第73話 深海の敵 ー 水深四千
水深三千。
《しおなぎ》の外殻が再び軋み、
金属が押し潰されるような低い音が船内に響いた。
由理は肩を震わせ、
胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
(……この音、やっぱり怖い……
深海って、こんなに“押される”んだ)
高科は前方を見据えたまま、
操舵桿に軽く力を込める。
「ここから先は、海流の乱れが増える。姿勢制御に気をつけるぞ」
船体がわずかに揺れ、
内部の計器が低く唸った。
だが、その揺れは“海流”と呼ぶにはどこか不自然だった。
誠は目を閉じ、混線と戦いながら“線”に意識を沈める。
(……揺れが……近づいてきてる?
いや……まだ遠いのか。でも、方向が出てきた……)
胸の奥で、細い糸のような感覚が震えた。
深海の静けさに紛れるような微かな揺れ。
だが、その揺れは“自然の乱れ”とは違う、どこか“意図”を感じさせるものだった。
高木が端末を見て眉を寄せる。
「張力に微妙な乱れがあります。周期が……少し変です」
「……自然じゃない揺れだ」
誠は混線で揺れる“線”を必死に掴んだ。
(……見えない。でも……“何か”がいる)
◆
同じ頃、《ノルデン》の作戦室。
「S-05、S-06、海底へ向けて降下中。
S-07、S-08、日本側潜航艇の後方を遠距離で追尾しています」
通信士の声が静かに響く。
ハンスは深度図を見つめたまま言う。
「近づきすぎるな。
日本側に“気配”を悟らせないようにしろ。
配置につければこちらの勝ちだ」
妨害ユニットの軌跡が、深海の地形に沿って滑るように進んでいく。
その動きはまるで、闇の中を泳ぐ影のようだった。
技術員が端末を確認する。
「S-05、S-06、乱流帯に入ります。
……揺れが発生する可能性があります」
ハンスは静かに頷いた。
「いい。そのまま進め。深海では無理な動きはできるだけ回避したい」
◆
水深三千五百。
《しおなぎ》がゆっくりと降下していくと、船体がふっと横へ流れた。
高科が即座に操舵する。
「……今の、海流じゃない。誠さん、何か感じるか?」
誠は胸の奥の揺れを追った。
(……来た。遠いけど……“向きを変えた”……やはり敵か)
「……右後方から、揺れがある。まだ遠いけど……こっちに向いてる」
高木が息を呑む。
「敵……!」
誠は首を振る。
「まだ断定できない。でも……“動きがある”のは確かだ」
◆
水深四千。
深海は、ただ暗いだけの世界ではなかった。
水は重く、圧力は壁のように迫り、わずかな乱れが船体全体を揺らす。
その“わずかな乱れ”が、誠にははっきりとわかった。
(……揺れの“質”が変わった。これは……自然じゃない)
自然の海流は、ゆっくりとした周期で揺れる。
だが今感じる揺れは、周期が短く、方向が一定している。
まるで“何かが一定速度で近づいてくる”ような揺れだった。
高木が端末を見て声を上げる。
「誠さん、張力の乱れが……増えてます。
周期が……一定です」
「……一定周期の揺れは、人工物だ」
誠は目を細めた。
(……遠いのに、どうして揺れが出る?)
深海では、物体が動くと“水圧の分布”が変わる。
その変化は、周囲の水をわずかに押し、引き、流れを作る。
妨害ユニットが海底に沿って移動すれば、その“圧力の尾”が周囲に広がる。
それが《しおなぎ》の船体に、微細な揺れとして伝わる。
誠はその“圧力の尾”を感じ取っていた。
(……これは、敵の“影”だ。まだ遠いけど……確かに動いてる)
◆
突然、艇がぐっと左へ引かれた。
高科が操舵桿を握り直す。
「……おい、これは強いぞ。誠さん、方向は?」
「右前方……いや、少し下だ。……“尾流”が当たってるのか?」
高木が青ざめた顔で言う。
「尾流……?こんな深度で……?」
「深海では、人工物の動きは“水圧の影”として伝わる。自然の流れとは違う」
誠は混線で揺れる“線”を必死に掴んだ。
(……見えない。でも……“そこ”じゃない)
「高科さん、もう少し左……!」
高科が即座に反応し、艇を滑らせる。
直後――胸の奥の揺れが、すっと横へ流れた。
誠は息を吐いた。
「……今の、危なかった。尾流の“芯”に入るところだった」
高木が震える声で言う。
「芯……?」
「人工物が動くと、後ろに“押し流される帯”ができる。
そこに入ると……姿勢が崩れる」
由理は息を呑んだ。
(……何かが先回りしているというの?
そんなものが、深海で……?)
誠の指先は震えていた。
混線のせいで焦点が合わず、揺れの方向が二重にぶれて見える。
由理はその震えを見て胸が締めつけられる。
(……誠さんが、こんなに苦しんでるのに……私は、何もできない)
深海の闇はさらに濃くなり、
《しおなぎ》は静かに、しかし確実に――
“何か”の待つ深度へと沈んでいった。
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