第74話 接触 ー 高圧水流の攻撃
水深四千二百メートル。
深海潜水艇 《しおなぎ》は、
わずかな振動を伴いながら漆黒の海を降下していた。
窓の外には何も見えない。
探照灯の光は闇に呑み込まれ、
その先は完全な黒だった。
上も下も分からない。
海の中というより、宇宙の虚空を漂っているような感覚だった。
船内には機器の作動音と、時折響く金属の軋みだけが聞こえている。
「深度四千二百五十」
操縦席の高科が計器を確認しながら告げた。
その声音には焦りも緊張もない。
何回も深海へ潜ってきたベテランらしい冷静さだった。
だが、誠には分かっていた。
この艇の外は人間を拒絶する世界だ。
ほんのわずかな損傷が命取りになる。
水圧はすでに四百気圧を超えている。
誠は小さく息を吐いた。
そして目を閉じる。
意識を外へ向ける。
海水の流れ。
微かな地形の変化。
そして海中を移動する人工的な存在。
四つ。
深度三千付近から感じ続けている反応だった。
「どうですか?」
隣の席の由理が尋ねる。
誠は目を開いた。
「まだいる」
「数は変わりませんか?」
「四つだ」
由理の表情がわずかに曇る。
これほどの深海で偶然四つの人工物が存在するはずがない。
誰かが自分たちを追っている。
それだけは間違いなかった。
「位置は?」
「近づいてきているのは二つ」
誠は意識を探りながら言った。
「残り二つはもっと下だな」
「下?」
「ああ」
さらに意識を伸ばす。
深海の底。
遥か下方。
海底近くに二つの反応がある。
移動していないわけではない。
だがこちらへ向かってくる様子もない。
まるで海底付近に留まっているようだった。
高科が前を向いたまま言う。
「先回りしているってことか」
誠は小さくうなずいた。
追ってくる二つ。
海底付近にいる二つ。
その配置に偶然は感じられない。
由理が端末に視線を落とした。
「嫌な予感しかしませんね」
「俺も同感だ」
誠は苦笑する。
だが胸の奥のざわつきは消えない。
むしろ時間が経つほど強くなっていた。
深度はさらに増していく。
四千四百。
四千六百。
四千八百。
《しおなぎ》は静かに沈み続けた。
その間も二つの反応は少しずつ距離を縮めてくる。
慎重に。
だが確実に。
獲物との間合いを計るように。
誠は眉をひそめる。
頭の奥がひどく痛む。
混線が悪化してきていた。
地上の記憶と海底の情報が重なり、一瞬だけ視界の輪郭が揺らぐ。
「誠さん」
由理の声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
「その返事、信用できません」
即答だった。
誠は思わず苦笑する。
「ずいぶんな言われようだな」
「いつもそうですから」
由理は真顔だった。
その様子が少し可笑しい。
だが彼女自身にも余裕はないはずだった。
組んだ指先が微かに震えている。
誠は気づいていた。
震災で家屋の崩壊を経験した由理にとって、
この閉ざされた空間で海底へ沈んでいく状況は決して平気なものではない。
それでも彼女はモニターから目を逸らさない。
任務を全うしようとしている。
その強さには頭が下がる思いだった。
「深度五千」
高科が告げる。
ついに五千メートルへ到達した。
その瞬間だった。
誠の背筋を鋭い感覚が走る。
反応が変わった。
近づいていた二つが一気に加速する。
「高科さん」
「ああ」
高科も異変を察したらしい。
短く応じた。
「来るな」
次の瞬間。
ドンッ!
轟音が船内に響いた。
艇全体が横殴りに揺れる。
由理の身体がシートに押し付けられた。
「きゃっ!」
「右へ!」
高科が操縦桿を切る。
《しおなぎ》が横へ滑るように進路を変えた。
その直後。
窓の外を猛烈な水流が通過する。
まるで巨大な透明の槍だった。
周囲の海水を巻き込みながら深海を切り裂いていく。
「高圧水流……!」
由理が息を呑む。
「厄介なのを持ち出してきたな」
高科が低く呟いた。
誠は意識を広げた。
攻撃方向。
速度。
相手の位置。
すべてが繋がる。
「やっぱり敵だ」
誠は静かに言った。
「追ってきていた二つが仕掛けてきた」
由理の表情が引き締まる。
正体不明の存在ではなくなった。
明確な敵だ。
自分たちを沈めるために来た敵。
その時、再び反応が動く。
今度は先ほどより速い。
「左後上方へ!」
誠が叫ぶ。
高科が即座に艇を傾ける。
わずか一拍遅れて高圧水流が通過した。
船体が震え、外殻が低く唸る。
「外殻応力上昇!」
由理がモニターを確認する。
「許容範囲内です!」
「ならまだ余裕はある」
高科の声は落ち着いていた。
だが誰も安心はしていなかった。
敵は様子見を終えている。
本格的に攻撃を始めたのだ。
深海の闇の中で二つの反応が左右へ広がる。
《しおなぎ》を挟み込むような動きだった。
誠はその軌道を追う。
そして同時に、意識の一部をさらに下へ向けた。
海底近く。
そこにある二つの反応は変わらない。
静かなままだ。
それがかえって不気味だった。
追ってくる二つよりも。
むしろ、あちらこそが本命なのではないか。
そんな予感が消えない。
「嫌な布陣だな」
高科がぽつりと言った。
誠は黙ってうなずく。
深海の闇の中で、二つの敵影が距離を詰めてくる。
そのさらに下には、まだ姿を見せない二つの影。
見えない包囲網が、少しずつ形を作り始めていた。
《しおなぎ》はなおも降下を続ける。
海底六千メートルへ。
そして、本当の戦いが待つ場所へ向かって。
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