也の声が聞こえてきた。
「まったく、おまえたちはすぐにここに来る」
「だって、千咲母さまは紙漉きで忙しいし、おばあさまはあまり部屋から出られないでしょ? 寂しいかなと思って」
「口だけは達者だな」
蓮司が朔也の頭を軽く撫でてから、琴葉を呼んだ。
「琴葉、こちらに来なさい」
菫の隣に座って絵本を読んでもらっていたのだろう。きょとんとした琴葉は、何があるのかとおどおどしながらも蓮司の前に座った。
「千咲母さまの紙で、琴葉の声を取り戻す」
琴葉は状況を理解できていないのか、大きな目をぱちぱちと瞬いた。
「千咲母さまの紙は、おばあさまを助けてくれただろ? だから、琴葉のことも助けてくれるはずだ」
「琴葉、またおしゃべりできるようになるんだよ」
朔也の直球な言い回しで、琴葉もわかったようだ。今度はすがるような目で千咲を見てきた。
「琴葉ちゃん、おいで。抱っこしてあげる。その間、父さまが琴葉ちゃんの声を取り戻してくれるわ。おばあさまもそこにいるし、みんな琴葉ちゃんの味方よ」
千咲が両腕を広げたところ、琴葉がそこにすっぽりとおさまった。
「琴葉、こちらを向きなさい」
蓮司の言葉に従い、琴葉は身体の向きを変えて、千咲の膝の上に座る。だから千咲は、琴葉の身体を後ろから抱きかかえた。
朔也は菫の隣に正座し、背筋を伸ばして事の行く末をじっと見守っている。
「琴葉が動かないよう、しっかり抱きしめていてくれ」
蓮司の言葉に従い、琴葉を抱く腕に力を込めた。
「ふんっ」
蓮司が一枚の楮紙を宙に放り投げると、それはしゅるしゅると人型に姿を変える。
千咲が漉守の術を見たのは初めてである。紙が生き物のように形を変え、宙に浮いているのだ。
形代となった紙は、蓮司の指の動きに合わせて宙を舞い、最後に琴葉の額にピタッと張り付いた。
千咲の心臓は先ほどからドクドクとうるさく動いている。手を組むようにして琴葉を抱いているのも、気を抜けば、彼女を抱く腕からも力が抜けそうだと思ったからだ。何がなんでも、この腕は絶対に離さない。
「あっ……」
朔也が小さく驚きの声をあげると同時に、形代は下のほうからその色を黒く変えていき、最後にじゅっと灰のように散って消えた。
「琴葉、声は出るか?」
穏やかに声をかける蓮司だが、彼の額には玉のような汗が浮かんでいる。
「……とうさま?」
「琴葉!」
いきなり立ち上がった朔也が抱きついてきたから、千咲は子どもたち二人を抱いている形になった。
「にいさま、くるしい……」
「琴葉ちゃん、よかったわねぇ」
菫は涙ぐみ、手巾で目元をおさえる。
「旦那様、やはり琴葉ちゃんは」
「あぁ。誰かに意図的に声を封じられていた。これは『呪い』だ。琴葉に何か言われたら困る人間が、声を出せなく呪いをかけたんだ」
「かあさまよ」
幼い声に、注目が集まる。
「まえのかあさま、おばあさまに『邪』をぽいってなげたの。ことは、それを見ていたから、まえのかあさま。おこったの」
「花純が……?」
それは蓮司の前の妻の名である。
「やっぱりあの人じゃないか。おばあさまを苦しめて、琴葉の言葉を奪って。あの人は何をしたいのさ!」
朔也の悲痛な叫び声が、千咲の耳にこびりついて離れない。




